第十三章 試される者たち
異変は、静かに、しかし確実に、日常の中へ忍び込んできた。
「山札、お前んち、変な人が張り込んどるって噂、聞いたんだけど」
昼休みの教室、颯真が声を潜めて話しかけてきた。以前とは見違えるほど、太陽との距離が近くなっている。
「聞いた、って誰から」
「東條……いや、麗奈から。あいつの家、お前んちのスナックの近くだろ。最近、見慣れない黒い車が、よく停まってるって言ってた」
龍見の目が、細くなった。母の店の周辺を張っているのは、鮫島が手配した見張りだけのはずだ。それ以外の車がいるとすれば――
(黒瀬の手の者か)
「颯真、麗奈さんに伝えてくれ。しばらく、あの辺りに近づかん方がええ、て」
「お前、また何かに巻き込まれてんの?」
颯真の顔に、心配の色が浮かんだ。以前の刺々しさは、もうどこにもない。
「巻き込まれとる、いうより――」
龍見は、一瞬言葉を切った。
「巻き込んでしまった側や、儂は」
「意味わかんねえよ、それ」
颯真は苦笑したが、それ以上は追及しなかった。ただ、こう付け加えた。
「何か手伝えることあったら言えよ。お前には、借りがあるからな」
その言葉に、龍見は小さく頷いた。堅気の世界で築いた、こうした繋がりの温かさを、龍見はまだ、うまく扱いきれずにいた。
放課後、鮫島から連絡が入った。
「太陽、麗奈さんの証言、裏が取れた。黒瀬機関の下部組織の車や、間違いない」
「動きは」
「今のところ、監視だけや。せやけど――」
鮫島の声が、重くなった。
「今朝、西岡の店の窓ガラスが、何者かに割られた。営業妨害いうレベルやない。明確な威嚇や」
龍見は、拳を握った。守るべきものが、じわじわと、四方から締め付けられていく感覚があった。
「西岡さんは」
「無事や。せやけど、相当、堪えとる様子やった」
「葛城先生には」
「もう連絡した。警察への被害届も、正式に出す段取りをしとる」
龍見は、静かに息を吐いた。合法の手段で、一つひとつ、着実に対抗していく。それが、龍見の選んだ道だった。だが、相手の締め付けは、想像以上に速く、広く、そして陰湿だった。
(このままやと、後手に回り続ける)
龍見の脳裏に、焦りにも似た感覚が生まれた。極道時代であれば、こうした状況には、力で先手を打ってきた。だが今の自分には、その力はない。
その夜、龍見は母の店の様子を、裏口から確かめに行った。見張りの男たちが、離れた場所からさりげなく周囲を警戒している。店内では、母がいつも通り、笑顔で常連客をもてなしていた。
(何も知らんまま、笑うとる)
その姿を見て、龍見の胸が締め付けられた。母を、この危険な渦から遠ざけたい。だが、店を畳ませることは、母から生きがいそのものを奪うことになる。
龍見が物陰で考え込んでいると、背後から声がかかった。
「太陽くん、やんな」
振り返ると、そこに立っていたのは、麗奈だった。私服姿で、心配そうな顔をしている。
「颯真から、少し聞いた。危ない目に遭っとるって」
「麗奈さん、ここに来たらあかん」
「分かっとるよ。せやけど……」
麗奈は、意を決したように、龍見の目を見た。
「うちの親、不動産関係の仕事しとって。最近、この辺りの再開発の話、聞くことがあるんよ。もし力になれることがあったら、言うて」
龍見は、驚いた。この少女もまた、以前は太陽を嘲笑っていた一人だった。それが今、こうして手を差し伸べてくれている。
(人いうんは、変われるもんやな)
「ありがとう。せやけど、今は、まだ大丈夫や」
龍見は、努めて穏やかに、そう答えた。麗奈を、これ以上この渦に巻き込むわけにはいかない。
麗奈が立ち去った後、龍見は、静かに拳を握りしめた。颯真、麗奈、鮫島、西岡、葛城――堅気の世界で、少しずつ築いてきた繋がりが、今、危険にさらされようとしている。
(もう、待っとる場合やない)
龍見の中で、何かが決壊した。これまでは、あくまで受け身の姿勢で、合法的な手段だけを頼りに、じっと機を待ってきた。だが、大切な人間たちが、次々と脅かされていく現状を、これ以上、黙って見ているわけにはいかなかった。
龍見は、鮫島に電話を入れた。
「鮫島、黒瀬本人と、直接話す場を作れんか」
「――正気か、太陽」
鮫島の声が、驚愕に染まった。
「相手は、関西の裏社会全体に睨みを利かせとる化け物や。会うだけでも、命の保証はない」
「分かっとる。せやけど、このまま後手に回り続けとったら、いずれ、母や、颯真や、麗奈さんや、みんなが危険にさらされる。それやったら――」
龍見は、静かに、しかし揺るぎない声で続けた。
「儂が、直接、話をつける」
「拳は使わん、言うとったやろ」
「使わん。せやけど、話をつけるいうんは、殴り合うことだけやない」
龍見の声には、極道として四十年近く生きてきた男の、揺るぎない胆力が滲んでいた。
「黒瀬が本当に、儂を利用するつもりなんか、それとも消すつもりなんか――直接、その目を見て、確かめる」
電話の向こうで、鮫島がしばらく沈黙した。やがて、重い声で言った。
「……分かった。西岡とも相談して、接触の場を探る。せやけど、太陽、一つだけ約束してくれ」
「なんや」
「絶対に、一人では行くな」
龍見は、静かに頷いた。
「約束する」
電話を切った後、龍見は、夜空を見上げた。母の店から漏れる灯りが、遠くに小さく見えた。
守るべきものは、増えていく一方だった。だが、それは同時に、龍見――いや、山札太陽が、この新しい人生で、確かに何かを積み上げてきた証でもあった。
(誰一人、失わせん)
その決意を胸に、龍見は、最後の戦いへの一歩を、静かに踏み出した。




