第一章 目覚め
息が、できない。
いや――できている。ただ、その息の仕方があまりに頼りなかった。
(――なんや、この体は)
山崎龍見は、目を開けた。
見知らぬ天井だった。安っぽいクロス張りの天井に、うっすらとシミが浮いている。カーテンの隙間から漏れる光は弱く、部屋の中は薄暗い。壁際には漫画本の山、埃をかぶったゲーム機、脱ぎっぱなしの制服らしきもの。
組事務所でも、自宅マンションでもない。
龍見――と、頭の中では確かにそう思っているのに、体が言うことを聞かない。起き上がろうとした腕は枯れ枝のように細く、力が入らなかった。
「な……」
声を出して、龍見は凍りついた。
自分の声ではなかった。裏返った、変声期を終えたばかりのような、頼りない少年の声。
這うようにして、壁際の姿見までたどり着く。そこに映っていたのは、青白い顔をした、痩せこけた少年だった。伸びっぱなしの前髪の下で、怯えたような目がこちらを見返している。年の頃は十五、六。何日も陽に当たっていないような肌の色。
「……儂の顔と、ちゃう」
愕然として、龍見は自分の――否、この体の頬に触れた。
その瞬間、津波のように記憶が流れ込んできた。自分のものではない記憶。
山札太陽。高校一年生。中学二年の頃から本格化したいじめをきっかけに不登校となり、この四月からなんとか高校に進学したものの、初日から目をつけられ、一週間で登校できなくなった少年。父親はいない。母親が一人でスナックを切り盛りし、女手一つで育ててくれている。太陽自身は、そのことを申し訳なく思いながらも、部屋から出られずにいた――
「山崎龍見は、死んだんか」
自分の声で、そう確かめる。三発の銃弾。裏切り者の情報を掴んでいた敵対組織。すべてが鮮明に思い出せる。あの夜、儂は確かに死んだ。
それなのに今、なぜか自分は、いじめられて心を折られた高校一年生の体の中にいる。
バカバカしい話だと、普通なら一笑に付すところだ。だが龍見は、極道として四十年近く裏の世界で生きてきた男だった。あり得ないことが起こったなら、それを受け入れて、次にどう動くかを考える。それが渡世人というものだ。
「太陽……いうんか、お前は」
鏡の中の少年に、龍見は語りかけた。返事はない。当然だ。この体の主だった人格は、もうどこにもいないのかもしれない。あるいは、心の奥底で震えているのかもしれない。
いずれにせよ、今この体を動かしているのは、山崎龍見の魂だった。
コンコン、とノックの音がした。
「太陽? 起きてる? お母さん、そろそろ店に出るけど……ご飯、置いとくからね」
疲れの滲んだ、それでいて精一杯明るく振る舞おうとしている女の声。太陽の記憶が疼く。この母親に、何度も心配をかけてきた。何も言えず、ただ部屋に閉じこもって。
「……おかん」
龍見の口から、思わずそんな言葉がこぼれた。自分の母親はとうの昔に亡くなっている。それでも、ドアの向こうにいる女の声に滲む疲労と愛情に、体の奥が熱くなった。
「太陽?」
怪訝そうな声。無理もない。何日も口をきいていなかった息子が、急に返事をしたのだから。
龍見は、震える足で立ち上がった。膝が笑う。この体は驚くほど弱い。腕相撲一つ、まともにできないだろう。だが――
(体は借り物でも、中身は極道の頭や)
龍見は、ドアに向かって歩いた。一歩ごとに、細い足が悲鳴を上げる。それでも止まらなかった。
ドアを開けると、疲れた顔に化粧を重ねた四十代の女性が、驚いた顔でこちらを見ていた。
「……太陽? 顔色、悪いけど。大丈夫?」
「おかん」
龍見は――太陽の体を通して、龍見の意志で――まっすぐに母親の目を見た。
「心配、かけてすまんかったな。もう大丈夫や」
自分でも驚くほど、その言葉は自然に出た。四千人の構成員を率いた男の胆力が、こんな細い体の中からでも滲み出る。
「え……太陽、あんた……」
母親が目を丸くする。何かが違うと、母親としての勘が告げているのだろう。だが龍見は、それ以上説明のしようがなかった。
「明日から、学校行くわ」
「え!?」
「いじめとる奴らのことは、もう心配せんでええ」
龍見は、静かに、しかし底冷えするような声で言った。長年、修羅場をくぐってきた男の声だった。
その声に、母親は言葉を失って立ち尽くしていた。
龍見は、廊下の奥にある小さな仏壇――おそらく太陽の父方の誰かのものだろう――に目をやった。そこに映る自分の顔を、もう一度確かめる。
痩せて、頼りなくて、怯えた目をした少年。
(せやけど、目の奥は――もう、あかん)
鏡の中の少年の目には、修羅場を潜り抜けてきた者だけが持つ、静かな光が宿っていた。
極道の頭として積み上げてきた経験、知恵、そして度胸。それらすべてが、この痩せた体に宿っている。
学校で太陽をいじめてきた者たち。彼らは知らない。自分たちがこれから相手にするのが、かつて西日本最大級の組織を率いた男だということを。
拳一つで語ることはしない。それは極道の流儀ではない。だが――
「舐めた真似した奴には、それ相応の落とし前をつけさせたる」
誰に言うでもなく呟いて、山崎龍見は――否、山札太陽は、久しぶりにカーテンを開けた。
四月の朝日が、青白い部屋に差し込んだ。




