マリエルの店
店へ入ったとき、マリエルは客の裾にしゃがみ込んでいた。
「いらっしゃい。そこ座って」
顔も上げない。
「まだ何も言ってない」
「見れば分かるもの」
「何が」
「あなたが客じゃないこと」
リゼットは扉を閉めた。
壁際の椅子にはすでに布が積まれている。
「どこに座るの」
「その布どけて」
「客の?」
「違う。直し待ち」
「落としていい?」
「よくない」
「じゃあ自分でやって」
「今見たでしょう、手が塞がってるの」
マリエル・クローヴはそう言いながら、客の足元へ針を打った。
蜂蜜色に近い明るい栗色の髪を高めにまとめている。
今日の上衣も明るい色だった。
リゼットなら仕事にも普段着にも選ばない色だ。
「少し動いてください」
マリエルが客へ言う。
「そのまま一歩」
「これくらい?」
「もう少し。そう」
さっきまでリゼットに向けていた声とは違う。
手は速い。
裾を見る目も細かかった。
リゼットは自分で布を抱え上げ、椅子へ座った。
「来るなら先に言ってくれればよかったのに」
「言った」
「いつ」
「先週」
「先週は先に言ったことにならない」
「今日行くって言った」
「今日の何時かを言いなさい」
「仕事が終わったら」
「葬送官の『仕事が終わったら』なんて時間じゃないでしょう」
客が少し笑った。
リゼットは黙る。
マリエルは裾を確認し終えると立ち上がった。
「これで大丈夫です。明後日の夕方にはお渡しできます」
「明後日?」
「はい」
「明日の昼には無理かしら」
「無理です」
即答だった。
リゼットは少しだけ顔を上げた。
客も驚いたらしい。
「そこを何とか」
「急げば縫えます。でも仕上げを見る時間がなくなります。それでいいなら明日の昼でも」
「それは困るわ」
「私も困ります」
しばらくして、客は明後日で納得した。
マリエルが奥へ声を飛ばす。
「これ三番の棚。裾直し、明後日夕方」
奥から返事があった。
「明日って言われた?」
「言われた」
「断った?」
「断った」
「よかった」
誰なのか、リゼットには見えなかった。
マリエルは客を送り出し、ようやくこちらへ来た。
「で?」
「何」
「今日は何」
「寄っただけ」
「嘘」
「どうして」
「あなたが仕事のあとにわざわざ寄るときは、だいたい何かある」
「失礼ね」
「当たってる?」
リゼットは少し考えた。
「半分」
「じゃあ半分は何?」
「直しを頼んでた服」
「ああ」
マリエルが奥を見る。
「それならもうできてる」
「忘れてた?」
「忘れてない。今思い出した」
「同じでは」
「違うの」
奥へ入っていく。
その途中で別の職人に捕まった。
「マリエルさん、これ、袖の指定どっちです?」
「右が二寸詰め。左は触らない」
「逆って書いてあります」
「誰が書いたの」
「あなたです」
マリエルが紙を見る。
「私ね」
「どうします?」
「紙を直す。布はまだ切ってない?」
「まだです」
「偉い」
「危なかったんですけど」
「だから偉いの」
リゼットは椅子から見ていた。
マリエルが紙へ何か書き、職人へ戻す。
さらに奥へ行き、今度こそ衣服を持って戻ってきた。
「はい」
細身のスカートだった。
裾のほつれを直してもらっていた。
「確認して」
リゼットは受け取った。
縫い目を見る。
「ちゃんとしてる」
「当然でしょ」
「さっき左右間違えてた」
「あれは紙」
「紙も仕事でしょう」
「友達だからって厳しくない?」
「仕事だから見る」
「あなたに言われたくない」
マリエルはリゼットの姿を上から下まで見た。
そこで眉を寄せた。
「それ、またその色?」
「何が」
「服」
リゼットは自分を見る。
暗い色の上衣と、落ち着いた色のスカート。
仕事着ではない。
髪も下ろしている。
眼鏡も私用の濃い茶色だ。
「普通だけど」
「あなたの普通は暗すぎる」
「汚れが目立たない」
「今仕事じゃないでしょう」
「道を歩けば汚れる」
「そういう話じゃない」
マリエルは近くに掛かっていた上衣を一着持ってきた。
淡い黄褐色だった。
「これ着てみて」
「嫌」
「早い」
「明るい」
「だから」
「要らない」
「買えとは言ってない」
「着たら買わせるでしょう」
「よく分かってる」
戻した。
リゼットは直してもらったスカートを畳む。
「そんなに変?」
「変じゃない」
「ならいいでしょう」
「変じゃないから面白くないの」
「服に面白さが要る?」
「要る人には要る」
「私は要らない」
「私には要る」
「あなたの服じゃない」
マリエルが笑った。
「それでいいのよ。やっといつもの調子になった」
「何が?」
「入ってきたとき、疲れた顔してたから」
