第十五章 廃ホテルの夜
六甲の山肌に、廃業して久しいホテルが、朽ちるように建っていた。
かつては観光客で賑わったのだろう、その面影を残す看板は色褪せ、正面玄関のガラスは半分近く割れている。龍見は、その前で、静かに息を整えた。
「ここで待っとる。何かあったら、すぐに動く」
少し離れた物陰から、鮫島が低い声で言った。西岡も、反対側の茂みに身を潜めている。龍見は、小さく頷くと、一人、ホテルの中へと足を踏み入れた。
埃と、湿った黴の匂いが、鼻を突いた。かつてのロビーには、ソファが朽ちたまま放置され、天井からは、剥がれた壁紙が垂れ下がっている。
龍見は、教えられた通り、二階の一室へと階段を上がった。
ドアを開けると、そこには、一本の非常灯だけが灯る、殺風景な部屋があった。窓際に、一人の男が立っている。
「――お待ちしていました、山札くん」
振り返ったのは、影山賢一だった。
「あんたが、代理人か」
「ええ。もっとも、私自身も、あなたと同じ立場かもしれませんがね」
影山の声には、以前にはなかった、微かな疲労の色が滲んでいた。
「どういう意味や」
「単刀直入に言いましょう。黒瀬様は、あなたのことを――いえ、あなたという『不確定要素』を、極めて危険視しています」
影山は、ゆっくりと窓辺を離れ、龍見との距離を詰めてきた。
「私は今夜、あなたを説得するか、あるいは――永久に黙らせるか、その判断を任されています」
龍見は、動じることなく、影山の目を見返した。
「せやったら、まず、儂の話を聞いてくれ」
龍見は、懐から、一枚の書類のコピーを取り出した。
「これは、黒瀬雅人と天羽連合、そして立花商事との資金の繋がりをまとめた資料の一部や。原本は、複数の弁護士と、信頼できる人間の手に渡っとる。儂の身に何かあれば、警察とマスコミに、自動的に送られる手筈になっとる」
影山は、資料に目を通しながら、表情を変えなかった。
「――なるほど。よく出来ています」
「儂を消しても、この資料は消えん。それどころか、儂を消したことで、黒瀬にとっては、もっと都合の悪い結果を招くことになる」
「脅迫、ですか」
「取引や」
龍見は、静かに、しかし揺るぎない声で続けた。
「儂は、鈴鹿組を継ぐ気はない。堅気として、ここで生きていく。黒瀬にとって、儂は、脅威になる理由がない。せやけど、儂の周りの人間に、これ以上手を出すんやったら――話は別や」
「もし、それでも黒瀬様が、あなたの存在そのものを許容できないとしたら?」
影山の問いに、龍見は、少しの間を置いてから、答えた。
「そん時は、覚悟の上や」
龍見の目に、迷いはなかった。四十年近い極道人生で培った胆力が、この痩せた高校生の体を通して、はっきりと滲み出ていた。
影山は、しばらく無言で、龍見を見つめていた。やがて、小さくため息をついた。
「正直に言いましょう。私自身も、疲れていましてね」
「疲れた……?」
「黒瀬様に仕えて、もう十年になります。合法の皮を被った悪事を、幾度となく請け負ってきました。ですが最近、思うんですよ。私自身もまた、いつか用済みになれば、切り捨てられる駒に過ぎないのだと」
影山の声に、初めて、人間らしい翳りが滲んだ。
「神楽坂も、そうでした。使い捨てられた」
「あんたも、同じ道を辿るいうことか」
「その可能性は、十分にあります」
影山は、静かに窓の外を見やった。
「山札くん。一つ、忠告しておきましょう。今夜、私が持ち帰る返答次第では、黒瀬様が、直接、動く可能性があります」
「黒瀬本人が、か」
「ええ。あの方は、自分の手を汚すことを厭わない人です。特に――」
影山が、言葉を切ったその時だった。
