第八章 搦め手
影山が去ってから、五日が過ぎた。
表面上、何も起こらなかった。颯真も麗奈も、もう太陽に絡んでこない。教室の空気は、以前とは別物になっていた。だが龍見は、その静けさの中に、次の一手を仕込む足音を聞いていた。
嵐の前の静けさは、いつだって不気味なほど穏やかだ。
それが崩れたのは、火曜日の夕方だった。
「太陽、大変や……!」
学校から帰ると、母の陽子が青ざめた顔で店の前に立っていた。シャッターの脇に、一枚の紙が貼られている。
〈営業許可に関する指導事項について〉
保健所の名前が入った、事務的な書式だった。
「急に保健所の人が来てな……厨房の設備がどうとか、換気がどうとか、色々言われて……今すぐ改善せんかったら、営業停止もあり得るて」
陽子の声は震えていた。長年、何の問題もなく営業してきた店だ。急にこんな指導が入ること自体、不自然だった。
(影山の言うとった通りや。行政指導、税務調査、営業許可の見直し……)
龍見は、静かに紙を手に取った。文面は一見、正当な行政指導に見える。だが、極道として裏社会の駆け引きを見てきた龍見には、この不自然なタイミングと執拗さの裏に、誰かの意図が透けて見えた。
(匿名の垂れ込みやろな。証拠は残さん。せやけど、狙いは明白や)
拳では戦えない相手。法律という盾を掲げた相手には、法律で応じるしかない。
(せやけど、儂には、そっちの畑の知り合いがおらん……いや、一人だけ、おったな)
「おかん、心配せんでええ。儂に、考えがある」
その夜、龍見は鮫島に電話をかけた。
「鮫島、葛城先生は、まだ息災か」
「葛城先生……顧問弁護士の、あの葛城さんか?」
「せや。組の解散後、どうしとるか知っとるか」
「たしか、三宮で個人事務所やっとるはずや。連絡先、調べたる」
葛城真一。かつて六代目鈴鹿組の顧問弁護士を務めていた男だった。表社会と裏社会、両方の理屈を知り尽くし、決して違法な橋は渡らないが、依頼人のためにあらゆる合法的手段を尽くす、筋の通った男だった。龍見が生前、最も信頼していた「先生」の一人だ。
翌日の放課後、龍見は鮫島に連れられて、三宮の雑居ビルにある小さな法律事務所を訪れた。
「初めまして……で、いいんですかね」
白髪交じりの初老の弁護士は、デスクの向こうで眼鏡を押し上げながら、興味深そうに太陽を見つめていた。鮫島から事前に、ある程度の事情は伝えられているようだった。
「山札太陽です。突然、すみません」
龍見は、あくまで礼儀正しく頭を下げた。葛城は、しばらく無言で太陽の顔を見つめていたが、やがて小さく笑った。
「鮫島くんから聞いた時は、正直、眉唾やと思っとりました。せやけど……」
葛城は、机の上で指を組んだ。
「その座り方、話し方の間。とても高校生とは思えませんな」
「買い被りです」
「まあ、ええでしょう。信じる信じないは、この際、脇に置いときます。相談があるんやったら、聞かせてください」
龍見は、保健所からの指導書を差し出した。葛城は、それにさっと目を通すと、鼻を鳴らした。
「典型的な嫌がらせですな。行政指導自体は、形式的には適法や。せやけど、この執拗さと、匿名通報のタイミング……何者かが意図的に行政を動かしとる可能性が高い」
「対抗策は?」
「まず、指摘事項に真摯に対応する姿勢を見せる。これは大前提です。そのうえで、行政不服審査という手段もある。それに――」
葛城は、老獪な笑みを浮かべた。
「こういう嫌がらせを繰り返す相手には、こっちも記録を取り続けることが大事です。いつ、どんな指導が入ったか。その頻度、内容。異常なパターンが積み重なれば、それ自体が『組織的な嫌がらせ』の証拠になる。行政も、悪質な妨害工作に加担しとると分かれば、及び腰になりますからな」
龍見は、静かに頷いた。極道の理屈とは違う。だが、これもまた一つの「渡世の知恵」だった。
「先生、店の顧問を、正式にお願いできますか」
「ふむ……」
葛城は、しばらく黙考した後、静かに言った。
「六代目には、昔、大きな借りがありましてな。儂の娘が事件に巻き込まれた時、警察より先に、六代目の人脈が娘を見つけ出してくれた。あの恩は、まだ返しきれとらんのです」
