数時間
クララ・ヴェインは、何も隠しているようには見えなかった。
だからといって、何も隠していないとは限らない。
リゼットはそこまで考えて、やめた。
人の顔を見て分かる仕事ではない。
「こちらです」
クララは一冊の帳簿を机へ置いた。
薄い。
先ほど見続けた王子の私物目録より、ずっと薄かった。
「これだけ?」
リゼットが聞く。
「通常閲覧できる分は」
「通常じゃない方は?」
「閲覧権限がありません」
「あなたにも?」
「あります」
クララは淡々と答えた。
「ですが、今ここで全部を開示する権限はありません」
リゼットはセドリックを見る。
「あなたは?」
「必要部分について照会しています」
「まだ?」
「今から確認するために来ています」
「遅い」
「昨日までは、この区間がどこから始まるのかまで確定していなかったんです」
「前に機密扱いだって分かってたでしょう」
「機密処理へ切り替わったことと、内部のどこまで必要かは別です」
クララが二人を見た。
「始めてよろしいですか」
「お願いします」
セドリックが先に答えた。
リゼットも椅子へ座る。
クララ・ヴェイン。
以前、通常の移送記録が途中から王族機密扱いへ切り替わっていたと確認した際、その処理担当者として名前が出ていた。
その本人を目の前にするのは初めてだった。
「第二王子殿下の遺体移送について確認します」
セドリックが言う。
「事故当夜、通常移送簿の記載が途中で終了しています」
「はい」
「その後、王族機密移送へ切り替えたのはあなたですか」
「手続きを行ったのは私です」
「命令を受けて?」
「当然です」
「誰から」
「認証された機密移送指示に基づきました」
「発出者は?」
クララは少し間を置いた。
「私が確認するのは、発出権限と認証番号です」
「人物名ではない?」
「常に個人名が付くものではありません」
セドリックが紙へ書く。
「では、今回確認した発出部署は」
「王璽尚書府系統です」
リゼットは紙へ目を落とした。
「尚書府から?」
「正確には、所定の権限系統から認証された指示です」
「誰が決めたかまでは?」
「私が処理した書面からは分かりません」
セドリックが口を挟んだ。
「今確認できるのは、尚書府系統の認証が付いていたことです」
クララが頷いた。
「はい」
机へ別の紙を出す。
番号。
日付。
処理種別。
王族機密移送。
そのほかに、リゼットが読んでもよく分からない記号がいくつか並んでいる。
「これが認証番号?」
「はい」
「番号だけ?」
「番号だけではありませんが、あなたが見る必要がある部分はそこでしょう」
「どうして分かるの」
「監察官から照会内容を聞いています」
無駄がない。
少し話しにくかった。
セドリックとは違う種類の話しにくさだった。
「移送の時刻を確認します」
セドリックが通常簿を開いた。
「事故現場から最初の引渡し」
時刻を読む。
「ここまでは通常記録です」
「はい」
「その後、機密移送へ切替」
「はい」
「次に通常記録へ戻るのは、葬送院への引渡し直前」
「その認識で構いません」
「その間の正確な引渡時刻と場所は」
「機密管理側です」
「あなたは知っている?」
「全部は」
「全部ではない?」
クララが自分の記録を見た。
「私は切替処理を担当しました。受け渡しの現場へ同行したわけではありません」
「機密側で誰が受け取ったかは?」
「私の担当範囲ではありません」
「誰へ渡したか分からないのに処理できる?」
「最終受領者を私が知る必要はありません」
リゼットが口を挟む。
「怖くない?」
クララが初めて少しだけ首を傾けた。
「何がですか」
「どこへ行くか知らない遺体の記録を移すの」
「私は遺体を移していません」
「記録を」
「記録なら、指定された管理区分へ移しました」
「その先で何が起きても?」
「それを判断する職務ではありません」
冷たく言ったわけではなかった。
むしろ、当たり前の説明をしているようだった。
リゼットはそれ以上言えなかった。
葬送院でも似たことはある。
遺体を処置したあと、儀礼の全工程へついていくわけではない。
記録部が何を書き、墓所側で誰が受け取るかまで、自分が全部知っているわけでもない。
だから同じだ、とは思わない。
ただ、分担されている仕事というものは、そういう形になることがある。
「この時刻」
セドリックが紙を指した。
通常移送簿の最後の時刻。
「それから、こちら」
葬送院側の受領記録。
リゼット自身が何度も見た時刻だった。
「間は?」
「通常記録では追えません」
「何時間?」
セドリックが二つの時刻を照合した。
リゼットも横から見る。
「こんなに?」
「はい」
「前に見たときより長くない?」
「前は機密区間の開始時刻を確定できていませんでした」
「今は?」
「切替処理の認証時刻が確認できました」
セドリックの指が一点で止まる。
そこから葬送院受領まで。
数時間。
事故現場から葬送院まで、普通に運ぶだけなら説明しにくい長さだった。
「その間、ずっと移動していたとは限りません」
クララが言った。
「分かってます」
リゼットは答えた。
「どこかに止まったかもしれない」
「そうとも限りません」
「どういうこと?」
「機密管理へ切り替わった時刻と、実際の移送行程が完全に一致するとは限りません」
