エリオの身体
月曜の朝、リゼットは処置室へ入る前に三枚の記録を持ってきた。
一枚は遺体の処置記録。
一枚はエリオ・レンの勤務資料。
もう一枚は履物の照合記録だった。
机へ置く。
すぐには開かなかった。
先に処置衣へ着替え、髪をまとめる。
仕事用の眼鏡を掛ける。
器具を確認する。
処置台の覆いを外した。
リゼットは身体の確認を始めた。
顔。
損傷部。
胸腹部。
皮膚の乾き。
保存状態。
右肩。
手。
足。
昨日までと同じ順だった。
調査のためではない。
最低限保存を続けている以上、毎日確認しなければならない。
死者の身体は、こちらが答えを出すまで同じ状態で待ってはくれない。
必要な処置をする。
時間を書く。
皮膚の変化も記録する。
右肩へ手が来た。
そこには、ルシアンの身体記録にある古傷とよく似た位置の痕がある。
けれど、古い深傷が何年も掛けて治った皮膚としては噛み合わない。
最初に触れたときから、そこだけは変わらなかった。
リゼットは痕の状態だけを書いた。
理由は書かない。
まだ分からない。
右手を取った。
掌を見る。
指。
爪の周囲。
少し硬くなった場所。
何度も何かを扱った手。
その仕事なら、すでに聞いている。
外套。
留め具。
革紐。
書類箱。
荷物。
王子の旅行支度。
リゼットは指の内側へ触れた。
昨日も見た。
その前にも見た。
新しい発見はない。
エリオの仕事で説明できる。
それだけだった。
足へ移る。
以前測った値と、現在の状態を見比べる。
事故後の変化。
保存による変化。
全部が最初のままではない。
それでも、残っているものはある。
足幅。
小趾側。
踵。
皮膚の硬くなった位置。
ルシアン本人が長く使っていた儀礼靴とは噛み合わなかった。
エリオの普段履きとは、複数の場所で合った。
足を覆いの下へ戻す。
処置が一段落したところで扉が叩かれた。
「入って」
セドリックだった。
手には紙がある。
「終わりましたか」
「最低限保存は」
「では、こちらも」
机へ資料を置いた。
「何?」
「エリオ・レンの人事情報と勤務記録。昨日までに確認した内容を、身元照合に使える範囲だけ整理しました」
「菓子は?」
「入っていません」
「借金」
「入っていません」
「酒」
「それも」
「つまらない」
「身元確認資料です」
リゼットは手を洗い、机へ来た。
資料を見る。
エリオ・レン。
二十六歳。
第二王子付き従者。
年齢はルシアンより一つ上。
体格は近い。
「これだけなら、似た人はいる」
リゼットが言った。
「います」
「王宮だけでも」
「でしょうね」
セドリックは反論しなかった。
「勤務内容」
別の欄を見る。
旅支度。
荷物。
革具。
紐。
外套や留め具。
それは手の所見と合う。
「履物は?」
「昨日の照合結果を添付できます」
「王子の靴も」
「もちろん」
リゼットは顔を上げた。
「本人じゃない方の証拠も入れるの?」
「ルシアン殿下本人との不一致も、身元再確認には必要でしょう」
「そうね」
「右肩は?」
「あなたの所見を」
「まだ説明できない」
「説明できない、と記録してください」
「それでいいの?」
「分からないものを分かったことにするよりは」
リゼットは紙へ目を戻した。
右肩はルシアンの記録へ近い。
けれど身体としては不自然。
本物のルシアンの外套と装身具が遺体にあった。
エリオ本人が、その一部を出発当日に正式に受領している。
それも事実だった。
身体がエリオに近いことと、王子の品が本物であること。
どちらかを間違いにすれば話は簡単になる。
間違いではなかった。
「今日は結論を出しますか」
セドリックが聞いた。
リゼットは処置台を見た。
「出したいから出すものじゃない」
「分かっています」
「揃ったら出る」
「揃いましたか」
答えなかった。
もう一度、身体へ戻った。
自分が書こうとしている所見に、身体そのものが耐えるか確かめるためだった。
足を覆いの下から出す。
