第十一章 暗躍
神楽坂敬一逮捕のニュースは、表社会ではごく小さな扱いだった。地方紙の片隅に、詐欺・監禁未遂容疑の男が逮捕された、という数行の記事が載っただけだ。
だが、裏社会での反響は、比較にならないほど大きかった。
「鈴鹿組の跡目候補の一人が、監禁未遂で御用や。しかも、余罪に龍見さん暗殺の疑いまで囁かれとる」
公園のベンチで、鮫島がそう報告した時、その声には、複雑な色が滲んでいた。
「古参連中は、蜂の巣をつついたような騒ぎになっとる。神楽坂を担いどった一派は、掌を返したように口をつぐみ、西岡を推す声が、一気に強まっとるらしい」
「西岡は、どう出とる」
「意外なことに、静かなもんや。表立って動く様子はない。せやけど――」
鮫島は、一枚の紙を差し出した。古びた喫茶店の名刺だった。裏に、几帳面な文字で何か書かれている。
「昨日、儂のところに、直接、これが届いた」
〈もし山札太陽という少年に会う機会があれば、一度、お話ししたい。西岡〉
龍見は、その文字をしばらく見つめていた。
「気づかれとったか」
「かもしれん。せやけど、西岡は、押し付けがましい真似はせんかった。ただ、こう書いて寄越しただけや」
龍見は、名刺を指先で弄びながら、静かに考えを巡らせた。西岡と会うことは、跡目争いという大きな渦に、自ら足を踏み入れることを意味する。だが、神楽坂という駒が消えた今、鈴鹿組の行く末を決める流れは、もう動き始めている。
(会わん、という選択肢もある。せやけど――)
「鮫島、葛城先生から、神楽坂の取り調べについて、何か聞いとらんか」
「実は、それも報告しようと思っとった」
鮫島の表情が、引き締まった。
「神楽坂が、取り調べで、妙なことを漏らしとるらしい。『指示していたのは自分じゃない』『もっと上がいる』とな」
「影山か」
「いや。神楽坂は、影山の名前すら知らんかったらしい。神楽坂に指示を出しとったんは、また別の人間や」
龍見の眉が、わずかに動いた。
「影山ですら、末端やったいうことか」
「その可能性がある」
鮫島の声に、緊張が滲んだ。
「天羽連合いう組織自体、誰かに操られとる駒に過ぎんのかもしれん」
龍見は、静かに夜空を見上げた。影山の、あの底の見えない笑みが脳裏をよぎる。あの男ですら、誰かの掌の上で踊っていたのだとしたら――その「誰か」は、一体何者なのか。
(――あなたを消した組織に、あなた自身が飼われることになる)
影山の言葉が、新たな意味を帯びて、龍見の胸に重くのしかかった。
その夜遅く、龍見が自室で考えを巡らせていると、スマートフォンが震えた。葛城からだった。
「山札くん、夜分にすまんな。一つ、気になる情報が入りました」
「なんでしょう」
「神楽坂の勾留先に、弁護士を名乗る人間から、接見の申し入れがあったそうです。せやけど、神楽坂は、その弁護士とは面識がない言うて、拒否したらしい」
「何者です、その弁護士」
「それが……」
葛城の声が、僅かに低くなった。
「名刺の事務所、実在せんのです。偽者や」
龍見は、息を呑んだ。
「口封じ、いうことですか」
「その可能性が高い。神楽坂が、これ以上何かを喋る前に、接触して黙らせようとした……あるいは、もっと直接的な手段を考えとるかもしれん」
龍見の背筋に、冷たいものが走った。神楽坂は、もはや天羽連合にとって、守るべき駒ではなく、消すべきリスクに変わっている。
「先生、神楽坂の身の安全は」
「今のところ、勾留中やから、直接手を出すんは難しいでしょう。せやけど、油断はできません」
電話を切った後、龍見は、静かに窓の外を見つめた。
(神楽坂は、もう用済みや。切り捨てられる)
極道の理屈なら、当然のことだった。だが、それを目の当たりにすると、腹の底に、重く苦いものが沈んでいく。
龍見は、鮫島に電話を入れた。
「鮫島、西岡と会う」
「……ええんか」
「神楽坂も、影山も、末端の駒に過ぎん。もし、鈴鹿組そのものが、次の駒にされようとしとるんやったら、儂は、それを黙って見過ごすわけにはいかん」
「分かった。段取りする」
三日後、龍見は鮫島の案内で、あの古びた喫茶店を訪れた。
カウベルの音とともに扉を開けると、西岡吾郎が、静かにこちらを見た。エプロン姿の、恰幅のいい初老の男だった。その目に、驚きよりも先に、深い感慨のようなものが浮かんだ。
「……本当に、来てくれたか」
「山札太陽です」
龍見は、静かに頭を下げた。西岡は、しばらく無言で龍見の顔を見つめていたが、やがて、コーヒーを一杯、カウンターに置いた。
「サービスや。座ってくれ」
龍見が席に着くと、西岡は、自分もカウンターの向こうに腰を下ろした。
「単刀直入に聞く。お前さんは、六代目の生まれ変わりなんか」
「信じてもらえるかどうかは、分かりません」
龍見は、正面から西岡の目を見た。
「せやけど、儂は、山崎龍見です」
西岡の目に、涙が滲んだ。だが、それを押し隠すように、彼は小さく笑った。
「そうか……そうなんやな」
西岡は、ゆっくりと息を吐いた。
「儂は、跡目を継ぐ気なんぞ、さらさらなかった。せやけど、神楽坂のような男に、六代目の看板を持っていかれるくらいなら――と、古参連中に頼まれて、渋々、担がれる決心をしとったところや」
「西岡さん」
龍見は、静かに切り出した。
「儂は、鈴鹿組を継ぐつもりはありません。太陽として、堅気の人生を生きる。それが、儂の決めた道です」
「……分かっとる。せやろうな」
西岡は、寂しそうに、しかし納得したように頷いた。
「せやったら、儂に、何を望む」
「西岡さんに、跡目を継いでほしい。せやけど――」
龍見は、一拍置いて、続けた。
「天羽連合という組織の裏に、まだ本当の黒幕がおる。神楽坂も、もしかしたら影山ですら、その駒に過ぎんかもしれん。そいつを突き止めるまで、鈴鹿組の力を、貸してもらえませんか」
西岡の目に、鋭い光が宿った。かつて若頭補佐として、修羅場をくぐってきた男の目だった。
「六代目を殺した本当の黒幕を、燻り出す……いうことか」
「せや」
「儂は、堅気の商売しかしとらんが、古参の伝手なら、まだいくらか使える。力を貸そう」
西岡は、静かに、しかし力強く頷いた。
「六代目の弔い合戦や。儂にとっても、望むところや」
喫茶店を出た後、鮫島が小さく息を吐いた。
「西岡、思っとった通りの男やったな」
「せやな」
龍見は、夕暮れの空を見上げた。母を守る戦い、龍見暗殺の真相を暴く戦い、そして鈴鹿組の行く末。そこに今、西岡という新たな味方が加わった。
だが同時に、天羽連合の奥に潜む「本当の黒幕」という、より大きく、より深い闇の存在が、はっきりと輪郭を現し始めていた。
(影山ですら、駒に過ぎんかったんやとしたら――)
龍見の脳裏に、まだ見ぬ敵の気配が、静かに、しかし確実に、その姿を伸ばしつつあった。
神戸の夜景を見つめながら、龍見は、静かに拳を握った。




