遺体疑義書
儀礼部から本格保存の日程を確認されたのは、靴を脱がせて足を測り直したあとだった。
「整復まで、どのくらい掛かりますか」
処置室の入口で職員が尋ねた。
リゼットは答えなかった。
第二王子の遺体には、まだ仮の覆いが掛けられている。顔面の損傷は大きく、本格的に整えるなら時間が必要だった。
その前に、保存を進めなければならない。
「装束側は明日からでも進められます」
職員が続けた。
「棺の準備も予定どおりです。こちらの処置日程だけ確認したいと」
「少し待って」
「どのくらい?」
「それを決めるところ」
職員は困った顔をしたが、それ以上は催促しなかった。
扉が閉じる。
リゼットは遺体へ戻った。
これまで続けてきた一次保存は、時間を止めるものではない。
本格保存へ進まなければ、身体は少しずつ変わっていく。
損傷のある遺体ならなおさらだった。
疑うために待てば、その間にも整えられる状態を失うかもしれない。
だからといって、確認できていない身体へそのまま不可逆的な処置を重ねれば、あとから確かめられるものを自分の手で失うことになる。
リゼットは右肩を見た。
古い記録と噛み合わない痕。
手には、継続して物を扱ってきたような跡。
足と、生前の第二王子が使っていた靴とのずれ。
一つずつなら説明できる。
右肩は、古い記録の粗さかもしれない。
手は、王子本人が日常的に使っていたものかもしれない。
靴は、使用頻度や別の履物の影響かもしれない。
それでも三つとも、まだ確認し終えてはいなかった。
机に置かれた処置記録を開く。
書いた文字は変わっていない。
変わったのは、その数だった。
「オルディスさん」
記録部の職員が紙束を持って入ってきた。
「過去の停止事例を持ってきました」
「ありがとう」
「身元関係だけでいいんですよね」
「今は」
机の端を空けてもらう。
死亡確認後に処置が止められた案件は多くない。
記録不足。
親族間での身元確認の食い違い。
搬送途中の混乱。
どれも今回と同じではなかった。
古い王族葬の記録も一冊混じっている。
頁をめくった記録部の職員が、短く説明した。
「これは戦地で遺体を回収できなかった例です。象徴棺を使っています。公開の国葬記録には棺の中身を書かず、機密の収容記録には遺体非収容と収容物だけを残しています」
「今回は遺体がある」
「そうですね」
次の頁へ進んだ。
それだけだった。
リゼットが探しているのは、遺体がない場合の葬送方法ではない。
目の前にある遺体へ、どこまで手を入れてよいかだった。
「停止した場合は?」
「重大な不一致を認めた葬送官は、不可逆的な処置を一時停止できます。遺体疑義書が受理されれば、正式な身元再確認へ移ります」
「最低限の保存は」
「継続です。放置する制度ではありませんから」
「分かった」
職員が次の記録を開こうとしたところで、扉の外から別の声がした。
「入っても?」
セドリックだった。
「どうぞ」
彼は机の上を見た。
「かなり増えましたね」
「増やしたのは記録部」
「頼んだのはあなたでしょう」
記録部の職員が無言で一歩離れた。
巻き込まれたくないらしい。
「靴の記録は?」
リゼットが聞く。
「照会中です。木型と採寸記録が残っているか確認しています」
「まだ来ない?」
「今日依頼したばかりです」
「遅い」
「普通です」
「遺体には普通の速さで待ってもらえない」
セドリックは反論しなかった。
処置台を見る。
「本格保存へ進むよう言われましたか」
「言われた」
「それで過去例を?」
「止めた場合の扱いを確認してる」
セドリックは机の上の記録を一冊取った。
「遺体疑義書」
「出せる?」
「出せるかどうかを決めるのは私ではありません」
「制度上の話を聞いてる」
「制度上は可能です」
リゼットは彼を見る。
「あなたなら?」
「それも答えません」
「監察官なのに?」
「だからです」
セドリックは記録を閉じた。
「身元確認記録は現在も有効です。私はそれを確認している。一方で、あなたは身体処置の責任者として不一致を記録している」
「そう」
「本格保存を進めれば、後から確認しにくくなる身体所見がある。止めれば保存状態に不利益が出る」
「分かってる」
「なら、あなたの職務判断です」
冷たい言い方だった。
けれど、責任を押しつけられた感じはしなかった。
セドリックが「止めろ」と言えば、リゼットはその指示に従うだけになる。
「進めろ」と言えば、身体のことを知らない監察官の判断を受け入れることになる。
どちらでもなかった。
リゼットは椅子を引いた。
「用紙をください」
記録部の職員がすぐに一枚出した。
遺体疑義書。
普段使う処置記録より項目は少ない。
その分、一つの文章が重かった。
リゼットはペンを取った。
最初に身元を書く。
第二王子ルシアン・エルヴァ・ヴァレーヌ。
次に、疑義の内容。
右肩後面。
既往の身体記録にある深い裂傷痕と、現在の身体所見との不一致。
ただし、過去記録自体に記載の揺れあり。
手。
掌・指・爪周辺に継続的な使用を思わせる所見あり。
身分・職務のみから不一致とは判断不能。
足。
本人が生前に使用した公式儀礼靴との照合で、足幅、趾の当たり、皮膚の硬化位置に整合しない部分あり。
事故後の身体変化、靴の使用頻度、普段履きの影響について未確認。
書いてみると、どの項目にも逃げ道があった。
それは欠点ではない。
リゼットは最後の欄で手を止めた。
疑義による処置上の要請。
ここだけは、曖昧にできない。
「別人とは書かないんですね」
記録部の職員が、少し離れたところから言った。
「書けないから」
「でも止める」
「このまま進めていいとも書けない」
ペン先を紙へ戻す。
身元確認に再確認を要する重大な身体的不一致あり。
確認終了まで、本格保存・整復その他、身体所見を不可逆的に変化させる処置の一時停止を要請する。
最低限の腐敗抑制措置は継続する。
書き終えた。
署名する。
リゼット・オルディス。
記録部の職員が紙を受け取った。
「提出します」
「お願いします。本格保存はここで止めます」
職員が出ていく。
リゼットは本格保存の準備をしていた職員へ指示を出した。
「そちらは下げて」
「全部ですか」
「本格保存用は全部。一次保存の継続に必要なものだけ残して」
「整復用も?」
「まだ使わない」
薬剤の容器が一つずつ運び出される。
深い処置に使う器具も布に包まれ、棚から下げられた。
顔面整復のため用意されていた道具も戻される。
国葬用の装束は箱へ収め直された。
靴もその横に置かれたままになった。
処置台のそばに残ったのは、身体の変化を抑えながら確認を続けるために必要なものだけだった。
広くなった作業台を、リゼットは一度見回した。
「これで?」
職員が聞いた。
「はい」
そこへ、先ほどの記録部の職員が戻ってきた。
「遺体疑義書、受理されました。正式な再確認に回します」
セドリックが机の端に残った記録をまとめる。
「監察側にも正式に回ってきます」
「そのときは?」
「再確認します」
「何を」
「あなたが身体で止めたものを、記録の側から」
リゼットは頷いた。
扉の外では、棺の準備をする音がまだ続いていた。
処置室の中だけが、その先へ進むのをやめていた。




