働いた手
日曜でも、王宮の仕事は止まらなかった。
リゼットは侍従部の部屋で、革の紐を見ていた。
「これを?」
「よく触っていました」
向かいにいる男が答えた。
第二王子付きの従者だったという。
エリオ・レンと同じ部署で働いていた。
机の上には、旅支度に使うものがいくつか並んでいる。
革紐。
留め具。
小さな金具。
書類箱を固定する帯。
荷をまとめるための縄。
どれも特別なものには見えない。
「毎日?」
リゼットが聞く。
「物によります」
「これは」
革紐を指す。
「旅の前はよく。平時でも外套や荷をまとめる時に使います」
「エリオだけ?」
「いいえ」
即答だった。
リゼットは頷いた。
それでいい。
セドリックが横で記録を取っている。
「第二王子付きの従者の中で、役割は分かれていましたか」
「ある程度は」
同僚が言った。
「殿下のおそばに立つ役もいれば、衣服や荷を担当する者もいます。エリオは旅の支度へ入ることが多かったですね」
「具体的には?」
「外套。靴。予備の衣服。書類箱。途中で使う荷物。馬車へ積む順番も」
「留め具も?」
リゼットが聞いた。
「はい。外套のものなら」
机の上の金具を見る。
先に確認したルシアン本人の留め具とは別物だった。
こちらは仕事用の見本だ。
「紐を強く締めることは?」
「あります」
「ほどくのは?」
「もちろん」
「何度も?」
同僚が少し笑った。
「旅の支度は、一度で決まれば楽なんですが」
「決まらない?」
「殿下の予定が変われば、全部変わります」
セドリックが筆を止めた。
「ルシアン殿下は予定を頻繁に変更した?」
「殿下だけとは限りません。宮廷の用事もありますし、警備上の都合もあります」
「では、そのたびに積み直す」
「ええ」
リゼットは革紐を見た。
結ぶ。
締める。
ほどく。
また結ぶ。
一度なら、手には何も残らない。
何度も、長く続ければ別だった。
「エリオは手袋を?」
「使うときもありました」
「いつ?」
「寒い日や、革を長く扱うときです。ただ細かい留め具は素手の方が早いと言ってました」
「本人が?」
「そうです」
リゼットはそこで初めて、机の横へ置かれた業務記録を見た。
セドリックが侍従部から正式に出してもらったものだ。
旅行支度担当。
荷物確認。
書類箱受領。
馬車積載補助。
同じ種類の記載が何度もある。
「この仕事、どれくらいやってたの」
「何年かは」
同僚が答えた。
「最初から全部ではありませんけど」
「慣れてた?」
「ええ」
「器用?」
そこで相手が少し考えた。
「器用というより」
「何」
「早いんです」
「同じでは?」
「違います」
今度は同僚が即答した。
「見栄えよく結ぶのは、もっと上手い奴がいました。エリオは、使える状態にするのが早い」
リゼットは興味を持った。
「雑?」
「雑に見えることはあります」
「怒られる?」
「あります」
同僚が笑った。
「上の侍従に、せめて殿下の荷くらいきれいにまとめろって」
「それで?」
「次は少しきれいにやる」
「次だけ?」
「だいたい」
リゼットは、昨日見た部屋の繕いかけの袖を思い出した。
針が刺さったまま。
糸も切られていなかった。
きれいに仕上げることより、使えるようにする方を先にする人間だったのかもしれない。
ただ、袖一枚と今の話だけで性格を決める気はなかった。
「旅程が変わったときは?」
セドリックが尋ねた。
同僚は椅子へ座り直した。
「それはよく口を出してました」
「口を出す?」
「上が決める前に、自分で案を言う」
「従者が?」
リゼットが聞いた。
「だから怒られるんです」
「どんな案?」
「荷物を二台に分けるとか。道が悪ければ別の門から出すとか。休憩場所を一つ飛ばすとか」
「勝手に変える?」
「勝手にはしません」
そこははっきり訂正された。
「案を出すんです。決めるのは上です」
「聞かれなくても?」
「安全に関わるときは」
セドリックが確認する。
「安全上の問題があると、自分から提案することがあった」
「はい」
「頻繁に?」
「毎回じゃありません」
「具体的な例は?」
いくつか出た。
雨で道が悪くなったとき。
