第十四章 布石
「黒瀬に会う言うても、丸腰で乗り込むんは、自殺行為や」
西岡の喫茶店に集まった三人――龍見、鮫島、西岡は、閉店後の店内で、額を突き合わせていた。
「せやから、丸腰では行かん」
龍見は、静かにそう言った。
「拳も、刃物も持たん。せやけど、儂らには、あんたらが用意してくれた武器がある」
龍見は、テーブルの上に、一枚の書類を広げた。葛城が用意した、これまでの調査結果をまとめた資料だった。神楽坂の証言記録、防犯カメラの映像データの写し、立花商事の資金の流れ、そして――西岡の伝手を通じて集めた、黒瀬機関の名前が浮かび上がる、断片的な証拠の数々。
「これを、盾にする」
「盾……武器やなくて、盾か」
鮫島が、怪訝な顔をした。
「せや。黒瀬と直接やり合うつもりはない。あんたは何も知らんまま、鈴鹿組の内輪揉めに乗じて甘い汁を吸おうとしただけの小悪党や、いうことにしといたる――そう持ちかける」
「取引、いうことか」
「取引や。ただし――」
龍見の声に、凄みが加わった。
「この資料は、儂に何かあった瞬間、自動的に警察とマスコミに送られる手筈になっとる。葛城先生に、預けてある」
「なるほどな」
西岡が、感心したように唸った。
「儂を消しても、資料は残る。儂を放っておく方が、黒瀬にとっても得や、いう構図を作るわけか」
「せや。極道の理屈も、結局のところ、損得勘定が土台や。それは、黒瀬のような男にも、通用するはずや」
龍見の脳裏に、四十年近い極道人生で培ってきた、無数の駆け引きの記憶が蘇っていた。力ずくで押し通すことばかりが、渡世の流儀ではない。時には、退路を断ちつつ、相手に「これ以上やり合う旨みがない」と思わせることこそが、最も鋭い刃になる。
「せやけど、太陽」
鮫島が、真剣な顔で口を開いた。
「黒瀬いう男は、それでも納得せんかもしれん。損得勘定を超えて、お前という存在そのものを、消したいと思っとる可能性もある」
「六代目の生まれ変わり、いう噂が、それだけ厄介な存在いうことか」
「せや。裏社会いうんは、迷信深い連中の集まりでもある。もし、お前の存在が本物やと広まれば、黒瀬が仕組んだ和平交渉の裏切りも、いずれ表沙汰になりかねん。それを恐れて、なりふり構わず動く可能性は、十分ある」
龍見は、静かに頷いた。鮫島の懸念は正しい。損得勘定だけでは測れない、恐怖という感情が、黒瀬を突き動かしているとしたら――交渉の余地は、思っているよりも狭いかもしれない。
「それでも、会う」
龍見の決意は、揺るがなかった。
「待っとるだけやったら、母も、颯真も、麗奈さんも、あんたらも、いつまでも狙われ続ける。それやったら、儂が、直接、決着をつける方がええ」
西岡が、静かに息を吐いた。
「分かった。儂も、覚悟を決めよう。接触の場は、儂の伝手で用意する。中立の場所――双方の息のかからん場所を選ぶ」
「頼みます」
「せやけど、太陽」
西岡の目に、真剣な色が宿った。
「一つだけ、条件がある。儂と鮫島も、近くで控えさせてもらう。何かあれば、儂らも、すぐに動く」
龍見は、少し迷ったが、やがて頷いた。
「分かった。頼む」
三日後、西岡から連絡が入った。
「太陽、場が整った。明後日の夜、六甲の外れにある廃業したホテルの一室。黒瀬の代理人が、そこで会う言うとる」
「黒瀬本人は、来んのか」
「分からん。せやけど、少なくとも、話は聞く用意がある、いうことやろ」
龍見は、静かに息を吸い込んだ。
(いよいよ、か)
その夜、龍見は、久しぶりに、母と静かに食卓を囲んだ。
「太陽、最近、元気ないみたいやけど。学校で、何かあった?」
陽子の問いに、龍見は、小さく首を振った。
「何もあらへんよ。ちょっと、色々考え事しとっただけや」
「そう……。無理せんでええからね」
陽子の優しい声に、龍見の胸が、じんわりと熱くなった。この温かい日常を守るために、明後日、決着をつける。その覚悟を、改めて胸に刻んだ。
「おかん」
「なに?」
「ありがとうな。今まで、育ててくれて」
唐突な言葉に、陽子が、驚いた顔をした。
「なんなん、急に。気持ち悪いなあ」
そう言いながらも、陽子の目には、涙が滲んでいた。母親としての勘が、何かを感じ取っているのかもしれない。
龍見は、それ以上、何も語らなかった。ただ、静かに、母の作った味噌汁を口に運んだ。
窓の外、神戸とは違う夜空に、月が静かに浮かんでいた。
決戦の夜が、刻一刻と近づいていた。




