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王宮葬儀人 ―リゼット・オルディスの葬送記録―  作者: 高遠雪斎
第二章「死者の名」

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湯と夕食

家へ着いたとき、リゼットは玄関でしばらく立っていた。

 鍵を掛ける。

 外套を脱ぐ。

 靴を脱ぐ。

 そこまではいつもどおりだった。

 その先へ行くのが面倒だった。

「お腹すいた」


 誰もいない部屋で言った。

 腹は減っている。

 けれど、食事を作るのと腹が減っているのは別の問題だった。

 とりあえず鞄を机へ置く。

 中には、明日の朝にセドリックと確認する予定の写しが入っていた。

 第二王子の所持品記録。

 移送記録のうち、リゼットにも閲覧できる部分。

 今日確認した外套と留め具についての覚え書き。

 出しておいた方が朝に探さなくて済む。


 そう思ったが、鞄はそのままにした。

 先に湯へ入る。

 仕事用の服を脱ぎ、籠へ入れる。

 持ち帰ってよい衣服と、葬送院から出してはいけない処置衣は別だ。

 家にあるのは自分の衣服だけだった。

 髪をほどく。

 肩の下まで落ちてくる。

 浴槽へ湯を入れ終え、手を入れた。


「熱い」

 入れないほどではない。

 水を足す気にもならなかった。

 少し待つことにする。

 その間に台所へ行った。

 棚を開ける。

 パン。

 少し硬くなっている。

 卵はない。


「買うの忘れた」

 昨日まではあった。

 今日の帰りに買うつもりだった。

 いつそう決めたのかは覚えている。

 買うことだけ忘れた。

 ほかには、切り分けて残していたチーズと、野菜の酢漬けが少し。

 火を使えば温かいものも作れる。

 作れるだけだった。

 リゼットは棚を閉めた。


 今日はそれでいい。

 浴室へ戻る。

 もう一度湯へ手を入れた。

 まだ熱い。

 今度は水を足した。

 最初からそうすればよかった。

 浴槽へ脚を入れる。

 ゆっくり身体を沈めた。

 仕事場の散湯とは違って、湯は動かない。

 自分が動かなければ、同じ場所に溜まっている。

 肩まで浸かった。


「熱い」

 結局まだ熱かった。

 出るほどではない。

 少し身体を浮かせて、しばらく待つ。

 髪の先が湯へ入った。

 手でまとめて外へ出す。

 今日は何回、手を洗っただろう。

 数える気にはならなかった。

 最低限保存。


 通常案件。

 記録。

 外套。

 留め具。

 紙。

 何枚も触った。

 それより、肩と背中が重かった。

 浴槽の縁へ首を預ける。

 目を閉じる。


 移送記録の時刻が頭に浮かびかけた。

 考えなくていい。

 そう思ったというより、考える気力が残っていなかった。

 今考えても、機密記録は読めない。

 靴の木型もまだ来ていない。

 本物だった外套が急に偽物になるわけでもない。

 考える材料そのものが増えないのだから、浴槽の中で考えても仕方がない。

 リゼットは足を伸ばした。

 湯が揺れる。

 踵が浴槽の端に当たった。


「狭い」

 別に昨日より狭くなったわけではない。

 身体を丸め直す。

 しばらくすると、熱かった湯がちょうどよくなった。

 その頃には出る気がなくなっていた。

 どのくらい入っていたか分からない。

 もう一度目を開けたとき、湯は少しぬるくなっていた。


「入りすぎた」

 立ち上がる。

 身体が重い。

 温まったせいで軽くなると思っていたが、そうでもなかった。

 布で身体を拭き、髪の水分を取る。

 私用の上衣へ腕を通したところで、袖口から糸が一本出ているのに気づいた。

 引っ張ろうとして、やめた。

 余計にほどける。

 鋏で切ればいい。

 鋏を取りに立つほどでもないと思った。


「明日」

 何でも明日になっている気がした。

 濃い茶色の眼鏡を掛け、台所へ戻る。

 火は使わなかった。

 硬くなったパンを切り、チーズを載せる。

 酢漬けを皿へ出す。

 水を飲む。

 それで夕食にした。

 一口食べる。


 パンが思ったより硬い。

 噛めなくはない。

 二口目。

 やはり硬い。

 湯か何かに浸せばよかった。

 今さらだった。

 そのまま食べる。

 座っていると眠くなってくる。

 食事の途中で目を閉じそうになり、慌てて水を飲んだ。


「まだ寝ない」

 理由はない。

 皿くらい洗いたかった。

 食べ終える。

 皿を洗う。

 そこまではできた。

 布で拭くのはやめた。

 水切りの上へ置いておく。

 台所を出ると、机の上の鞄が目に入った。


「あ」

 資料。

 明日の朝。

 リゼットは鞄を開けた。

 中から紙束を取り出す。

 今日の外套確認。

 王家管理記録。

 工房側の写し。

 移送簿の閲覧可能部分。


 一枚だけ上下が逆だった。

 直す。

 それで終わりにするつもりだった。

 けれど、目が文字を拾った。

 第二王子ルシアン・エルヴァ・ヴァレーヌ。

 何度も見た名前。

 その下に外套の管理番号。

 修理記録。

 所有確認。


 今日、自分で見たものだった。

 本人の品。

 そこはもう疑う理由がない。

 次の紙。

 移送記録。

 途中にある王族機密移送への切替。

 こちらは中身が見えない。

 一方は確かめられた。

 一方は確かめられない。

 だから何だ、というところまで考える前に、欠伸が出た。

 リゼットは口元を押さえた。


「もういい」

 紙を閉じる。

 明日、セドリックと見る。

 今日は新しい記録もない。

 自分だけで考えても、見られないものは見られない。

 資料を机の端へ寄せた。

 片づけるなら棚へ戻した方がいい。

 朝、また出すことになる。

 そのままでいい。

 椅子から立ち上がる。

 寝室へ行きかけ、途中で何かを踏んだ。


「何」

 見る。

 自分の髪留めだった。

 さっき外して、そのまま落としたらしい。

 拾う。

 机へ置こうとして、資料があるのでやめた。

 棚へ置く。

 今度は眼鏡をどこで外すか考える。

 寝室でいい。

 袖口の糸がまた目に入った。

 切るのを忘れていた。


「明日」

 もう一度言った。

 寝台へ腰掛ける。

 茶色の眼鏡を外し、脇へ置いた。

 髪がまだ少し湿っている。

 乾かした方がいい。

 分かっている。

 布で何度か押さえた。

 途中で腕が止まった。


 もう十分な気がした。

 横になる。

 机には、明日の朝セドリックと確認する資料が出たままになっている。

 皿も、拭かずに水切りへ置いたままだ。

 卵も買っていない。

 袖の糸も残っている。

 どれも今夜でなければ困るものではなかった。

 リゼットは寝具を引き寄せた。

 灯りを消す前に、一度だけ机の方を見た。


 紙の端が重なっているのがぼんやり見えた。

 起きて揃える気にはならなかった。

 灯りを消した。


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