リア
妹の家の扉を開けた途端、足音がした。
「おばちゃん!」
呼ばれたと思ったときには、もう遅かった。
リゼットの腹へ小さな身体がぶつかった。
「痛い」
「痛くないよ」
「私は痛い」
腰へ回った腕を外そうとしたが、リアは離れなかった。
五歳になってから、以前より重い。
本人にはその自覚がないらしい。
「ただいまじゃないでしょう」
奥からエミリアの声がした。
「ここ、あなたの家じゃないから」
「おばちゃん来た!」
「それは見れば分かるわ」
エミリア・ローデンは姉より柔らかな顔立ちをしている。
年は五つ下だ。
髪を後ろでまとめ、片手には濡れた布を持っていた。
「いらっしゃい」
「うん」
「顔、疲れてる」
「そう?」
「そう」
エミリアの目が眼鏡へ移った。
その前にリアが指を差した。
「今日は茶色のめがね」
「今日は、じゃない。仕事じゃないときはこれ」
「銀のは?」
「仕事」
「なんで?」
「見え方は同じよ」
「じゃあ同じでいいじゃん」
返事に困った。
「それはそうね」
「認めるの?」
エミリアが笑った。
リアはようやく腰から離れたと思ったら、今度はリゼットの手を引いた。
「こっち」
「何」
「見せるものある」
「先に手を洗わせて」
「あと」
「先」
「あと!」
「先」
二人でしばらく動かなかった。
リアがエミリアを見る。
「おかあさん」
「手を洗ってから」
味方を得られなかった。
口を尖らせながら、リアは手を放した。
「すぐ?」
「すぐ」
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶんはだめ」
「じゃあ、すぐ」
ようやく洗い場へ行くことができた。
仕事場では散湯を使ったし、手も何度も洗っている。
それでも人の家へ入って食事をする前には、もう一度洗う。
水を拭いて戻ると、リアが床にしゃがんでいた。
紙の上に、何かを並べている。
「これ」
木の欠片だった。
「何?」
「家」
「どこが?」
「ここが屋根」
指されたものは、どう見ても横倒しになった棒だった。
「倒れてる」
「倒れてない!」
「でも」
「倒れてないの!」
怒られた。
リゼットは黙った。
「姉さん」
エミリアが横を通りながら言う。
「五歳児の建築に構造上の指摘をしないで」
「屋根が倒れてたから」
「そういうところよ」
リアが木の欠片を一つ動かした。
「ここがおばちゃんの部屋」
「狭い」
「姉さん」
「分かった」
今度こそ黙った。
夕食の用意はほとんど済んでいた。
温かいものが皿へ盛られ、パンが切られている。
リゼットが椅子へ座ると、リアが隣の椅子ではなく、その膝へ登ろうとした。
「自分の椅子があるでしょう」
「ここがいい」
「食べづらい」
「リアも」
「二人とも食べづらくなるだけ」
それでも登ってきた。
膝へ尻を落ち着け、当然のように机へ手を伸ばす。
「重い」
「重くないよ」
「前より重い」
「大きくなったの」
「なら重いでしょう」
リアが振り返った。
何か間違ったことを言われたような顔をしている。
「重くない!」
「大きくなったら」
「姉さん、やめなさい」
エミリアが皿を置いた。
「嫌われるわよ」
「もう嫌い!」
リアが即答した。
「降りて」
「やだ」
「嫌いな人の膝に乗らないで」
「乗る」
規則が分からない。
エミリアは向かいに座りながら笑っていた。
「それで、ちゃんと食べてる?」
「今食べてる」
「今日の話じゃない」
「食べてる」
「何を」
リゼットは考えた。
「パンとか」
「とか?」
「卵」
「野菜は」
「食べる」
「いつ」
「尋問?」
「監察官とばかり話してるから、普通の質問までそう聞こえるのよ」
リゼットは顔を上げた。
「監察官とばかりじゃない」
「そうなの?」
「仕事だから会ってるだけ」
「何も聞いてないけど」
「今、監察官って」
「王宮が大変なんでしょう、とは思ってるわよ」
エミリアはそれ以上聞かなかった。
第二王子が亡くなったことは、王都中が知っている。
姉が王宮葬送院で働いていることも知っている。
