第十六章 落とし前
その電話がかかってきたのは、深夜のことだった。
「太陽くん、やね」
聞き覚えのない、しゃがれた男の声。だが、その声には、抗いようのない重みがあった。
「――黒瀬か」
「察しがええな。気に入った」
電話の向こうで、黒瀬雅人は、静かに笑った。
「あんたの母親、預かっとる。〈陽だまり〉の閉店後、店を出たところで、な」
龍見の全身が、凍りついた。
「おかんに、手ぇ出したら――」
「落ち着け。今のところ、丁重にもてなしとる。せやけど、それも、あんたの出方次第や」
黒瀬の声には、抑揚がなかった。まるで、天気の話でもしているかのような、平坦な口調だった。
「一人で来い。港の倉庫街、旧第三埠頭の五号倉庫。他の人間を連れてきたら――分かっとるな」
電話は、一方的に切れた。
龍見は、しばらくの間、スマートフォンを握りしめたまま、動けなかった。
(おかんが……)
これまでの修羅場でも感じたことのない、腹の底からせり上がる怒りと恐怖が、龍見の全身を貫いた。
すぐに、鮫島に電話を入れた。
「鮫島、おかんが攫われた。黒瀬本人からや」
「――なんやと」
鮫島の声が、一瞬で張り詰めた。
「場所は」
「旧第三埠頭の五号倉庫。一人で来い言われた」
「アホ言うな! そんなん、罠に決まっとるやろ!」
「分かっとる。せやけど、おかんの命がかかっとる」
龍見は、静かに、しかし揺るぎない声で続けた。
「鮫島、頼みがある。葛城先生に連絡して、警察への通報を頼む。ただし、あからさまに突入するんやなくて、周辺で待機してもらうように。それと――」
龍見は、素早く段取りを組み立てていった。極道として培った、修羅場での判断力が、こういう時にこそ、真価を発揮する。
「あんたと西岡さんは、離れた場所から様子を見ててくれ。儂が中に入った後、十五分経っても連絡がなかったら、警察に突入要請を出してくれ」
「そんな悠長なこと言うとる場合か! すぐにでも――」
「鮫島」
龍見は、静かに、しかし強い声で、鮫島の言葉を遮った。
「黒瀬は、儂に用がある。すぐには、おかんに手を出さん。せやけど、大勢で押しかけたら、話は別や。儂を信じてくれ」
電話の向こうで、鮫島が、しばらく沈黙した。やがて、絞り出すように言った。
「……分かった。せやけど、絶対に、無茶はするな」
「約束する」
電話を切った後、龍見は、静かに家を飛び出した。
旧第三埠頭は、龍見の――太陽の家から、自転車で二十分ほどの距離にあった。夜の海風が、痩せた体に容赦なく吹きつける。それでも、龍見はペダルを漕ぐ足を止めなかった。
五号倉庫は、周囲から切り離されたように、闇の中に沈んでいた。錆びついたシャッターの隙間から、微かな灯りが漏れている。
龍見は、深呼吸を一つしてから、その隙間をくぐった。
倉庫の中は、がらんとした空間だった。中央に置かれた古い作業灯が、辺りを弱々しく照らしている。その灯りの下、椅子に座らされた母の姿があった。
「おかん!」
「太陽……!? 来たらあかん、逃げ……!」
陽子の声は、恐怖に震えていた。だが、口にガムテープを貼られているのか、途中で言葉が途切れた。
「安心せえ。手荒な真似は、しとらん」
闇の奥から、恰幅のいい初老の男が、ゆっくりと姿を現した。写真で見た通りの、酷薄な目をした男――黒瀬雅人だった。
「あんたか。母に何かしたら――」
「しとらん、言うとるやろ。儂は、話が分かる人間や」
黒瀬は、静かに、龍見の前まで歩み寄った。
「山崎龍見の生まれ変わり……最初は、信じとらんかった。せやけど、こうして直接会うてみると――なるほどな。目の光が、あの男そのものや」
「あんたが、儂を殺させた張本人か」
龍見の声には、これまでにない、鋭い怒りが滲んでいた。
「殺させた、いう言い方は、正確やないな」
黒瀬は、静かに首を振った。
