第十章 奪還
証拠提出の日取りが決まったのは、それから二日後のことだった。
「明後日の夜、葛城先生の知り合いの刑事が、前田さんと接触する段取りになった」
公園のベンチで、鮫島が声を落として言った。
「場所は?」
「三宮のホテルの一室や。人目につかん、静かなところを選んだ」
龍見は、静かに頷いた。あと二日。それまで、前田の身に何事もなければ、証拠は無事に警察の手に渡る。
(せやけど、油断はできんな)
その予感は、的中した。
翌日の深夜、龍見のスマートフォンが鳴った。鮫島からだった。
「太陽、前田と連絡が取れん」
「どういうことや」
「決まった時間に電話しても出えへん。アパートにも、灯りがついとらん」
龍見は、布団を跳ね除けて起き上がった。
「行く」
「待て、太陽。今は深夜や。母さんに気づかれるぞ」
「窓から出る。十分後に、いつもの場所で」
電話を切ると、龍見は手早く着替え、窓から音もなく外に出た。極道時代、幾度となく使った侵入と脱出の技術は、この痩せた体でも、驚くほど正確に機能した。
鮫島の車に乗り込むと、龍見は前田のアパートへと急いだ。
到着した時、アパートの一室――前田の部屋のドアは、わずかに開いていた。
「……嫌な予感がするな」
鮫島が、低く呟いた。
中に入ると、部屋は荒らされていた。テーブルが倒れ、床には争ったような跡がある。前田の姿は、どこにもなかった。
「連れ去られたか」
龍見の声が、氷のように冷たくなった。
床に落ちていたスマートフォンを拾い上げる。前田のものだった。画面には、何件もの不在着信の履歴。そして、床の隅に、小さなメモ用紙が落ちているのが目に留まった。
〈映像のことは忘れろ。次は本当に痛い目に遭う〉
乱雑な文字で、そう書かれていた。
「脅しの文句にしては、直接的すぎるな」
龍見は、静かにその紙片を見つめた。
「これは、脅しやない。焦りや」
「焦り?」
「本職の脅し屋やったら、こんな証拠になるもん、残さん。これを書いたんは――」
(神楽坂か)
龍見の脳裏に、確信が芽生えた。影山のような冷徹な処理係なら、こんな粗雑な真似はしない。追い詰められ、なりふり構わなくなった人間の仕業だ。
「鮫島、神楽坂の居場所、分かるか」
「調べる。せやけど、少し時間がかかる」
「急いでくれ。前田さんの命が、かかっとる」
その時、龍見のポケットで、前田のスマートフォンが震えた。着信だった。画面には、登録されていない番号が表示されている。
龍見は、迷わず応答した。
「……前田さんの、知り合いです」
『――誰だ、お前』
電話の向こうから聞こえてきたのは、若い男の、上ずった声だった。
「あんたが、神楽坂さんか」
『……なんで、その名前を』
電話の向こうで、息を呑む気配がした。図星だった。
「前田さんは、無事なんか」
『無事にしてほしけりゃ、余計な真似はやめることだ。映像を渡せなんて、警察に言うな。分かったら――』
「あんたの声、震えとるで」
龍見は、静かに、しかし刃のように鋭く、その言葉を遮った。
『な……』
「本職の極道は、こんな電話一本で、正体を晒すような真似はせん。あんたは、追い詰められとる。せやから、こんな杜撰な誘拐に手を出した」
電話の向こうで、沈黙が流れた。
「前田さんに何かあったら、あんたの人生、そこで終わりや。今なら、まだ引き返せる」
『……黙れ』
神楽坂の声が、震えを帯びながらも、意地を張るように尖った。
『お前が何者か知らないが、この件から手を引け。でないと――』
通話が、唐突に切れた。
「太陽、どうやった」
「神楽坂本人や。間違いない」
龍見は、静かに拳を握った。
「あの震え方……追い詰められた末端の人間の声や。今の神楽坂には、天羽連合の後ろ盾も、あまり期待できとらんのかもしれん」
「どういうことや」
「本部が本気で動くんやったら、影山クラスの人間が出てくる。せやのに、神楽坂自らが、こんな杜撰な手口で動いとる……これは、独断専行の可能性が高い」
鮫島の目が、鋭くなった。
「つまり、神楽坂は、天羽の本部にも頼れんと、自分一人で処理しようとしとるいうことか」
「せや。焦っとる証拠や」
その時、鮫島のスマートフォンが鳴った。かつての仲間からの情報だった。短いやり取りの後、鮫島の顔つきが変わった。
「太陽、神楽坂の会社名義になっとる資材置き場が、六甲アイランドの外れにある。使われとらん倉庫や。もしかしたら――」
「そこか」
龍見は、静かに頷いた。
「行くで」
「待て、太陽。相手がなりふり構わんいうことは、それだけ危険やいうことでもある」