予定していた馬車が遅れたとき。
同行者が増えたとき。
一人の荷を別の車両へ移した方がいいと提案したこと。
護衛と荷車の順番を替えた方がいいと言って、侍従長に叱られたこと。
「採用された?」
「半分くらいは」
「叱られたのに?」
「使える案なら使いますよ」
同僚は不思議そうに答えた。
英雄的な話ではなかった。
王子を救ったこともない。
危険を一人で引き受けたこともない。
ただ、仕事の途中で問題があれば、自分なりの案を出す。
採用されることもあれば、余計な口を出すなと言われることもある。
「分かりました」
セドリックが書類を閉じた。
「ほかに確認が必要になれば、改めてお願いします」
「はい」
同僚が立つ。
リゼットは机の革紐をもう一度見た。
「触ってもいい?」
今度は先に聞いた。
セドリックが侍従部の担当へ確認する。
許可が出た。
手に取る。
革は硬い。
幅もある。
強く引けば、指の内側へ当たる。
結び目を締める。
一度だけなら、痛いほどではない。
何十回も繰り返せば、皮膚の同じところへ力が掛かる。
「何か分かりますか」
セドリックが聞いた。
「まだ」
リゼットは紐を戻した。
「遺体を見てから」
葬送院へ戻る。
最低限保存の確認時刻が近かった。
処置室へ入ると、第二王子と記録された遺体は変わらず台の上にいた。
変わらず、という言葉がもう正確でないことには慣れていた。
覆いを外す。
状態を確認する。
乾き。
色。
損傷部。
必要な最低限の処置を先に行う。
セドリックは邪魔にならない位置で待った。
「手を見たい?」
リゼットが聞いた。
「あなたが通常の確認を終えてから」
リゼットは自分の作業を終え、記録した。
それから遺体の右手を取った。
「ここ」
指の付け根を示す。
「硬くなってる」
セドリックが近づく。
「見た目でも分かりますか」
「少し。でも触った方が分かる」
「私は?」
「触らないで」
「分かっています」
リゼットは指先で皮膚を確かめた。
掌。
指。
爪の周囲。
王族でも剣を扱う。
馬に乗る。
手を使わないわけではない。
それは最初から分かっている。
けれど、今確認しているのは「王子らしくない手」ではなかった。
エリオが繰り返していた仕事と、この手に残った使い方が噛み合うかどうかだった。
「今日聞いた仕事なら?」
セドリックが尋ねた。
「矛盾しない」
「どの部分が」
「ここ」
指の内側。
「紐や革を何度も引くなら、このあたりに力が掛かる」
「今日一日でできますか」
「無理」
「一週間?」
「仕事の量による」
「では、どのくらい」
「分からない」
セドリックは眉を動かさなかった。
「何が分かれば言えますか」
リゼットは遺体の手を見た。
「毎日どのくらい触ったか。手袋をどれくらい使ったか。革の硬さ。ほかの仕事」
「個人差も?」
「ある」
「利き手は?」
「それも」
「では、この痕だけから職業は決められない」
「うん」
セドリックが記録する。
「爪の周囲は?」
「細かい金具や紐をよく触る人なら荒れることはある」
「これも一致?」
「仕事とは合う」
「王子本人でもあり得ますか」
リゼットはすぐには答えなかった。
遺体の手を見る。
「あり得る」
「同じ痕が?」
「剣とか馬具とか、別のことを繰り返しても似たところは荒れるかもしれない」
「では、本人説を否定するものではない」
「これだけなら」
「エリオ説を証明するものでもない」
「これだけなら」
セドリックは書き終えた。
「でも、エリオの仕事とは整合する」
「そう」
言葉にすると弱かった。
それでよかった。
弱い証拠を強く書けば、あとで身体の方まで嘘になる。
「ほかの従者は?」
リゼットが聞いた。
「同じ仕事をする人間ですか」
「うん」
「確認しましょう」
「手も?」
「業務内容を」
「手は見ない?」
「生きている人間の手を全員あなたに見せる必要がありますか」
「比較にはなる」
「必要になれば考えます」
そこは相変わらずだった。
リゼットは遺体の手を台へ戻した。
指が自然な位置へ収まるよう整える。
「この手だけじゃ、エリオとは言えない」
「分かっています」
覆いを戻した。