「儂は、ただ、状況を整えただけや。あんたが進めとった和平交渉が、儂の利益にとって邪魔やった。せやから、天羽の焦った連中に、ちいと入れ知恵をしただけのこと」
「それだけの理由で、命を奪ったんか」
「渡世いうんは、そういうもんやろ。あんたも、極道として長年生きてきたんなら、分かるはずや」
黒瀬の言葉に、龍見は、拳を強く握りしめた。損得だけで人の命を弄ぶ、この男の在り方こそが、龍見が最も嫌悪してきたものだった。
「あんたには、渡世の筋いうもんが、分かっとらん」
「筋、な」
黒瀬は、鼻で笑った。
「そんなもんは、負け犬の言い訳や。生き残った者だけが、正義を語れる」
「――違うな」
龍見は、静かに、しかし確固たる声で言った。
「筋いうんは、生き残るためのもんやない。守るべきもんを、守り抜くための、覚悟のことや」
龍見は、懐から、資料の写しを取り出した。
「これは、あんたと天羽連合、立花商事の繋がりをまとめた証拠や。原本は、複数の弁護士と信頼できる人間の手にある。儂の身に何かあれば、警察とマスコミに、自動的に送られる」
「知っとる。影山から聞いた」
黒瀬は、意に介した様子もなく、静かに頷いた。
「せやから、今夜、その根っこごと、刈り取りに来た」
「――どういうことや」
「あんたを消し、母親も消し、証拠を握っとる連中も、一人残らず消す。多少、荒っぽい手段を使うことになるが、儂には、それだけの力がある」
黒瀬の目に、初めて、はっきりとした殺意が浮かんだ。龍見の背筋に、冷たいものが走った。
(本気か、この男)
だが、その時だった。
倉庫の外から、複数のサイレンの音が、次第に近づいてくるのが聞こえてきた。
黒瀬の表情に、初めて、動揺の色が浮かんだ。
「――なんや、これは」
「言うたはずやで」
龍見は、静かに、しかし力強く、黒瀬の目を見据えた。
「儂は、一人やない」
倉庫のシャッターが、勢いよく開け放たれた。複数の懐中電灯の光が、闇を切り裂く。
「警察や! 動くな!」
葛城が手配していた警察官たちが、なだれ込んできた。その後ろから、鮫島と西岡の姿も見える。
「太陽、無事か!」
「おかんは、そこや! 早く!」
龍見が叫ぶと、警察官の一人が、すぐに陽子の拘束を解いた。陽子は、震えながらも、無事だった。
黒瀬は、じりじりと後退しながら、忌々しげに龍見を睨みつけた。
「小賢しい真似を……」
「これが、儂の流儀や」
龍見は、静かに、しかし揺るぎない声で言った。
「拳は使わん。せやけど、大切なもんを守るためなら、あらゆる手を尽くす。それが、山崎龍見であり――今の、山札太陽の生き方や」
警察官たちが、黒瀬を取り囲んでいく。黒瀬は、最後まで、冷たい笑みを崩さなかった。
「面白い坊主や。せやけど、儂を捕らえたところで、この程度の証拠で、どこまで裁けるか、見物やな」
「それでもええ」
龍見は、静かに答えた。
「今夜、あんたの化けの皮を、一枚剥がせた。それだけで、十分や。あとは、法の裁きに委ねる」
黒瀬は、警察官に連行されながら、最後に、龍見を振り返った。
「山崎龍見……いや、山札太陽、いうたか。次に会う時は、また違う因縁が生まれるかもしれんな」
「その時は、また、受けて立つ」
龍見の声には、迷いも、恐れもなかった。
黒瀬の姿が、警察車両の中に消えていくのを見届けた後、龍見は、母の元へと駆け寄った。
「おかん、大丈夫か!」
「太陽……!」
陽子は、龍見に抱きつくと、声を上げて泣いた。
「怖かった……ほんまに、怖かった……!」
「もう、大丈夫や。もう、誰も、おかんに手を出させへん」
龍見は、母を優しく抱きしめながら、静かに、そう誓った。
鮫島と西岡が、駆け寄ってきた。
「太陽、ようやった」
「西岡さんの伝手と、鮫島の連携がなかったら、こうはいかんかった。ありがとう」
龍見は、二人に、深く頭を下げた。
夜明け前の港に、静かな朝の気配が、少しずつ広がり始めていた。
長かった戦いが、ようやく、一つの終わりを迎えようとしていた。