「分かっとる。せやけど、前田さんを見捨てるわけにはいかん」
龍見は、鮫島の目を見据えた。
「拳は使わん。せやけど、行く」
鮫島は、しばらく龍見の顔を見つめていたが、やがて小さくため息をついた。
「……分かった。せやけど、儂も一緒に行く。それに――」
鮫島は、スマートフォンを取り出した。
「西岡にも、連絡しとく。何かの時の、保険や」
車は、静かな深夜の街を、六甲アイランドへと走った。
目的の倉庫は、周囲に人気のない、寂れた工業地帯の一角にあった。シャッターの隙間から、微かな灯りが漏れている。
「中に、おるな」
龍見は、静かに倉庫に近づいた。
シャッターの隙間から中を覗くと、椅子に縛られた前田の姿が見えた。その傍らに、若い男が一人、落ち着きなく歩き回っている。神楽坂だった。まだ三十代半ばだろう、整った顔立ちだが、その表情は、追い詰められた獣のように歪んでいた。
(一人か)
龍見は、素早く周囲を確認した。護衛らしき人間の姿はない。それもまた、神楽坂の孤立を物語っていた。
龍見は、シャッターの端にある通用口から、静かに中に入った。
「――こんばんは」
龍見の声に、神楽坂が飛び上がるように振り返った。
「な、誰だ! どうやって……!」
「電話で話した者です」
龍見は、あくまで冷静な口調で言った。神楽坂の目に、恐怖と怒りが入り混じった色が浮かんだ。
「近づくな! お前が何者か知らないが……」
神楽坂が、震える手で、傍らにあった鉄パイプを掴んだ。
その瞬間、龍見は、動かなかった。ただ、静かに神楽坂の目を見据えた。
「振り上げる前に、よう考えるこっちゃ」
「な……」
「あんた、今、殺人未遂の一歩手前におる。それに、龍見さんを撃った件も、そろそろアリバイが崩れとるいう噂やないか」
神楽坂の顔から、みるみる血の気が引いた。
「な、なんで、それを……!」
「知っとる人間は、あんたが思っとるより多い」
龍見は、一歩、静かに前に進み出た。
「今、ここで前田さんに何かしたら、あんたの人生は、それで終わりや。せやけど、今この場で前田さんを解放したら――」
龍見は、あえて一拍置いた。
「まだ、話し合いの余地がある」
「話し合い……だと?」
神楽坂の声に、初めて、縋るような色が混じった。
「あんたが、なんで六代目を裏切ったんか、儂は知らん。せやけど、あんたが本当に望んどったんは、天羽なんかの手先になることやったんか?」
その問いに、神楽坂の体が、大きく揺れた。
「……違う」
絞り出すような声だった。
「俺は、ただ……跡目争いで、割を食いたくなかっただけだ。天羽の連中に唆されて……気づいた時には、もう、後戻りできないところまで来てた」
鉄パイプを握る神楽坂の手から、力が抜けていくのが分かった。
「証拠は、もう、警察の手に渡る寸前や。あんたが今、ここで前田さんを解放すれば、儂は――」
龍見は、静かに、しかし確かな重みを持ってこう続けた。
「あんたが、自分の意志で自首する道を、探す手伝いをする」
「自首……」
神楽坂の目から、力が抜けた。鉄パイプが、カラン、と乾いた音を立てて床に落ちた。
「もう、疲れた……」
神楽坂は、その場に崩れ落ちるように、膝をついた。
龍見は、静かに前田の元に駆け寄り、縄を解いた。
「大丈夫ですか」
「あ、ああ……助かったよ」
前田は、震える声で、それでも安堵の表情を浮かべた。
その時、倉庫の外から、複数の足音と、赤色灯の光が近づいてくるのが見えた。
「――間に合ったか」
鮫島が、安堵の息を吐いた。
「葛城先生の刑事に、念のため連絡しといた。神楽坂の会社名義の場所やと分かった時点でな」
警察官たちが倉庫になだれ込み、状況を確認すると、神楽坂に静かに手をかけた。抵抗する気力も、もう残っていないようだった。
連行されていく神楽坂の背中を、龍見は静かに見つめていた。
(これで、龍見暗殺の真相に、一歩近づいたな)
だが、その胸中は、決して晴れやかではなかった。神楽坂もまた、大きな渦に呑まれた、一人の哀れな男に過ぎなかったのかもしれない。極道の世界に、勝者などいない。それが、龍見が三十八年かけて学んだ、唯一確かな真実だった。
「太陽、前田さんを送っていこう」
「せやな」
龍見は、夜明け前の空を見上げた。東の空に、微かな白みが差し込んでいた。
長い夜が、ようやく終わろうとしていた。
だが、龍見の脳裏には、影山の言葉が、まだ重く残っていた。
(――あなたを消した組織に、あなた自身が飼われることになる)
神楽坂は、末端の駒に過ぎなかった。本当の黒幕は、まだ、闇の奥に潜んでいる。




