新緑の街道と、お腹を空かせた野生児
「……北、こっちで合ってるわよね?」
王都を離れて数日。リゼットは新緑が眩しい街道を、軽快なステップで歩いていた。
頭上に広がる空はどこまでも青く、初夏の柔らかな風が、彼女の髪を揺らしていく。
背中には愛用の大鍋。そして腰のベルトには、旅立つ直前にバルドが「これを持っていけ」と差し出してくれた、ずっしりと重い皮の鞘がぶら下がっていた。
『リゼット、それは俺が昔、大陸中を渡り歩いてた時に使ってた包丁……いや、もはや鉈に近い代物だ。どんな硬い殻も叩き割れる。お前のその、常識外れの料理にはこれくらい必要だろ?』
無骨なバルドの大きな手が、リゼットの頭を乱暴に撫でた感触を思い出す。
渡されたのは、包丁というにはあまりにも武骨で、剣というにはあまりにも幅広な「調理用鉈」だった。
使い込まれた柄は、バルドがかつて腕利きとして鳴らしていた頃の歴史を物語るように、彼女の手によく馴染んだ。
「バルドおじさんのパン、美味しいけど……やっぱり、お出汁が欲しいわね」
リゼットは鼻をくんくんと鳴らした。
王都の喧騒が消え、代わりに聞こえてくるのは鳥のさえずりと、草むらで何かが蠢く音。
彼女にとって、それは穏やかな自然の旋律ではなく、今夜の「お品書き(メニュー)」に他ならない。
「昨日食べたノウサギさんは、少し筋肉質すぎたわね。今日はもっと……こう、脂の乗ったお肉がいいな」
そんな独り言を呟きながら歩いていると、街道の先から、不穏な音が風に乗って届いた。
馬の激しいいななき、荷馬車が軋む音、そして――。
「助けてくれー!」
「来るな! こっちへ来るな!」
必死な人間の悲鳴だ。
リゼットは足を止めた。
普通なら恐怖で身を竦める場面だが、彼女の黄金色の瞳に宿ったのは、純粋な「期待」だった。
「あら。……あっちから、すごくいい『お肉の匂い』がするわ!」
悲鳴よりも先に、風に乗って漂ってきた野生の獣肉の香りに反応したリゼット。
彼女が茂みを飛び越え、街道が開けた場所へ躍り出た先では、数台の馬車を連ねた商隊が、絶体絶命の危機に瀕していた。
商隊を囲んでいたのは、十数頭の『剛毛イノシシ(ワイルド・ブリストル)』の群れだった。
体長3メートル
。鋼のように鋭く硬い剛毛で覆われたその体は、並の剣では傷一つつけられない。
イノシシたちは低い唸り声を上げ、その巨大な牙で馬車の車輪を粉砕しようとしていた。
「ひいぃ! 護衛! 護衛は何をやってるんだ!」
「旦那、無理です! こいつら、皮が硬すぎて刃が通りません! 囲みを抜けるのが精一杯だ!」
雇われた若手冒険者たちが、腰を引かせながら必死に剣を振るう。
だが、彼らの剣はイノシシの背中に跳ね返され、火花を散らすばかりだ。
「おい、そこの娘! 危ないから逃げろ!」
一人の護衛がリゼットに気づき、叫んだ。
だが、リゼットの耳にその忠告は届いていなかった。
彼女の視線は、群れの中でも一際巨大な、丸々と太ったリーダー格のイノシシに釘付けになっていた。
「……見て、あの首筋の盛り上がり。あそこ、絶対美味しいわ。……バラ肉は少し炙って、残りは煮込みにしましょう!」
ゴクリ、とリゼットの喉が鳴る。
彼女は背中の大鍋をドスンと地面に置くと、腰の鞘からバルド譲りの重厚な鉈を引き抜いた。
「どいて! そのイノシシ、肩ロースのところが一番美味しいんだから!!」
「は……? 肩、ロー……?」
冒険者たちが呆気にとられる中、リゼットは大地を蹴った。
少女とは思えない爆発的な加速で、彼女は一直線に群れの中心へと突っ込んでいく。
「グルアァァッ!」
リーダー格のイノシシが、自分を「肉」呼ばわりした不遜な侵入者を排除しようと、重戦車のような勢いで突進してくる。
「そこっ! 筋を切らないと硬くなっちゃうでしょ!」
リゼットは突進を紙一重でかわすと、イノシシの巨体の懐へ、まるで見慣れた厨房で包丁を握る時のように、無駄のない動きで潜り込んだ。
――ズシャァァッ!!!
街道に、凄まじい断裂音が響き渡った。
バルドから託された重厚な鉈が、冒険者の剣を弾き返した剛毛を易々と断ち切り、イノシシの頸動脈を正確に捉える。
噴き出す鮮血。
三メートルを超える巨体が、一歩も進めぬまま、まるで糸が切れた人形のように地面に沈んだ。
もうもうと土煙が舞う中、リゼットは素早く次の個体へと狙いを定める。
「次はあなたね! 背脂、たっぷり貰うわよ!」
「ぎ、ぎぃぃ……!?」
仲間を一撃で仕留められた恐怖からか、あるいはリゼットから放たれる「捕食者」としての圧倒的な重圧に当てられたのか、残りのイノシシたちは蜘蛛の子を散らすように森の奥へと逃げ出していった。
静まり返った街道。
リゼットは返り血を浴びた頬を袖で無造作に拭い、目の前に転がっている巨大な「お肉」を、恋人でも見つめるような優しい眼差しで見つめた。
「あーよかった。逃げられたら今夜のご飯がなくなるところだったわ」
彼女は鉈を鞘に収めると、腰を抜かしている商人の旦那に向かって、屈託のない笑顔で言った。
「ねえ、そこのおじさん! お鍋のお水、貸してくれない? お礼に、とっても美味しいスープを作ってあげるから!」
護衛の若者たちは、抜いた剣を構えたまま、石像のように固まっていた。
自分たちが死を覚悟した猛獣を、ただの「逃げる食材」としてしか見ていなかった少女。
その返り血を浴びながらも不釣り合いなあまりにも眩しい美貌。
「……旦那。あの娘、一体何者なんですか……」
「……知らん。だが、あの鉈の捌き……ただのお嬢ちゃんではないことだけは確かだ」
これが、後に商隊の間で伝説となる『街道の解体聖女』とリゼットの、最初の出会いであった。
彼女が去った後の街道には、血の匂いではなく、不思議と芳醇な肉を煮込む香りが漂い始めていた。
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