保留された棺
翌朝、処置室には本格保存用の器具が戻っていなかった。
昨日まで並んでいた容器も、顔を整えるための道具もない。第二王子の装束は箱に収められたまま、壁際へ寄せられている。
リゼットは仕事用の眼鏡を押し上げ、処置台の覆いを外した。
まず、昨日の記録と見比べる。
顔面の損傷。
胸腹部。
右肩。
足。
新しい違和感を探しているわけではなかった。
止めた処置のあいだに、身体がどの程度変わったかを見る。
一次保存の範囲で続けている冷却を確かめ、露出していた部分の状態を見る。損傷のある箇所は余計に動かさない。
皮膚の色。
乾き方。
傷の縁。
昨日と同じではない。
大きく変わったわけでもない。
それでも、死者の身体は待ってくれなかった。
リゼットは記録紙へ書き込んだ。
確認時刻。
状態。
継続した最低限の処置。
昨日、遺体疑義書を提出したときには、止めるか進めるかを考えていた。
止めたあとは、止めた身体を持たせなければならない。
「オルディスさん」
扉から記録部の職員が顔を出した。
「院長がお呼びです」
「今?」
「今です」
リゼットは記録紙へ布を載せた。
「これが終わってから」
「そう言うと思ったので、そう伝えてあります」
「じゃあ、どうして呼びに来たの」
「伝えたという報告です」
職員はそのまま帰っていった。
リゼットは遺体へ向き直る。
必要な処置を終え、使ったものを片づける。
そこでようやく院長室へ向かった。
葬送院長の机には、儀礼部からの文書が二通置かれていた。
「座ってくれ」
リゼットは座った。
「遺体疑義書は読んだ」
「はい」
「止めたことを責めるつもりはない」
「そうですか」
「先にそれを言わないと、お前は話を聞かないだろう」
「聞きます」
「顔に出ている」
どこかで似たことを言った気がした。
院長は一通目の文書を開いた。
「儀礼部からだ。国葬準備は予定どおり進めている。棺、装束、式次第、弔問の手配。遺体処置だけが未定のままだ」
「知っています」
「いつ判断できる」
「分かりません」
「明日か」
「分かりません」
「三日後なら?」
「同じです」
院長が文書を机へ置いた。
「何が揃えば分かる」
「右肩の記録。靴の採寸と木型。身元確認がどう行われたか。ほかにも、監察側で確認できる記録があれば」
「全部揃うまで止めるのか」
「全部が必要かどうかも、まだ分かりません」
院長はしばらく黙った。
苛立っているようには見えたが、声は上げなかった。
「儀礼部へ何と返せばいい」
「期限は回答できないと」
「それで納得すると思うか」
「しないと思います」
「私もそう思う」
二通目の文書を開く。
「保留が長くなれば、遺体の状態は悪くなる」
「はい」
「本格保存をしていれば維持できたものが、維持できなくなる可能性もある」
「あります」
「整復にも影響する」
「します」
「それでも止める?」
リゼットは少しだけ考えた。
「昨日より悪くなったから、確認しないで進める、とはできません」
「そうだな」
院長はあっさり言った。
リゼットは少し拍子抜けした。
「止めるなとは言わない。疑義を出せる制度は、出してはいけない制度じゃない」
「はい」
「ただし、止めたあいだの身体はお前の担当だ」
「分かっています」
「なら、記録を残せ。どの時点でどこまで変化したか、本格保存をしなかったことで何ができなくなったか。後から誰かに聞かれても答えられるように」
「やっています」
「なら続けろ」
院長は文書を閉じた。
「儀礼部には私から返す」
「ありがとうございます」
「礼を言うことではない。私が怒られるだけだ」
「すみません」
「そっちは言わなくていい」
話は終わったらしい。
リゼットが立ち上がったところで、院長が付け加えた。
「監察官が来ている」
「ハルヴェイ監察官?」
「正式な再確認に切り替わったそうだ。今度は定例確認ではない」
処置室へ戻ると、セドリックはすでに記録部の職員と話していた。
机の上には、見覚えのない書類が増えている。
「勝手に増やさないで」
リゼットが言うと、セドリックが振り返った。
「私の机ではありません」
「私が使ってる机」
「記録部の机だそうです」
職員が小さく頷いた。
リゼットはそれ以上言わなかった。
「正式に再確認へ?」
「はい」
セドリックが一枚の書類を見せた。
「昨日までは王族事故死に伴う通常の監察確認でした。今日からは、遺体疑義書に基づく身元再確認です」
「何が変わるの」
「確認する範囲が広がります」
「どこまで?」
「死亡確認以前から、葬送院へ到着するまで。誰が身体を見たか、誰が身元を確認したか、どの記録を根拠にしたか」
「靴は?」
「照会を続けています」
「遅い」
「一晩で速くはなりません」
「遺体の方は一晩で変わる」
セドリックの目が処置台へ向いた。
「変化していますか」
「少しずつ」
「疑義の確認に影響する程度ですか」
「今はまだ」
「今は」
セドリックがその言葉を繰り返した。
「どれくらい持ちます?」
「何が」
「確認できる状態が」
リゼットは答えなかった。
正確な期限など出せない。
事故による損傷もある。一次保存までに掛かった時間もある。最低限保存で維持できる範囲にも限りがある。
「分からない」
「そうですか」
「でも、変わったら記録する」
セドリックは少し考えた。
「記録があれば、後からでも判断できますか」
「全部は無理」
「何が残る?」
「その時点で私が見たもの」
「それは残してください」
「最初からそのつもり」
「でしょうね」
以前にも、似たことを言われた。
ただ、そのときは身体の記録を残すことと、監察官の調査は別々だった。
今は同じ身元を確かめるために使われる。
それだけだった。
「こちらからも確認します」
セドリックが言った。
「身元確認者と移送記録を追います。何か身体側で追加の確認が必要になれば聞く」
「私も、記録で分からないことがあれば聞く」
「それで」
握手をするでもなく、何かを約束するでもなかった。
セドリックは書類へ戻った。
リゼットも処置台へ戻る。
しばらくして、儀礼部からもう一度問い合わせが来た。
「今日中には?」
「無理です」
「明日の朝なら」
「約束できません」
「棺封鎖の日程が決められません」
「今は封鎖できません」
「それは分かっています」
相手の声にも疲れが混じっていた。
誰かが悪いわけではない。
儀礼部は儀礼部の仕事を進めなければならない。
リゼットは自分の仕事を止めた。
そのせいで、別の仕事が止まっている。
だからといって、答えのないものへ答えを作ることもできなかった。
「分かり次第、連絡します」
それだけ伝えた。
昼前、もう一度遺体の状態を確認した。
朝の記録を横に置く。
同じ箇所を見る。
処置できる範囲だけ手を入れる。
顔にはまだ触れない。
装束にも進まない。
棺は待たせる。
リゼットは最低限保存に使ったものを片づけ、記録紙を引き寄せた。
処置内容を短く書く。
その横の欄に、確認した時刻を書き込んだ。
ペン先を離し、次に確認する時刻のための欄を空けたまま、記録紙を閉じた。




