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王宮葬儀人 ―リゼット・オルディスの葬送記録―  作者: 高遠雪斎
第二章「死者の名」

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保留された棺

翌朝、処置室には本格保存用の器具が戻っていなかった。

 昨日まで並んでいた容器も、顔を整えるための道具もない。第二王子の装束は箱に収められたまま、壁際へ寄せられている。

 リゼットは仕事用の眼鏡を押し上げ、処置台の覆いを外した。

 まず、昨日の記録と見比べる。

 顔面の損傷。

 胸腹部。

 右肩。

 足。

 新しい違和感を探しているわけではなかった。


 止めた処置のあいだに、身体がどの程度変わったかを見る。

 一次保存の範囲で続けている冷却を確かめ、露出していた部分の状態を見る。損傷のある箇所は余計に動かさない。

 皮膚の色。

 乾き方。

 傷の縁。

 昨日と同じではない。

 大きく変わったわけでもない。

 それでも、死者の身体は待ってくれなかった。

 リゼットは記録紙へ書き込んだ。


 確認時刻。

 状態。

 継続した最低限の処置。

 昨日、遺体疑義書を提出したときには、止めるか進めるかを考えていた。

 止めたあとは、止めた身体を持たせなければならない。

「オルディスさん」

 扉から記録部の職員が顔を出した。

「院長がお呼びです」

「今?」

「今です」

 リゼットは記録紙へ布を載せた。


「これが終わってから」

「そう言うと思ったので、そう伝えてあります」

「じゃあ、どうして呼びに来たの」

「伝えたという報告です」

 職員はそのまま帰っていった。

 リゼットは遺体へ向き直る。

 必要な処置を終え、使ったものを片づける。

 そこでようやく院長室へ向かった。

 葬送院長の机には、儀礼部からの文書が二通置かれていた。


「座ってくれ」

 リゼットは座った。

「遺体疑義書は読んだ」

「はい」

「止めたことを責めるつもりはない」

「そうですか」

「先にそれを言わないと、お前は話を聞かないだろう」

「聞きます」

「顔に出ている」

 どこかで似たことを言った気がした。

 院長は一通目の文書を開いた。


「儀礼部からだ。国葬準備は予定どおり進めている。棺、装束、式次第、弔問の手配。遺体処置だけが未定のままだ」

「知っています」

「いつ判断できる」

「分かりません」

「明日か」

「分かりません」

「三日後なら?」

「同じです」

 院長が文書を机へ置いた。


「何が揃えば分かる」

「右肩の記録。靴の採寸と木型。身元確認がどう行われたか。ほかにも、監察側で確認できる記録があれば」

「全部揃うまで止めるのか」

「全部が必要かどうかも、まだ分かりません」

 院長はしばらく黙った。

 苛立っているようには見えたが、声は上げなかった。

「儀礼部へ何と返せばいい」

「期限は回答できないと」

「それで納得すると思うか」

「しないと思います」

「私もそう思う」


 二通目の文書を開く。

「保留が長くなれば、遺体の状態は悪くなる」

「はい」

「本格保存をしていれば維持できたものが、維持できなくなる可能性もある」

「あります」

「整復にも影響する」

「します」

「それでも止める?」

 リゼットは少しだけ考えた。


「昨日より悪くなったから、確認しないで進める、とはできません」

「そうだな」

 院長はあっさり言った。

 リゼットは少し拍子抜けした。

「止めるなとは言わない。疑義を出せる制度は、出してはいけない制度じゃない」

「はい」

「ただし、止めたあいだの身体はお前の担当だ」

「分かっています」

「なら、記録を残せ。どの時点でどこまで変化したか、本格保存をしなかったことで何ができなくなったか。後から誰かに聞かれても答えられるように」

「やっています」

「なら続けろ」


 院長は文書を閉じた。

「儀礼部には私から返す」

「ありがとうございます」

「礼を言うことではない。私が怒られるだけだ」

「すみません」

「そっちは言わなくていい」

 話は終わったらしい。

 リゼットが立ち上がったところで、院長が付け加えた。


「監察官が来ている」

「ハルヴェイ監察官?」

「正式な再確認に切り替わったそうだ。今度は定例確認ではない」

 処置室へ戻ると、セドリックはすでに記録部の職員と話していた。

 机の上には、見覚えのない書類が増えている。

「勝手に増やさないで」

 リゼットが言うと、セドリックが振り返った。


「私の机ではありません」

「私が使ってる机」

「記録部の机だそうです」

 職員が小さく頷いた。

 リゼットはそれ以上言わなかった。

「正式に再確認へ?」

「はい」

 セドリックが一枚の書類を見せた。


「昨日までは王族事故死に伴う通常の監察確認でした。今日からは、遺体疑義書に基づく身元再確認です」

「何が変わるの」

「確認する範囲が広がります」

「どこまで?」

「死亡確認以前から、葬送院へ到着するまで。誰が身体を見たか、誰が身元を確認したか、どの記録を根拠にしたか」

「靴は?」

「照会を続けています」

「遅い」

「一晩で速くはなりません」

「遺体の方は一晩で変わる」

 セドリックの目が処置台へ向いた。


「変化していますか」

「少しずつ」

「疑義の確認に影響する程度ですか」

「今はまだ」

「今は」

 セドリックがその言葉を繰り返した。

「どれくらい持ちます?」

「何が」

「確認できる状態が」


 リゼットは答えなかった。

 正確な期限など出せない。

 事故による損傷もある。一次保存までに掛かった時間もある。最低限保存で維持できる範囲にも限りがある。

「分からない」

「そうですか」

「でも、変わったら記録する」

 セドリックは少し考えた。


「記録があれば、後からでも判断できますか」

「全部は無理」

「何が残る?」

「その時点で私が見たもの」

「それは残してください」

「最初からそのつもり」

「でしょうね」

 以前にも、似たことを言われた。

 ただ、そのときは身体の記録を残すことと、監察官の調査は別々だった。

 今は同じ身元を確かめるために使われる。

 それだけだった。


「こちらからも確認します」

 セドリックが言った。

「身元確認者と移送記録を追います。何か身体側で追加の確認が必要になれば聞く」

「私も、記録で分からないことがあれば聞く」

「それで」

 握手をするでもなく、何かを約束するでもなかった。

 セドリックは書類へ戻った。

 リゼットも処置台へ戻る。

 しばらくして、儀礼部からもう一度問い合わせが来た。


「今日中には?」

「無理です」

「明日の朝なら」

「約束できません」

「棺封鎖の日程が決められません」

「今は封鎖できません」

「それは分かっています」


 相手の声にも疲れが混じっていた。

 誰かが悪いわけではない。

 儀礼部は儀礼部の仕事を進めなければならない。

 リゼットは自分の仕事を止めた。

 そのせいで、別の仕事が止まっている。

 だからといって、答えのないものへ答えを作ることもできなかった。

「分かり次第、連絡します」


 それだけ伝えた。

 昼前、もう一度遺体の状態を確認した。

 朝の記録を横に置く。

 同じ箇所を見る。

 処置できる範囲だけ手を入れる。

 顔にはまだ触れない。

 装束にも進まない。

 棺は待たせる。

 リゼットは最低限保存に使ったものを片づけ、記録紙を引き寄せた。


 処置内容を短く書く。

 その横の欄に、確認した時刻を書き込んだ。

 ペン先を離し、次に確認する時刻のための欄を空けたまま、記録紙を閉じた。


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