消えた時間
翌朝、セドリックが持ってきたのは靴の記録ではなかった。
「まだ?」
リゼットが聞くと、彼は机へ紙束を置いた。
「挨拶より先にそれですか」
「靴は?」
「照会中です」
「遅い」
「昨日も聞きました」
「昨日から一日経ってる」
「だから一日分進んでいます」
「どこまで?」
「確認先が増えました」
「増えただけ?」
「増えるのも進展です」
納得できなかった。
リゼットは紙束を見る。
「これは?」
「移送記録です」
第二王子とされる遺体が、事故現場から王宮葬送院へ届くまでのものだった。
リゼットも受領時の書類は見ている。
だが、その前を通して追ったことはなかった。
「身元再確認の範囲に入りました」
セドリックが椅子を引く。
「事故現場で回収されてから、あなたが受け取るまでを確認します」
「医官のところも?」
「含みます」
最初の記録を開いた。
事故発生後の回収。
引き渡し。
医官による確認。
移送。
誰が受け取ったか。
どこへ運んだか。
記録された時刻。
リゼットは文字を追う。
遺体そのものを見るときとは違う。
紙の上では、身体は一度も動かなかったように見える。
時刻と署名だけが先へ進んでいく。
「ここまでは普通?」
「王族案件としては」
セドリックが答えた。
「警備人数は多いですが、引き渡しの形式自体に大きな違いはありません」
次の紙へ進む。
リゼットは時刻を見る。
その次。
さらに次。
「ここは?」
指を止めた。
それまで続いていた移送先と引渡時刻の欄が、途中で変わっている。
空白ではない。
文字はある。
ただ、具体的な経路が書かれていなかった。
「王族機密移送」
リゼットが読んだ。
「はい」
「どこへ?」
「通常の閲覧簿には出ません」
「時間は?」
「開始時刻まではあります」
「終わりは」
「次に通常記録へ戻った時刻です」
リゼットは前後を見る。
間に時間がある。
「このあいだは?」
「別管理です」
「記録がないの?」
「違います」
セドリックはすぐに否定した。
「通常簿から見えないだけです。王族機密として別の記録へ切り替わっています」
「じゃあ見せて」
「あなたには閲覧権限がありません」
即答された。
リゼットは彼を見る。
「今、私の遺体疑義を調べてるのに?」
「だからといって権限まで付与されません」
「不便」
「制度というものは、あなたの便利のためにはできていません」
「あなたは見られる?」
「必要範囲なら申請できます」
「なら見て」
「そのつもりで来ました」
言い返せなかった。
セドリックは紙を一枚抜いた。
「切替処理をした担当者の名は、通常簿にも残っています」
末尾を示す。
クララ・ヴェイン。
「知ってる?」
「名前だけです。機密文書の処理担当」
「その人が記録を隠した?」
「そういう言い方はしないでください」
声が少し硬くなった。
「王族案件を機密管理へ切り替えること自体は制度上あります」
「でも、ここだけ見えない」
「私たちから見えないことと、不正に隠されたことは同じではありません」
リゼットはもう一度名前を見る。
クララ・ヴェイン。
それ以上の情報は、今の紙にはなかった。
「どれくらい掛かる?」
「閲覧申請ですか」
「うん」
「今日中には確認します」
「靴より早い」
「比べないでください」
セドリックが書類をまとめた。
「あなたは?」
「何が」
「この時間で、身体に何ができるか分かりますか」
リゼットは顔を上げた。
「時間だけじゃ分からない」
「たとえば数時間あれば?」
「だから、それだけじゃ分からない」
彼は黙って待った。
以前なら「立証できますか」と聞いていた。
今は違った。
何が必要なのかを聞いている。
リゼットは考える。
「事故後の身体が、どの状態だったか」
「損傷?」
「それも。どれくらい冷えていたか。死亡してからどのくらい経っていたか。途中で何をされたか」
「器具も?」
「何をするかによる」
「技術を持つ人間は?」
「必要」
「場所は?」
「必要な処置なら」
セドリックが書き留めていく。
「つまり、時間だけでは判断できない」
「そう」
