第九章 跡目
前田と接触してから、四日が過ぎた。
その間、龍見は表向き、何気ない高校生活を送っていた。だが水面下では、鮫島を通じて前田の様子を、遠くから見守り続けていた。
「前田の様子はどうや」
放課後、いつもの公園のベンチで、龍見は鮫島に尋ねた。
「今のところ、変わった動きはない。せやけど……」
鮫島の表情が、曇った。
「一昨日から、前田のアパートの近くに、見慣れん車が停まっとるいう情報がある」
「天羽か」
「断定はできん。せやけど、偶然にしては、出来すぎとる」
龍見は、静かに拳を握った。前田は、証拠を持っているというだけで、すでに危険にさらされている。あの日、軽々しく接触したことが、かえって前田を追い詰める結果になったのかもしれない。
(甘かったか)
いや、今さら悔いても仕方がない。渡世の理屈は、常に前を向くことだ。
「鮫島、前田を、一時的にどこかへ避難させることはできるか」
「考えとった。せやけど、下手に動かすと、逆に目立つ。向こうが本気で見張っとるんやったら、避難させようとした瞬間に気づかれる」
「……せやな」
龍見は、しばらく考え込んだ。極道の理屈なら、力ずくで守りを固めるところだ。だが今の龍見に、そんな駒はない。
「葛城先生に、相談してみるか」
「それがええかもしれんな」
その日の夜、龍見は葛城の事務所に電話を入れた。事情を話すと、葛城は少し考えてから、静かに言った。
「山札くん。こういう時こそ、法律の出番です」
「といいますと?」
「前田さんが持っとる映像は、殺人事件の重要な証拠になり得る。せやったら、警察に正式に証拠として提出させ、公的な保護対象にしてしまうのが、一番安全や」
「せやけど、そうなったら――」
「儂の正体が、表に出るかもしれん。分かっとります」
龍見は、葛城の言葉を先読みして、静かに頷いた。
「せやけど、それでも構へん。前田さんの安全が最優先や」
「そう言うと思っとりました」
葛城の声に、僅かな笑みが滲んだ。
「ただし、進め方には注意が必要です。証拠の提出は、正式なルートで、かつ迅速に行う必要がある。儂の方で、旧知の刑事に、内々に話を通してみましょう」
「刑事、ですか」
「六代目の時代から、儂と裏でやり取りしとった、信頼できる男です。表沙汰にせず、慎重に動いてくれるはずや」
電話を切った後、龍見は小さく息を吐いた。極道の力を借りず、法律と、信頼できる人間関係だけで、大切なものを守ろうとする。それは、龍見がこれまで生きてきた世界とは、まるで違う戦い方だった。
(せやけど、悪ないな。こういうやり方も)
翌日、鮫島から新たな情報がもたらされた。
「太陽、鈴鹿組の方で、妙な動きが出とる」
「跡目争いか」
「せや。神楽坂が、急に動きを活発化させとる。古参の幹部連中に、根回しを始めとるらしい」
「焦っとるんやろな。アリバイのことが、バレかけとると気づいて」
「それだけやない」
鮫島の声が、緊張を帯びた。
「神楽坂の対抗馬に、意外な名前が挙がっとる。西岡吾郎いう男や」
「西岡……聞いたことない名前やな」
「せやろうな。兄貴が現役の頃、まだ若頭補佐やった。地味やけど、義理堅い男や。神楽坂の急激な台頭に、危機感を持っとる古参連中が、担ぎ出そうとしとるらしい」
「その西岡いう男は、信用できるんか」
「儂の見立てでは、悪い男やない。せやけど……」
鮫島は、言葉を濁した。
「西岡の耳にも、お前の噂が届いとるかもしれん」
「生まれ変わりの噂、か」
「せや。もし西岡が、お前を六代目の生まれ変わりやと信じ込んで、担ぎ上げようとしてきたら……」
龍見は、静かに目を閉じた。鮫島の懸念は、もっともだった。母を守るための静かな戦いのはずが、いつの間にか、鈴鹿組そのものの跡目争いという、大きな渦に巻き込まれようとしている。
(儂は、組を継ぐつもりはない)
それだけは、揺るがない決意だった。太陽という少年の人生を、極道の看板を背負わせることで奪うつもりはない。だが同時に、鈴鹿組が神楽坂のような裏切り者の手に落ちることも、看過できなかった。
「鮫島、西岡いう男、一度、儂の目で見てみたい」
「会うんか、直接」
「いや、まだ早い。まずは、遠くから見極める」
その週末、龍見は鮫島の手引きで、西岡吾郎が経営するという小さな喫茶店を、外から見に行った。三宮の路地裏にある、古びた店構えだった。
「地味な店やな」
「西岡らしいやろ。組の解散後、目立たんように、堅気の商売しとる。せやけど、古参連中との繋がりは、今でも太いらしい」
店の窓越しに、恰幅のいい初老の男の姿が見えた。エプロン姿で、コーヒーを淹れている。その所作には、どこか誠実さが滲んでいた。
(悪い目はしとらんな)
龍見の観察眼が、静かにそう判断した。少なくとも、影山や神楽坂のような、腹の底の見えない冷たさはない。
「太陽、どうする」
「もう少し、様子を見る。西岡がどう動くか、神楽坂がどう出るか」
龍見は、静かに踵を返した。
「今、大事なんは、前田さんの安全と、証拠の保全や。跡目争いは、その後で考える」
鮫島は、少し驚いた顔をした。
「兄貴やったら……いや、以前の兄貴やったら、こういう時、すぐにでも動いて、主導権を握りにいっとったと思うで」
「せやろうな」
龍見は、小さく笑った。
「せやけど、今の儂は、山札太陽や。優先順位が、あの頃とは違う」
その言葉に、鮫島は何か言いたげな顔をしたが、結局、黙って頷いた。
三日後、葛城から連絡が入った。
「山札くん、話がつきました。旧知の刑事が、内々に前田さんと接触し、証拠の任意提出について、話を進めてくれることになりました」
「ありがとうございます、先生」
「ただ――」
葛城の声に、緊張が滲んだ。
「動きが表沙汰になれば、必ず、天羽連合の耳にも入る。証拠が警察の手に渡る前に、何か仕掛けてくる可能性は、十分にある」
「分かっとります」
龍見は、静かに窓の外を見た。夕暮れの空に、重い雲が広がっていた。
(時間との勝負が、いよいよ佳境に入るな)
母を守る戦い、龍見暗殺の真相を暴く戦い、そして鈴鹿組の行く末。三つの糸が、静かに、しかし確実に、一つの結末に向かって縒り合わされていく。
龍見は、その夜、久しぶりに、極道として生きていた頃の緊張感を、全身に感じていた。




