第四章 舎弟の影
颯真の一件から、二週間が過ぎた。
教室での太陽の立場は、目に見えて変わっていた。颯真たちが手を出さなくなったことで、遠巻きにしていた他の生徒たちも、少しずつ声をかけてくるようになっていた。だが龍見の意識は、そんな些事よりも、もっと不穏な変化に向けられていた。
「太陽、最近ね……お店の周りをうろつく人が増えたんよ」
夕食の席で、母の陽子がぽつりと漏らした。
「うろつく人?」
「スーツ着た、真面目そうな人らなんやけど……この辺の店、片っ端から『再開発』がどうとか言うて、営業妨害みたいなことしよるんよ。うちにも、立ち退き勧告みたいな紙が入っとって」
陽子が、テーブルの上に一枚のチラシを置いた。〈駅前創生プロジェクト事務局〉という、もっともらしい肩書きが印刷されている。
龍見は、そのチラシを手に取った。極道として、こうした「地上げ」の手口は嫌というほど見てきた。合法的な言葉で塗り固めながら、実態は強引な立ち退き強要。表向きの会社名の裏には、たいてい反社が絡んでいる。
(差出人の住所……)
龍見の目が、チラシの片隅にある小さな文字に留まった。
〈立花商事株式会社〉
颯真を脅していた、あの詐欺グループと同じ名前だった。
(繋がっとったか)
龍見の背筋に、久しぶりに、極道としての血が滾るのを感じた。颯真を食い物にしていた三流の詐欺集団は、単なる末端の実行部隊に過ぎなかった。その裏には、もっと大きな組織が糸を引いている。そして今、その魔の手が、母の店に伸びようとしていた。
「おかん」
「なに?」
「この店、絶対に手放したらあかん」
龍見の声には、有無を言わさぬ強さがあった。陽子は少し驚いた顔をしたが、やがて小さく頷いた。
「うん……お父さんの形見みたいな店やし。私も、簡単には渡さへんよ」
その夜、龍見は久しぶりに、母の店――スナック「陽だまり」に足を運んだ。未成年ゆえに店には入れないが、裏口から様子だけでも窺っておきたかった。
カウンター越しに漏れる灯りと、微かな笑い声。狭い店内には、常連客らしき数人の姿があった。その中の一人――厳つい体躯に、堅気にしては鋭すぎる目つきをした初老の男が、龍見の目を引いた。
(あの目つき……)
カウンターの隅で静かに杯を傾けるその男は、只者の空気ではなかった。長年、修羅場を潜ってきた者だけが持つ、独特の「間」があった。
裏口から中を窺っていた龍見と、ふとその男の目が合った。
男の表情が、凍りついた。
まるで、幽霊でも見たかのような顔だった。
「……兄貴?」
男の口から、掠れた声が漏れた。周囲には聞こえないほどの、小さな呟きだった。だが龍見の耳には、はっきりと届いた。
(この呼び方――)
「兄貴」。それは、極道時代の龍見を、限られた身内だけが使っていた呼称だった。
男が、席を立って裏口に近づいてくる。龍見は、逃げるべきか、この場に留まるべきか、一瞬の判断を迫られた。だが結局、その足は動かなかった。極道として生きてきた勘が、「これは逃げるべき場面ではない」と告げていたからだ。
「坊主……お前、名前は」
裏口の外に出てきた男が、震える声で尋ねた。
「山札太陽」
「そうか……そう、やんな……」
男は、自嘲するように笑った。
「儂もそろそろ耄碌したか。死んだ人間が、生きとるはずないのにな」
その言葉に、龍見は確信した。
(この男――鮫島か)
龍見の脳裏に、記憶が蘇る。鮫島豪。かつて自分の右腕として働いてくれた、若頭だった男。組の解散後、堅気として生きる道を選んだと聞いていたが、まさかこんな形で再会するとは思わなかった。
「お前さん、この店によう来るんか」
龍見は、あえて素っ気ない口調で尋ねた。まだ、正体を明かすには早い。
「……ああ。ここのママの旦那には、昔、世話になっとってな。旦那が亡くなってからも、たまに顔出しとる」
鮫島の目は、まだ疑いと動揺の色を残していた。
「なあ坊主。妙なこと聞くようやが……お前、右の手首に、火傷の痕はあるか」
その問いに、龍見は思わず自分の右手首を見た。そこには確かに、薄っすらとした古い火傷の痕があった。太陽自身の記憶には、幼い頃に熱いフライパンに触れた事故だとあった。だが――
(これは、儂の……龍見の火傷の位置と、同じや)
極道時代、敵対組織との抗争で負った傷。その痕が、なぜかこの体にも刻まれている。まるで、魂だけでなく、肉体の記憶までもが引き継がれているかのように。
「……なんで、そんなこと聞く?」
龍見は、あえてはぐらかすように問い返した。鮫島の目に、驚愕の色が広がった。
「いや……なんでもない。すまんな、変なこと聞いて」
鮫島は、動揺を押し殺すように、そう言って目を逸らした。だが、その手は、微かに震えていた。
「坊主、お前さんの母さん、この店――誰かに脅されとらんか」
鮫島の声色が、一変した。凄みを帯びた、修羅場慣れした声だった。
「〈立花商事〉、いう会社知っとるか」
龍見が静かに問うと、鮫島の顔が、はっきりと強張った。
「……お前、その名前、どこで」
「知っとるみたいやな」
「坊主……お前、一体……」
「それより教えてくれ。立花商事の後ろにおるんは、どこの組や」
龍見の問いに、鮫島は長い沈黙の後、絞り出すようにこう言った。
「……儂らの組を、潰しにかかった連中や。六代目を――兄貴を撃った奴らの、残党や」
夜風が、二人の間を吹き抜けた。
龍見の目の奥に、静かな炎が灯った。母の店に伸びる魔の手の正体が、自分自身を殺した者たちと繋がっていたという事実に、腹の底から怒りが込み上げてくる。
「鮫島」
「……なんや」
龍見は、久しぶりに、極道として生きていた頃の呼び方で、その名を呼んだ。
「その残党、根こそぎ潰す手伝い、してくれるか」
鮫島の目が、大きく見開かれた。目の前の少年の顔に、かつての組長の面影を、はっきりと見出したかのように。
「……お前、まさか……」
「答えは、また今度話す。今日のところは――頼みたいことだけ、頼んどくわ」
龍見は、そう言い残すと、踵を返した。
背後で、鮫島が呆然と立ち尽くしている気配が伝わってくる。だが、振り返らなかった。すべてを語るには、まだ早すぎる。
(時間をかけて、少しずつ埋めていったらええ)
夜道を歩きながら、龍見は静かに拳を握った。
母の店に伸びた影の正体。それは、自分をこの世から消し去った者たちの残党だった。因縁という言葉では片付けられない、宿命的な巡り合わせ。
(望むところや)
極道としての矜持と、息子としての想い。その両方を胸に、龍見は静かに歩き続けた。