階下から、複数の足音が響いてきた。荒々しい、統率の取れた足音。龍見の全身に、緊張が走った。
「影山、これは――」
「私の手配ではありません」
影山の顔にも、明らかな動揺が浮かんだ。
「まさか、黒瀬様が、独自に動いたか……」
ドアが、乱暴に開け放たれた。そこに立っていたのは、黒いスーツに身を包んだ、屈強な男たちだった。四人、いや五人。
「山札太陽やな」
先頭の男が、低く唸るように言った。その目に、これまでの三流の脅し屋たちとは、明らかに異なる、殺気にも似た光があった。
龍見は、静かに一歩、後ろに下がった。
(ここで、仕掛けてくるか)
物陰に潜む鮫島と西岡に、この状況が伝わっているかどうかは、分からない。だが、退くわけにはいかなかった。
「影山、これは、あんたの手配やないんやな」
「違います。この者たちは……黒瀬様の直属の部隊です」
影山の声が、僅かに震えていた。
男たちが、じりじりと距離を詰めてくる。龍見は、懐に忍ばせた資料のコピーを、強く握りしめた。
(ここで消されたら、資料は自動的に送られる。せやけど――)
龍見の脳裏に、母の笑顔、颯真の照れくさそうな顔、麗奈の真剣な眼差し、鮫島の忠誠、西岡の男気が、次々と浮かんでは消えた。
(まだ、死ねん。ここで終わるわけにはいかん)
先頭の男が、懐から、鈍く光る何かを取り出した。
「大人しゅう、こっちに来てもらおうか」
龍見は、静かに息を吸い込んだ。拳を握り、迎え撃つ覚悟を決めた、その瞬間――
廃ホテルの外から、複数のヘッドライトの光が、窓越しに差し込んだ。
「――遅くなってすまんな、太陽」
鮫島の声が、階段の下から響いた。西岡の呼び寄せた、古参の仲間たちだろうか、複数の男たちの気配が、廃ホテルの周囲を、瞬く間に取り囲んでいく。
黒瀬の部下たちの動きが、明らかに止まった。
(間に合ったか)
龍見は、内心で安堵の息を吐いた。だが、緊張は、まだ解けなかった。
先頭の男が、忌々しげに舌打ちをした。
「今日のところは、退かせてもらう」
男たちは、龍見を鋭く睨みつけながら、じりじりと後退していった。影山だけが、その場に残り、龍見を見つめていた。
「――お見事です。まさか、これほどの備えをしているとは」
「儂を誰やと思うとる」
龍見は、静かに、しかし力強く答えた。
影山は、小さく笑った。これまで見せたことのない、どこか清々しい笑みだった。
「山札くん。今夜のことは、必ず黒瀬様に報告します。ですが――一つだけ、私からの忠告を」
「なんや」
「黒瀬様は、これで終わらせるような方ではありません。次は、もっと、直接的な手段に出るでしょう」
影山は、静かにそう言い残すと、部下たちの後を追うように、暗闇の中へと消えていった。
廃ホテルの外に出ると、鮫島と西岡、そして見知らぬ数人の男たちが、龍見を待っていた。
「太陽、無事か!」
鮫島が、駆け寄ってきた。
「ああ、なんとかな。ぎりぎりやったけど」
龍見は、詰めていた息を、ゆっくりと吐き出した。
「西岡さん、この人らは」
「儂の、古い付き合いの連中や。何かあったら、駆けつけてくれる言うてくれとった」
西岡が、頼もしげに笑った。
龍見は、集まった男たちの顔を、一人ひとり見渡した。かつての極道としての力ではなく、堅気として、この新しい人生で築いてきた信頼と絆が、今夜、確かに自分を守ってくれた。
(一人やない。もう、儂は、一人やない)
その実感が、龍見の胸に、静かに、しかし力強く広がっていった。
だが、影山の最後の言葉が、重く胸に残っていた。
(黒瀬本人が、直接動く……)
本当の決着は、まだ、ついていなかった。