また面倒だった。
「じゃあ、この数時間って何なの」
「通常簿から詳細を追えない時間です」
セドリックが答えた。
「それ以上ではありません」
「でも、何かはできる」
言ってから、リゼットは自分で止まった。
セドリックがこちらを見る。
「何ができます?」
「条件による」
「例えば」
「遺体の状態」
リゼットは指を折らなかった。
列挙すると、答えが決まっているように聞こえる。
「事故のあと、どの程度冷やされていたか。どこまで処置済みだったか。使える器具があったか。場所。処置する人間の技量」
「数時間あれば?」
「だから、時間だけでは決まらない」
「何もできない時間ではない?」
「それも言えない」
セドリックは少し黙った。
「右肩の痕を作ることは?」
リゼットはすぐに答えなかった。
クララが二人を見る。
「何の話ですか」
セドリックはリゼットへ視線を残したまま言った。
「現在確認中の身体所見です」
「私に共有される内容ですか」
「いいえ」
「では聞きません」
本当に聞かなかった。
リゼットは処置室で見続けた右肩を思い出す。
古い傷に見えるような痕。
ただし、まだ誰かが作ったと決めたわけではない。
「時間だけなら、できるかもしれない」
リゼットが言った。
「できる?」
「可能性がある、まで」
「必要な技量は?」
「何をしたか分からないのに、必要な技量は決められない」
「器具は?」
「同じ」
「場所は」
「同じ」
セドリックは筆を置いた。
「分かりました」
「それだけ?」
「今聞ける範囲は」
リゼットは少し意外だった。
もっと聞かれると思った。
「聞かないの?」
「答えが増えない質問をしても仕方ないでしょう」
「そういうこと言えるんだ」
「何だと思っていたんです?」
「全部書く人」
「必要なものだけです」
エリオの部屋でも聞いた言葉だった。
リゼットは何も言わなかった。
クララへの確認はまだ続いた。
通常簿から機密管理へ移す際、元の記録は消さない。
切替の事実を残す。
機密側で管理される情報を、通常閲覧側へ重複して記載しない。
「消したわけではない?」
リゼットが聞く。
「消していません」
クララの返答は明確だった。
「見える場所を変えました」
「そのせいで、こっちからは分からなくなった」
「機密記録とはそういうものです」
「便利ね」
「何に対してですか」
「隠すのに」
クララは少しだけ息を吐いた。
「機密事項を隠すための制度ですから」
「悪いことも?」
「悪いことを隠すための制度ではありません」
「でも隠せる」
「できます」
否定しなかった。
「同じ仕組みで、人を守ることもあります」
リゼットは答えなかった。
クララも続けなかった。
セドリックが認証番号を改めて確認する。
「この番号から、発出経路をさらに追えますか」
「監察権限が認められれば」
「申請します」
「その場合、私の担当を越えます」
「分かっています」
クララは必要な箇所へ署名した。
「私が確認できるのは以上です」
「その数時間に、遺体へ追加処置が行われたことは?」
「知りません」
「ルシアン殿下以外の遺体だと聞いたことは?」
「ありません」
「第二王子殿下が生きているという情報は?」
「ありません」
声も変わらない。
「事故死した第二王子の遺体を、王族機密移送として処理した。それが私の認識です」
セドリックは最後まで記録した。
「ありがとうございました」
「職務ですので」
クララは帳簿を閉じた。
帰る頃には廊下の灯りが増えていた。
「クララは嘘をついてると思う?」
リゼットが歩きながら聞いた。
「今の段階では判断しません」
「顔も変わらなかった」
「あなたが人の顔で判断するんですか」
「しない」
「なら、なぜ言ったんです」
「感想」
「そうですか」
二人で葬送院へ戻る。
セドリックの机ではない机に、また書類を広げた。
通常移送簿。
機密処理切替の認証記録。
葬送院受領記録。
三つを時刻順に置く。
「ここから」
セドリックが指す。
「ここまで」
リゼットが葬送院受領の時刻を見る。
「数時間」
「はい」
「何してたかは分からない」
「分かりません」
「誰が遺体を持ってたかも」
「通常記録からは」
「肩に何かしたかも」
「まだ分からない」
「なのに、この時間だけはある」
「それは確認できました」
リゼットは椅子へ座った。
先ほど見つけた所在不明の私物とは違う。
物がない理由はいくつもあった。
この時間は、記録が欠けたのではない。
正規の手続で、別の場所へ移されている。
「尚書府の番号も」
「あります」
「誰が出したかは?」
「認証経路をさらに追います」
リゼットは通常移送簿へ目を戻した。
「便利な言葉」
「昨日も聞きました」
リゼットは顔を上げた。
「昨日?」
「今日です」
「今日か」
二人とも黙った。
日付は変わっていない。
朝から遺体を見て、王子の部屋へ行き、私物を数え、食事を遅らせ、今は機密移送の時刻を並べている。
「長い」
リゼットが言った。
「数時間が?」
「今日が」
セドリックが窓を見た。
「それは同意します」
珍しくすぐ同意した。
「帰る?」
「これを書いたら」
リゼットは机に残った紙を見た。
「じゃあ早くして」
「努力します」
二人とも、もう時刻を確認しなかった。




