美しくしてほしい
午後の遺体は、香りの強い花と一緒に運ばれてきた。
「花は処置室に入れないで」
リゼットが言うと、運搬を担当した職員が足を止めた。
「全部ですか」
「全部」
「ご家族からですが」
「あとで棺へ入れるなら儀礼部へ。ここには要らない」
職員は花籠を抱え直した。
「分かりました」
扉が閉じる。
ネリスが処置台の向こうで言った。
「もう少し言い方なかったんですか」
「花粉がつく」
「理由を先に言えばいいんですよ」
「あ」
「今さらです」
リゼットは受領記録へ目を落とした。
高位貴族の女性。
五十代。
長く病んだ末の死だった。
顔にはその時間が残っている。
頬が落ちている。
唇の色も薄い。
目元にも疲れがある。
ただ、病による変化を除けば、整った顔立ちだった。
「ご家族、先に話したいそうです」
ネリスが言った。
「今?」
「今」
「分かった」
袖覆いを外す。
手を洗い、処置室の外へ出た。
待っていたのは夫と、成人した娘だった。
二人とも喪服だった。
夫の方が先に立った。
「妻を、きれいにしていただきたい」
「はい」
リゼットは続きを待った。
相手も、もう少し言葉を探しているようだった。
「病気になってから、ずいぶん変わりました」
「顔ですか」
「顔も、身体も」
「病による変化は、整えられる範囲があります」
「そうではなくて」
男が止まる。
娘が横から言った。
「父は、生前よりきれいにしてほしいと言っているんです」
リゼットは二人を見る。
できないものはできない。
今も、その考え自体は変わっていない。
「生前より、というのは」
リゼットは尋ねた。
「どういう顔でしょう」
父娘が少し黙った。
「どういう、と言われると」
夫が困った顔をした。
「若く?」
「若い頃へ戻したいわけではない」
「皺をなくす?」
「それも違うと思います」
「なら」
娘が父を見る。
「お父さま、何て言ってたっけ」
「最後くらい、きれいな顔で送ってやりたい、と」
「それです」
リゼットは考えた。
「病気になる前のお顔へ近づける、ということならできます」
「それ以上は?」
夫が聞いた。
リゼットは言葉を選んだ。
「実際になかった顔を作ることはできます。でも、それを奥さまの顔としてお返しするのは、私は勧めません」
夫は黙っている。
拒まれたと思ったかもしれない。
リゼットは続けた。
「頬の落ち方や、口元の力の抜け方は病気によるものです。そこは整えます。肌の色も、できる範囲で落ち着かせます」
「皺は?」
「全部は消しません」
「なぜです」
声は怒っていなかった。
本当に理由を聞いている。
「どんな皺だったか、分かりますか」
逆に尋ねた。
夫が目元へ手をやった。
「笑うと、ここに」
自分の左の目尻を指す。
「片方だけ深く出ました」
娘が笑った。
すぐに口元を押さえた。
「そう。母は左だけすごく皺が寄るんです」
「右は?」
「右も少し。でも左ほどじゃない」
「昔から?」
「私が子どもの頃からです」
リゼットは頷いた。
「それなら、そこは残したいです」
夫が少しだけ目を細めた。
「残すんですか」
「病気でできたものではないので」
娘が父を見る。
「私はその方がいい」
「そうか」
「お父さまだって、あの顔知ってるでしょう」
「知っている」
少し間があった。
「では、お願いします」
「はい」
処置室へ戻ると、ネリスが待っていた。
「どうでした?」
「できる範囲で整える」
「普通ですね」
「普通でいいでしょう」
「そうですね」
リゼットは遺体へ向き直った。
まず洗浄。
髪。
皮膚。
病で失われた部分と、元からあるものを分けて見る。
家族の言葉。
過去の肖像が残っていれば、それも参考になる。
ただ、肖像は肖像だった。
描く側が整えていることもある。
今ここにある身体も見る。
リゼットは頬へ触れた。
落ち込みが強い。
病のために皮膚の下が痩せている。
ここを戻しすぎれば、若い顔になる。
少なすぎれば、病んだ最後の日々が残りすぎる。
「右、少し足す?」
ネリスが聞いた。
「まだ」
「左は?」
「先に口元」
唇の位置を整える。
顎の線を見る。
閉じた口元が強張って見えないよう、少しずつ調整する。
頬へ戻る。
左右を同じにしない。
「そこ、差を残すんですね」
「顔が違うから」
「左右?」
「うん」
生きている人間の顔は、完全には左右対称ではない。
死者だからといって、左右を揃える理由はなかった。
目尻へ移る。
左側に、細かな線が集まっている。
病で深くなったものも混じっているかもしれない。
全部をそのままにはしない。
けれど、消しもしない。
「ここ?」
ネリスが聞いた。
「残す」
「ご家族から?」
「笑うと左だけ深く出たって」
「なるほど」
ネリスはそれ以上言わなかった。
髪を梳く。
処置を続ける。
今日は、王子の右肩を見ない。
エリオの部屋も考えない。
街道の宿も、欠けた命令文も、今の身体には関係がない。
目の前にいるのは別の死者だった。
夕方近くになって、処置が終わった。
リゼットは少し離れた。
病で大きく落ちた頬は整っている。
口元にも、運ばれてきたときほどの力の抜けた感じはない。
肌にも手を入れた。
若返ってはいない。
左の目尻には線が残っている。
「きれい?」
ネリスが聞いた。
「何で私に聞くの」
「今日の依頼ですから」
リゼットは遺体を見る。
「整った」
「それ、答えになってないです」
「私はこれでいいと思う」
ネリスが一度だけ瞬きをした。
「前より答えるようになりましたね」
「そう?」
「たぶん」
「その返事、私の真似?」
「気のせいです」
遺族を呼んだ。
夫と娘が入ってくる。
二人とも、少し離れたところで一度止まった。
娘が先に近づいた。
顔を見る。
すぐには何も言わなかった。
夫も隣へ立つ。
「どうでしょう」
リゼットが聞いた。
自分からそう尋ねたあとで、違和感があった。
以前なら黙って相手が話すのを待っていた。
娘が顔を上げる。
「左、残したんですね」
「はい」
彼女はもう一度母親を見る。
「ここ」
自分の目尻へ指をやった。
「笑うと、もっと寄るんですけど」
「今は笑わないので」
一瞬、静かになった。
言い方を間違えたかと思った。
娘が吹き出した。
すぐに涙が出た。
「そうですよね」
笑ったのか泣いたのか分からない顔になった。
夫は妻の目尻を見たままだった。
「若い頃より」
彼が言った。
リゼットは待つ。
「今の方が、妻らしい」
娘が頷いた。
リゼットは返事をしなかった。
それを自分が決めることではない。
「ここは、もう少し直せますか」
娘が母親の髪の一部を指した。
「どこ?」
「耳の上。いつももう少し膨らんでいて」
「できます」
リゼットは櫛を取った。
ほんの少し髪を持ち上げる。
「これくらい?」
「もう少しだけ」
「こう?」
「あ、それです」
夫も見る。
「うん」
それで決まった。
大きな変更ではなかった。
記録へ追加するほどの処置でもない。
ただ、娘は満足したようだった。
「ありがとうございました」
「まだ納棺があります」
「はい」
リゼットはそこで仕事へ戻った。
装束を確認する。
袖を通す。
襟を整える。
家族が選んだ装身具の位置を確認する。
最後にもう一度、顔を見る。
左の目尻には皺が残っていた。
娘が指定した耳の上の髪だけが、ほんの少し高くなっている。
リゼットは櫛を作業台へ戻した。