エリオの二足の靴は、作られた時期も使い方も違う。それでも、小趾側と踵には同じ方向の癖が残っていた。遺体の左右の足も、その差と矛盾しない。
一足だけなら、革が偶然そう伸びたとも考えられる。二足が同じ足の使われ方を残し、その位置が遺体とも重なっていた。
手の痕は、それだけで個人を指すものではない。ただ、靴とは別に確認したエリオの勤務内容と噛み合う。年齢と体格も外れない。
別々に得た情報を重ねても、どこか一つを説明するために別の所見を曲げる必要がなかった。
残るのは、身体の名とは別の問いだった。右肩の痕と、王子本人の品。なぜそれらがこの身体にあるのかは、まだ説明できない。
リゼットは遺体の左手を持ち上げた。
指を一本ずつ見る。
傷んでいるところ。
何もないところ。
特別な印があるわけではない。
「王子らしくない手」
最初の頃、自分はそう見た。
その考えは間違っていた。
王子らしい手など、最初から知らなかった。
今見ているのは違う。
これは誰の仕事と合う手なのか。
その問いなら答えられる。
手を戻した。
「ハルヴェイ監察官」
「はい」
「書く」
セドリックは何も聞かなかった。
リゼットは机へ戻った。
正式所見に使う紙を出す。
最初の一行で止まった。
「どう書くのが正確だと思う?」
「内容はあなたが決めてください」
「文言」
「なおさら私が決めることではありません」
「役に立たない」
「これはあなたの専門所見です」
そうだった。
リゼットはペンを動かした。
現在、第二王子ルシアン・エルヴァ・ヴァレーヌとして収容・処置中の遺体について。
これまでの身体確認。
追加資料との照合。
最低限保存中の観察。
全部を書く必要はない。
根拠となる記録番号を付ける。
手の所見。
履物との照合。
年齢・体格。
勤務情報。
それぞれの記録を参照する。
最後の判断欄まで来る。
ペンが止まった。
「本人と一致、では強すぎる」
リゼットが言った。
「法的身元まであなたが確定するように読めます」
「じゃあ」
少し考える。
「高度な身体的一致」
セドリックが何も言わない。
「変?」
「いいえ」
「ルシアン殿下とされる遺体は、エリオ・レンの身体情報と高度に一致する」
声に出して読む。
「一つの印で本人と決める、という意味ではない。由来の違う記録と身体を重ねても、エリオとして矛盾が残らない。その範囲での一致」
「これなら?」
「あなたが言える範囲ですか」
「言える」
今度は迷わなかった。
書く。
続けて、右肩の痕について原因未確定。
遺体とともにあった王族用品についても、その存在と真正性は本所見では説明しない。
事故当夜の経緯も判断対象外。
そこまで書いた。
「ずいぶん残しましたね」
セドリックが言った。
「分からないから」
「でも身体は?」
リゼットは処置台を見る。
今までずっと、第二王子としてそこにあった。
「エリオだと思う」
「思う?」
「私が扱うなら」
言葉を選んだ。
「この身体は、エリオ・レンの身体として見る」
セドリックは数秒黙った。
「正式所見も同じですね」
「同じ」
「では受け取ります」
リゼットは署名した。
日付。
時刻。
王宮葬送官、リゼット・オルディス。
紙を渡す。
セドリックは内容を確認した。
「これで監察側も次の確認へ進めます」
「身元が変わる?」
「まだです」
分かっていたが、聞いた。
「葬送記録は?」
「現状の正式身元のままです」
リゼットは記録台帳を開いた。
身元欄。
第二王子ルシアン・エルヴァ・ヴァレーヌ。
そこに自分の手で別の名前を書く権限はない。
「消せないのね」
「あなたの所見だけでは」
「消したいとは言ってない」
「顔がそう言っています」
「顔は記録しないで」
「しません」
リゼットは身元欄には触れなかった。
その下の追加所見欄へ、提出した文書の番号を書き込む。
参照。
追加身体所見。
エリオ・レンとの高度な身体的一致。
ペンを置いた。
上には、ルシアン・エルヴァ・ヴァレーヌ。
下には、エリオ・レン。
二つの名が同じ頁に残った。