「逆に、それらが揃えば?」
「何をしたいかによる」
「たとえば傷を変える」
右肩が頭に浮かんだ。
だが、リゼットはすぐには答えなかった。
「古い傷に見せる、という意味?」
「そこまでは言っていません」
「なら、質問が曖昧」
「では、今は曖昧なままで」
セドリックは手帳を閉じた。
「この区間で何かが行われた、と決まったわけではありません」
「分かってる」
「念のため」
「あなた、私がすぐ決めつけると思ってる?」
セドリックが少し考えた。
「むしろ逆です」
「何が」
「決めないので時間が掛かる」
「あなたもでしょう」
「最近そうなってきました」
冗談なのか、判断しにくかった。
セドリックは書類を持って記録部へ向かった。
リゼットは処置室へ戻った。
第二王子とされる遺体は、昨日と同じ場所にある。
最低限保存を続ける。
覆いを外し、状態を見る。
右肩にも目をやる。
痕は変わらずそこにあった。
移送記録の途中に何時間か見えない部分があったからといって、この痕の意味が変わったわけではない。
触れ方。
周囲の皮膚の引かれ方。
以前に記録した内容を読み直す。
今の状態も書き加えた。
昼を過ぎても、セドリックは戻らなかった。
ネリスが別の作業を終えて入ってくる。
「監察官は?」
「記録部」
「ずっと?」
「機密記録を見てる」
「オルディスさんは見られないんですか」
「見られない」
「怒りました?」
「怒ってない」
「そうですか」
ネリスは何も言わなかった。
「何」
「何も」
最近、周囲がその返事を使うことが増えた気がした。
午後になって、セドリックが戻ってきた。
朝より紙が少ない。
手にしているのは、自分で取った覚え書きだけだった。
「見られた?」
「必要範囲は」
「どこへ運ばれてたの」
「そこまで共有できる状態ではありません」
「何それ」
「機密記録の内容を、そのままあなたに渡す権限はありません」
「じゃあ何が分かったの」
「まず、記録そのものは存在します」
「消えてはいない?」
「はい」
セドリックは椅子へ座った。
「通常の移送簿が、途中から王族機密移送へ正式に切り替えられています。切替の開始と、通常管理へ戻った時点は確認できました」
「その間の引き渡しは?」
「あります」
「時刻も?」
「あります」
「なら空白じゃない」
「記録上は」
リゼットは彼の言葉を待った。
「ただし、通常簿だけを見ていたら、その間の詳細は追えません」
「私は見られない」
「そうです」
「クララ・ヴェインは?」
「切替処理の担当者として記録されています」
「本人に聞く?」
「必要なら」
「今は?」
「まず、前後の記録と照合します」
セドリックは朝の移送記録を開いた。
「機密扱いだから詳しく書かれていないのではなく、詳しい記録を別の場所へ移した。そこは区別した方がいい」
「うん」
「何か不正があったという証拠には、まだなりません」
「うん」
「ただ」
そこで止まった。
「何」
「あなたが遺体を受け取る前に、通常の移送記録からは見えない区間があることは確かです」
リゼットは時刻を見る。
「この長さで何ができたか、聞きたい?」
「聞きたいです」
「まだ答えられない」
「何が要る?」
「その区間で身体がどこに置かれていたか。温度。途中で医療処置があったか。誰が触れたか。使えた器具」
「全部、記録側ですね」
「たぶん」
「では私が追います」
「見つかったら教えて」
「あなたに説明できる範囲で」
「そこ、毎回言うの?」
「必要なので」
自分で確かめられないのは不便だった。
それでも、リゼットにはその記録を自分で開くことができない。
セドリックには、遺体の右肩に何が起きているかを自分で判断できない。
机の上には、通常簿が開いたままになっていた。
時刻。
引渡者。
経路。
それらが並んだ途中に、「王族機密移送」の文字がある。
その先で、また通常の記録へ戻っている。
紙の上に、抜けた行はなかった。
リゼットは開始時刻と、その次に読める時刻をもう一度見た。
間の時間にも記録はある。
ただ、自分にはまだ、その中身が見えなかった。