しかし、その遺体が今どうなっているのかまでは聞こうとしなかった。
「寝てる?」
代わりに尋ねてきた。
「寝てる」
「何時間」
「分からない」
「それ、寝てない人の答え」
「寝てるって」
膝の上でリアが身を乗り出した。
「わたし昨日いっぱい寝たよ」
「そう」
「でも朝まだ眠かった」
「じゃあ足りてない」
「いっぱい寝た!」
「姉さん」
「何」
「五歳児と睡眠時間で張り合わないで」
「張り合ってない」
リアは話を聞かず、リゼットの皿へ手を伸ばした。
「それ、おばちゃんの?」
「そう」
「ちょうだい」
「自分のがあるでしょう」
「そっちがいい」
「同じよ」
「ちがう」
「同じ鍋から取った」
「でもそっち」
また規則が分からない。
仕方なく一口分を取り分けようとしたところで、リアが自分で匙を掴んだ。
「あ」
傾いた。
中身の一部がリゼットの袖へ落ちた。
少し間があった。
リアが袖を見る。
リゼットも見る。
「ついた」
「ついたね」
「ごめんなさいは?」
エミリアが言う。
リアはしばらく考えた。
「ちょっとだけだよ」
「量を聞いてない」
「ちょっとだから大丈夫」
「誰に似たの、この理屈」
「少なくとも私じゃない」
「かなり姉さんよ」
納得できなかった。
エミリアが布を持ってくる。
リゼットが自分で拭こうとすると、リアも布へ手を出した。
「リアがやる」
「余計広がる」
「やる!」
「じゃあ、ここだけ」
濡れた布を持たせる。
リアは袖を強くこすった。
「強すぎる」
「取れない」
「押さえるだけでいい」
今度は押しつけた。
「取れた?」
「まだ」
「もっと」
「もういい」
「まだある!」
袖を取り返すまで少し時間がかかった。
食事が終わる頃には、リアの声が大きくなっていた。
意味もなく椅子へ立とうとし、エミリアに座らされる。パンの端も食べない。
リゼットが口を挟もうとすると、エミリアが首を振った。
触らない方がいいらしい。
「眠いんじゃない?」
それでも言ってしまった。
「眠くない!」
リアが怒った。
分かりやすかった。
「眠い人ほど」
「眠くない!」
「姉さん」
「はい」
リゼットはパンを食べた。
しばらくすると、リアは椅子を降りた。
「靴ない」
「脱いだでしょう」
エミリアが言う。
「ないの」
「二つとも玄関よ」
「一個しかない」
「そんなわけ」
三人で玄関を見る。
確かに一足分のうち、片方しかなかった。
「どこへやったの」
「知らない」
「履いて帰ってきたでしょう」
「知らない!」
リアはもう泣きそうだった。
エミリアが額を押さえる。
「今日はもう裸足でいいわ」
「やだ」
「家の中でしょう」
「二ついる」
「履かないのに?」
「いる!」
理屈は完全に失われていた。
リゼットは椅子から立った。
「探す?」
「姉さんまで探さなくていいわよ」
「でも、うるさい」
「聞こえてる!」
リアが泣いた。
「ほら」
「私?」
「姉さん」
結局、三人で片方の靴を探した。
机の下。
椅子の後ろ。
寝台の脇。
木の欠片で作った家の近く。
見つからない。
「もう明日でいい」
エミリアが言うと、リアは泣きながら首を振った。
「今日!」
「今日は履かないでしょう」
「今日いる!」
最後には、リゼットの膝へ再び乗ってきた。
「靴は?」
「探す」
「今?」
「あと」
さっき自分が言われた言葉だった。
リアは返事をしなかった。
腕をリゼットの腹へ回し、茶色の眼鏡へ額をぶつけてきた。
「眼鏡に当たる」
「眠くない」
「聞いてない」
「眠くないから」
「分かった」
数分もしないうちに、身体の重みが増した。
エミリアが小声で言う。
「寝た?」
「たぶん」
「そのまま少し持ってて」
「重い」
「五歳だからね」
リゼットは言い返さなかった。
立てば起こしそうだった。
袖には、さっきの食べ物の薄い染みが残っている。
なくなった靴も、まだ見つかっていない。
リアはそんなことを気にせず、リゼットの膝の上で眠っていた。
しばらくして鼻がむずむずしたのか、顔を押しつける位置を変えた。
茶色の眼鏡が、また少しずれた。




