第三章 闇の使者
颯真の異変に気づいてから、龍見は三日をかけて、静かに調べを進めていた。
もっとも、大層なことをしたわけではない。昼休みに颯真の取り巻きたちの会話に耳を傾け、SNSの繋がりを目で追い、颯真が休み時間のたびにトイレの個室に籠って電話をする回数を数えただけだ。
(極道の情報収集も、堅気の高校生の観察も、やることは変わらんな)
人間観察に業種の違いなどない。それが龍見の持論だった。
三日目の放課後、颯真は部活にも寄らず、逃げるように校門を出た。龍見は、ある程度の距離を保ちながら、その後を追った。
颯真が向かったのは、駅裏の寂れた雑居ビルだった。かつて龍見が――極道として生きていた頃、こうした場所を何百と見てきた。表向きは「コンサルティング会社」や「情報商材の会社」を名乗りながら、実態は闇金や特殊詐欺の受け子集めをする巣窟。
ビルの陰から、颯真が一人の男と話しているのが見えた。四十絡みの、目つきの悪い男だった。安物のスーツを着崩し、指には成金趣味の指輪。
「颯真くん、そろそろ本気出してもらわないと困るんだよねぇ」
男の声が、風に乗って龍見の耳に届いた。
「す、すみません……でも、受け子の仕事はもう……」
「今更やめるとか言わないよね? 君、もう三件やってるんだよ。バックレたら、どうなるか分かってる?」
男が颯真の肩を、指先でトントンと叩いた。その仕草に込められた威圧は、堅気にしか通用しない、安っぽいものだった。
(三流や。本職やったら、こんな回りくどい脅し方はせん)
龍見は、物陰から冷静にその光景を観察していた。颯真は、いわゆる「闇バイト」に手を出し、詐欺の金を受け取る「受け子」をやらされていたのだ。最初は数万円の“簡単な仕事”のつもりが、いつの間にか抜けられない構造にされている。よくある手口だった。
「颯真くん、今度の土曜、大阪まで行ってもらうから。詳細はまたメッセージで送る」
「……はい」
颯真の声は、力なく震えていた。教室で虚勢を張っていたあの颯真とは、まるで別人だった。
男が立ち去った後も、颯真はしばらくその場に立ち尽くしていた。龍見は、静かに物陰から歩み出た。
「颯真」
「――ッ! お、お前、なんでここに……!」
颯真が、飛び上がらんばかりに驚いた。その顔は、蒼白だった。
「見とったで、今の。おっさんとのやり取り」
「関係ないだろ! お前には……」
「関係ある。お前は俺のクラスメイトや」
龍見は、静かに、しかしはっきりとそう言った。颯真が、動揺した目でこちらを見る。
「土曜、大阪行くんは、やめとき」
「は? 何言って……お前に何が分かるんだよ! 俺がどれだけ……!」
「詐欺の受け子や、それ」
颯真の顔から、血の気が引いた。
「一度捕まったら、未成年でも人生棒に振る。分かっとるやろ」
「じゃあ、どうしろって言うんだよ! もう三十万も借りて……返せなかったら、家族にバラすって……!」
颯真の声が、悲鳴のように震えた。強気な仮面が、完全に剥がれ落ちていた。
龍見は、颯真の肩に手を置いた。以前、教室で颯真がしてきたのと同じ仕草。だが、その意味はまるで違った。
「颯真」
「な、なんだよ……」
「お前がハマっとるんは、闇バイトやない。ただの、幼稚な脅し屋や」
龍見は、颯真の目を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、幾多の修羅場を乗り越えてきた男だけが持つ、揺るぎない光があった。
「せやから、こういう時の対処法もある」
「対処法……?」
「借金は、本物の闇金でも取り立てには法律の壁がある。まして、あんな三流の脅し屋やったら尚更や。証拠さえ揃えば、退かせる方法はいくらでもある」
龍見の脳裏には、極道時代に培った知識が渦巻いていた。闇金対策、詐欺グループの内部構造、警察との駆け引き。表社会と裏社会、両方の理屈を知る男にしか出せない答えだった。
「お前、今までのメッセージのやり取り、全部残っとるか」
「……残ってる、けど」
「ほな、まずそれを保全せえ。それから――」
龍見が言いかけたその時、背後から声がかかった。
「おいおい、坊主。人の商談に口出すとか、いい度胸してるじゃねぇか」
振り返ると、先ほどの男が、ビルの陰から戻ってきていた。忘れ物でも取りに来たのだろう。その顔には、粘着質な笑みが浮かんでいる。
「颯真くんのお友達? 悪いけど、これは大人の事情ってやつでね」
男が、ゆっくりと距離を詰めてきた。颯真の体が、恐怖で強張るのが分かった。
だが、龍見――太陽の体の中の男は、一歩も退かなかった。
「大人の事情、な」
龍見は、静かに笑った。その笑みには、颯真が向けてきたような子供じみた威圧感とは、まったく質の違うものが宿っていた。
「――ほんまの大人の事情いうんを、教えたろか」
男の足が、ふと止まった。何かがおかしいと、動物的な本能が告げているようだった。目の前にいるのは、ただの痩せた高校生のはずだ。それなのに、この威圧感は何だ――そんな戸惑いが、男の表情に浮かんでいた。
龍見は、男の目を見据えたまま、静かに一歩踏み出した。
「あんたが使とる名簿屋。〈立花商事〉やろ」
「……なんだと?」
「先月、神戸で似たような手口の詐欺グループが摘発されたん、知っとるか。あんたらの元締め、そろそろ危ないんちゃう?」
でまかせではなかった。極道として裏社会に身を置いていた龍見には、こうした末端の詐欺グループがどこから金を引っ張り、どこに潰されるかの理屈が、手に取るように分かった。かまをかけているだけだったが、その口調には有無を言わさぬ確信が滲んでいた。
「て、てめえ、何者だ……」
男の声が、明らかに揺らいでいた。目の前の少年から発せられる何かに、本能的な恐怖を感じ始めている。
「颯真の借金の件、忘れてもらおか。それと――」
龍見は、静かに、しかし刃のように鋭い声で告げた。
「二度と、この辺をうろつかんことや」
しばしの沈黙の後、男は舌打ちをして踵を返した。
「……覚えとけよ」
捨て台詞を残し、男は逃げるように立ち去った。その背中を見送りながら、龍見は小さく息を吐いた。
(さすがに、こけおどしが通じるレベルの三流やったな)
「お、お前……一体……」
颯真が、呆然とした顔でこちらを見ていた。今までの敵意はどこかへ消え、代わりに畏怖の色が浮かんでいる。
「言うたやろ。俺は、お前のクラスメイトや」
龍見は、それだけ言うと、颯真に背を向けて歩き出した。
「明日、メッセージの記録持ってこい。ちゃんと片付けたる」
「……なんで、そこまで」
颯真の問いに、龍見は足を止めずに答えた。
「お前が調子乗っとったんは事実や。せやけど、人が本当に困った時に見捨てるんは、俺の流儀やない」
夕暮れの街に、龍見の――太陽の背中が、小さくなっていく。
その日を境に、颯真の太陽への態度は、目に見えて変わっていった。教室での嫌がらせはぴたりと止み、時折、颯真は太陽に何かを言いたげな視線を向けるようになった。
だが、この一件は、まだ序章に過ぎなかった。
颯真が関わっていた〈立花商事〉という詐欺グループの名は、龍見の記憶の奥で、小さな違和感として引っかかっていた。
(立花商事……どこかで聞いた名や)
その正体が、やがて鈴鹿組の内部抗争と繋がっていることを、この時の龍見は、まだ知らなかった。




