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王宮葬儀人 ―リゼット・オルディスの葬送記録―  作者: 高遠雪斎
第三章「エリオ・レン」

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散湯の夜

最後の確認を終えたとき、手首が重かった。

 リゼットは記録紙へ時刻を書き、ペンを置いた。

 第二王子と記録された遺体は、今日も最低限保存のまま処置台にある。

 乾き方。

 皮膚の色。

 損傷部。

 右肩。

 手。

 足。


 必要なところを見て、必要な処置だけをした。

 新しく見つけたものはない。

 それで今日は終わりだった。

 覆いを戻し、器具を片づける。

 手袋を外すと、指が少し強張っていた。

 開く。

 握る。

 もう一度開く。

「痛い」


 声に出してから、痛いほどではないと思い直した。

 疲れているだけだ。

 革紐を触った。

 靴の内側を何度も確かめた。

 遺体の掌と指を触った。

 記録も書いた。

 今日は手を使いすぎた。

 リゼットは最後の器具を所定の場所へ戻し、処置室を出た。

 廊下にはまだ人がいる。


 王族の国葬準備が続いているため、日曜でも葬送院全体が静かになるわけではない。

 遠くで何か重いものを動かす音がした。

 声も聞こえる。

 リゼットはそちらへ行かなかった。

 自分の仕事は終わった。

 散湯へ入る。

 処置衣を脱ぎ、髪をほどいた。

 まとめていた部分が引かれていたのか、頭皮が少し痛い。

 指を入れて根元をほぐす。


 それから湯を出した。

 肩から浴びる。

 今日の湯は、熱くも冷たくもなかった。

 ちょうどいい。

 そのことに少し拍子抜けした。

 髪を濡らす。

 首筋。

 肩。

 腕。


 手。

 指先へ湯が流れる。

 リゼットは右手の親指を曲げた。

 付け根が疲れている。

 左も。

 今日は右の方がひどい。

 遺体の足へ靴を合わせるとき、革を支えていたせいかもしれない。

 指の腹を反対の手で押す。

 硬くなっているわけではない。


 ただ、押すと気持ちがよかった。

 今日見た手を思い出した。

 エリオ・レンが何年も扱っていたという革具と紐。

 同じ場所を何度も使えば、身体には残る。

 そこまで考えて、やめた。

 明日また見ればいい。

 石鹸を取る。

 手の甲から洗う。

 爪の際を一本ずつ。


 汚れはもう仕事のあとに落としている。

 それでも、何となく念入りになった。

 爪の横に何か残っているような感覚がする。

 見ても何もない。

「ない」

 確認してから、次の指へ移った。

 湯を流す。

 甘い匂いがした気がして、鼻を近づけた。

 石鹸だった。


 昼に食べた蜜の菓子ではない。

 鞄にはまだ一つ残っている。

 エリオが好んだという菓子。

 かなり甘かった。

 セドリックは普通だと言った。

 あれを普通と言うのは舌がおかしいのではないかと、今さら思った。

 本人に言えば否定するだろう。

 明日聞いてもいい。

 別に聞かなくてもいい。


 髪を洗う。

 目を閉じる。

 湯の音だけになる。

 姪へ菓子を送りすぎて姉に怒られた。

 約束したものを忘れて、また怒られた。

 二つが同じ話なのかは分からない。

 エリオなら二度ともやっていそうだ、と一瞬思った。


「知らないけど」

 本人に会ったことはない。

 それ以上考えるのをやめて、髪へ湯を流した。

 しばらくして、湯が少しぬるくなった。

 リゼットは温度を確かめ、もう少しだけ浴びた。

 疲れた指を開いて、水流へ向ける。

 掌。

 指の間。

 手首まで。

 手首を回すと、小さく音がした。


「今の何」

 もう一度回す。

 今度は鳴らない。

 気にしないことにした。

 リゼットは湯を止めた。

 静かになる。

 水滴が床へ落ちる音だけが続いた。

 布を取り、顔を拭く。

 首。


 肩。

 腕。

 最後に手を包んだ。

 指を一本ずつ拭く。

 爪の際。

 指の腹。

 手首。

 布越しに押すと、まだ少しだるい。

 明日には戻っているだろう。


 戻らなければ、そのまま仕事をするだけだ。

 髪の水気を取る。

 一度まとめようとして、途中でほどけた。

「もう」

 やり直す。

 濡れた髪はいつもより扱いにくい。

 今度はきちんと留まった。

 床へ落ちた髪を一本拾い、濡れた布と一緒に籠へ入れる。

 リゼットはもう一度、手のひらを布で拭いた。


 それから散湯を出た。


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