リゼットは眼鏡に触れた。
「そんなに?」
「そんなに」
「昨日、妹にも言われた」
「エミリアが正しい」
「二人で相談してる?」
「してない。見れば分かる」
店の奥からまた声がした。
「マリエルさん!」
「今度は何!」
「納品の人が来ました!」
「受け取って! 数も見て!」
「どれが今日の分です?」
「青札!」
声を返してから、マリエルがため息をついた。
「私、今すごく忙しいの」
「知ってる」
「なのに来た」
「帰ろうか?」
「それは腹が立つ」
「どっちなの」
「そこにいて」
勝手だった。
でも昔からそうだった。
リゼットが直した服を袋へ入れている間にも、マリエルは三度立った。
一度は納品された布の数が合わなかった。
一度は客が予約より早く来た。
一度は奥の職人が留め具をどちらにするか聞きに来た。
三度目にはマリエルが苛立った。
「もう好きな方にして!」
「本当に?」
「待って。今のなし」
自分で奥へ行った。
戻ってきたときには、髪から細い糸が一本ぶら下がっていた。
リゼットが指差す。
「ついてる」
「どこ」
「髪」
「取って」
「自分で」
「見えないんだから」
仕方なく取った。
短い赤い糸だった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
マリエルは椅子へ座った。
ようやく二人とも動かなくなった。
「で、残り半分」
「何が」
「来た理由」
「まだ覚えてたの」
「私は客の寸法も覚えてるのよ」
「紙は左右間違えるけど」
「帰っていいわよ」
「じゃあ帰る」
「座って」
リゼットは座ったままだった。
「別に相談ってほどじゃない」
「じゃあ何」
「最近、仕事で面倒なことが続いてる」
「王子さま?」
リゼットはマリエルを見た。
「王都中知ってるでしょう」
「第二王子が亡くなったことはね。あなたが葬送院にいることも」
「中のことは話せない」
「聞かないわよ」
あっさりしていた。
「じゃあ何を話すの」
「面倒ってことだけ」
「それで十分じゃない?」
マリエルは机の上にあった布切れを手に取った。
「誰と仕事してるの」
「いろいろ」
「その答え嫌い」
「監察官とか、記録部とか、儀礼部とか」
「監察官」
「うん」
「どんな人?」
「記録ばっかり見る人」
「名前は?」
「ハルヴェイ監察官」
マリエルは布を折った。
「それで、うまくいってる?」
「前ほど揉めなくなった」
「仕事はしやすくなった?」
「前よりは」
「ふうん」
それだけだった。
「何」
「何も」
「その顔」
「どの顔?」
「何か言いたそう」
「監察官の服って地味?」
予想と違う質問だった。
「地味」
「やっぱり」
「いつも似たような色」
「男の人って、同じ形を何着も作るのよね」
「あなたの客にも?」
「いる。寸法も布もほとんど同じで、毎年二着ずつ頼む人」
「楽でしょう」
「飽きる」
「客が楽ならいいじゃない」
「仕立屋にも感情はあるの」
「初めて聞いた」
「ひどい」
マリエルは笑った。
そこで店の扉が開いた。
「すみません、まだ大丈夫ですか」
若い女性が入ってきた。
腕に衣服を抱えている。
マリエルはすぐ立った。
「直しですか?」
「はい。明日どうしても着たくて」
マリエルがリゼットを見る。
さっきの客と同じだった。
リゼットは少し笑った。
「何」
「また明日」
「笑ってないで帰って」
女性から衣服を受け取る。
傷んでいる場所を見る。
今度はすぐに断らなかった。
「ここだけなら間に合います。でも、裏側まで直すなら明日は無理です」
「表から分からなければ大丈夫です」
「ならできます」
話が始まった。
リゼットは立ち上がった。
「帰る」
「うん。また来て」
「暇なときに」
「そんな日はない」
「じゃあ来られない」
「来なさい」
客と話しながら答えている。
リゼットは直したスカートの袋を持った。
「じゃあね」
「待って」
「何」
マリエルは客の衣服から目を離さず言った。
「次は、その暗い上衣じゃないの着てきて」
「持ってない」
「あるでしょう」
「どれ」
「前に私が作ったやつ!」
「あれ?」
「着てないの?」
「忘れてた」
マリエルがようやく顔を上げた。
「帰って」
「今帰るところ」
店を出た。
外はもう夕方だった。
通りを少し進んだところで、背後からマリエルの声が聞こえた。
「そこ切らないで! 先に留めて!」
別の声が何か返す。
「分かってるならやって!」
リゼットは振り返らなかった。
袋の中には、自分の直してもらったスカートが入っている。
マリエルの店では、もう次の服の仕事が始まっていた。