葛城の目に、遠い記憶を辿るような色が浮かんだ。
「坊主が誰であろうと、関係ない。困っとる親子がおるんやったら、儂の仕事です。喜んで、力を貸しましょう」
事務所を出た後、鮫島が小さく笑った。
「葛城先生、気づいとったんちゃうか。お前の正体」
「かもな」
龍見は、夕暮れの空を見上げた。少しずつ、味方が増えていく。それは、独りで裏社会を渡り歩いてきた極道時代には、あまり感じたことのない温かさだった。
「太陽、それとは別に、報告がある」
鮫島の声が、真剣な色を帯びた。
「神楽坂の件、動きがあった」
「アリバイの証拠か」
「せや。事件当夜、現場近くのコンビニの防犯カメラ映像……本社のサーバーには、もう残っとらん。せやけど、当時の夜勤スタッフが、個人的にデータをコピーしとったいう情報が入った」
「その人間、辿り着けそうか」
「前田いう、元コンビニ店員や。今は店を辞めて、別の仕事しとる。ただ……」
鮫島の表情が、曇った。
「接触するには、慎重にならなあかん。天羽が、もし同じ情報を掴んどったら――」
その懸念は、翌々日、現実のものとなった。
「太陽、まずいことになった」
鮫島から電話が入ったのは、深夜のことだった。
「前田に接触しようとしたら、すでに別の人間が先に接触しとった。前田は今、怯えて、誰とも話したがらんらしい」
「天羽か」
「十中八九な」
龍見は、静かに拳を握った。相手は着実に、証拠を潰しにかかっている。
「前田の連絡先、分かるか」
「分かる。せやけど、警戒されとる。素直に会うてくれるかどうか……」
「儂が、直接会う」
「危険やぞ、太陽」
「危険は承知の上や。せやけど、この機を逃したら、証拠そのものが消される」
週末、龍見は鮫島の案内で、前田哲也という男が住むアパートを訪れた。三十歳前後の、疲れた顔をした男だった。ドアを開けた瞬間、前田の顔に警戒の色が走った。
「……誰だ、あんたら」
「山札といいます。少しだけ、お話を聞かせてもらえませんか」
龍見は、努めて穏やかな声で言った。だが前田は、ドアを閉めようとした。
「帰ってくれ。俺は、何も知らない」
「怖い思いをされたんですね」
龍見のその一言に、前田の手が止まった。
「先週、スーツを着た男が来て……映像のことなんか忘れろ、下手に首を突っ込むなって、脅されたんだろ」
前田の顔が、驚愕に染まった。
「な、なんで、それを……」
「同じ手口を、俺の友達にも使ってきた連中なんです。あなたも、被害者だ」
龍見は、静かに、しかし真摯な口調で続けた。
「あなたに、無理強いするつもりはありません。証拠を出せとも言いません。ただ、一つだけ聞かせてください。あの映像、まだ手元にありますか」
前田は、長い沈黙の後、小さく息を吐いた。
「……あんたも、危ない橋を渡ってるみたいだな。高校生には見えない目、してるよ」
前田は、疲れたように、ドアの隙間を少し広げた。
「正直、怖いよ。でも……あの脅してきた奴らの態度が、あんまりにも横柄でさ。頭にきてたんだ」
前田は、龍見の目をまっすぐに見た。
「まだ、コピーは残してる。誰にも言わずに、隠してある」
龍見の胸に、静かな熱が灯った。
「今すぐ出せとは言いません。ただ、大切に保管しておいてください。いずれ、正しい場所で使う時が来ます」
「……分かった」
前田は、小さく頷いた。
アパートを後にしながら、鮫島が感心したように言った。
「お前のそのやり方、颯真の時と同じやな。脅すんやなくて、寄り添う」
「極道の凄みだけやったら、恐怖で人を動かせても、信頼は得られん。儂は、もう極道やない」
龍見は、夜空を見上げた。
「山札太陽として、人の心を動かす。それが、今の儂の流儀や」
だが、その油断のない目の奥には、確かな緊張が宿っていた。天羽連合は、すでにこちらの動きを察知している。前田という証拠の在り処に、もう一度、魔の手が伸びてこないとも限らない。
(時間との勝負や)
龍見は、静かに歩を速めた。母の店を守る戦いと、龍見暗殺の真相を暴く戦い。二つの糸が、静かに、しかし確実に、一つに縒り合わされようとしていた。




