第二章 一軍
制服に袖を通すのは、二週間ぶりだった。
サイズの合わなくなった学生服は、太陽の痩せた体にだぶついていた。鏡の前で襟を正しながら、龍見は苦笑した。
(ヤクの売人一人締め上げるより、ネクタイ結ぶ方が緊張するとはな)
玄関先で、母の陽子が信じられないという顔をしていた。
「お弁当、作ったから……無理せんでええからね」
「行ってくる」
短くそう言って、太陽は――龍見の意志を宿した太陽は、家を出た。
春の朝、通学路には桜の花びらが舞っていた。何気ない景色のはずなのに、龍見にとってはすべてが新鮮だった。堅気の暮らしというものを、四十年ぶりに――いや、初めて、まともに歩いている気がした。
校門をくぐると、視線が集まった。ひそひそ話す声。
「あれ、山札じゃね? 久々に来たじゃん」
「またすぐ休むって」
悪意のこもった囁きが、耳に届く。以前の太陽なら、ここで足がすくみ、そのまま踵を返していただろう。だが今、太陽の中身は違う。
(雑魚の遠吠えなんぞ、聞き流すのが極道の格や)
表情一つ変えず、龍見は教室に向かって歩いた。その足取りに、迷いはなかった。
教室のドアを開けると、空気が一瞬、凍りついた。
「――お、来たじゃん、山札」
教室の中央、窓際の一等地に陣取っていた男子生徒が、ニヤニヤと笑いながら立ち上がった。長身で、髪を明るく染め、いかにも「一軍」といった雰囲気を纏っている。黒田颯真。太陽の――いや、この体の記憶に刻まれた、最も苦い名前だった。
「久々の登校記念に、なんか奢れよ」
颯真が、太陽の肩に手を置いた。周囲の取り巻きたちが、笑いをこらえながら見守っている。窓際の席では、颯真の彼女――東條麗奈が、スマートフォンを構えてこちらを見ていた。動画に撮るつもりなのだろう。以前は、こうした瞬間、太陽はただ俯いて耐えるしかなかった。
だが今、太陽の肩に置かれた颯真の手を、龍見は静かに見下ろした。
「――颯真くん、やったか」
低く、落ち着いた声だった。教室の温度が、また一段下がった気がした。
「は? 急に呼び捨てとかキモいんだけど」
「奢れ、言うたな。ええで」
龍見は、颯真の目を真正面から見据えた。
その目には、何百人という舎弟を束ね、何十人という敵対組織の幹部と渡り合ってきた男の、底の見えない光があった。十六歳の少年の顔立ちをしていても、その眼光だけは誤魔化しようがない。
「ただし――」
龍見は、一拍置いた。
「奢った分は、利子つけて返してもらうで」
「……は?」
颯真の顔から、笑みが消えた。何かがおかしいと、動物的な勘が告げているのだろう。それは正しい。目の前にいるのは、ただのいじめられっ子ではない。修羅場を何百回とくぐってきた男だった。
「颯真、こいつ何言ってんの?」
麗奈が、スマートフォンを下ろしながら怪訝な顔をした。取り巻きたちも、笑うタイミングを見失って戸惑っている。
「別に。ただの世間話や」
龍見は肩をすくめると、颯真の手をゆっくりと、しかし有無を言わさぬ力で払い除けた。触れた瞬間、颯真の腕がわずかに震えたのを、龍見は見逃さなかった。
(この子、様子がおかしいな)
龍見の観察眼が、静かに動き出す。颯真の目の下の隈。爪を噛む癖。スマートフォンを気にする頻度が、異常に高い。金に困っている人間特有の落ち着きのなさだった。
(ワル気取りの坊やが、裏で借金でも背負っとるんか)
だが、それを今、暴くつもりはなかった。極道の情報収集とは、焦って刈り取るものではない。時期が来るまで、じっくりと熟成させるものだ。
「なあ颯真」
龍見は、自分の席――窓際とは正反対の、廊下側の一番後ろの席に向かって歩きながら、振り返らずに言った。
「金に困っとるんやったら、サラ金より先に、相談する相手選んだ方がええで」
教室が、しんと静まり返った。
「……は? 何様のつもりだよ、お前」
颯真の声が、微かに上ずっていた。図星を突かれた人間特有の反応だった。
龍見は答えず、自分の席に座ると、鞄から教科書を取り出した。その所作は、あまりに堂々としていて、いじめられっ子のそれとはかけ離れていた。
「……何なんだよ、あいつ」
颯真が、忌々しげに吐き捨てるのが聞こえた。だが、その日、颯真も麗奈も、それ以上太陽に絡んでくることはなかった。
放課後。
誰もいなくなった教室で、龍見は窓の外を眺めていた。桜並木の向こうに、颯真が一人、誰かと電話をしている姿が見えた。表情は険しく、時折頭を下げるような仕草をしている。
(相手は、金貸しやろな。しかも、あんまり上等な筋やない)
龍見の目に、久しぶりに――極道として生きていた頃と同じ種類の、獲物を見定める光が宿った。
颯真という少年を、これからどう料理するか。拳で黙らせるのは簡単だ。だが、それでは何も変わらない。極道の落とし前とは、相手の急所を見極め、二度と刃向かえないように、根本から作り変えることだ。
(まずは、颯真がどこから金を借りとるか。それを調べるのが先やな)
龍見は静かに席を立った。制服のポケットには、母がくれた小遣いの千円札が一枚。かつて数億の金を動かした男の手には、あまりに軽い。だが、その軽さが、今はなぜか心地よかった。
窓の外では、桜の花びらが、颯真の悩ましげな背中に降り注いでいた。




