旅立ち
「……リゼット、お前は今日限りでクビだ。さっさと荷物をまとめて出ていけ」
翌朝。開店前の『ひだまり亭』に、店主バルドの低く、突き放すような声が響いた。
厨房で野菜の下処理をしていたリゼットの手が、ぴたりと止まる。
「え……? おじさん、今なんて……?」
リゼットが振り返ると、そこにはいつもの快活なバルドの姿はなかった。
彼はリゼットの顔を見ようともせず、カウンター越しに硬いパンの詰まった袋と、わずかな銀貨が入った小袋を乱暴に放り出した。
「聞こえなかったのか。お前みたいな得体の知れない娘を、これ以上置いておくわけにはいかねえんだよ。……ほら、さっさと行け!」
「そんな、おじさん! 私、何か悪いことした……? 味付けが濃すぎた? それとも、昨日煮込んだ魔物の部位がマズかった……?」
リゼットが詰め寄ろうとした、その時。
店の表から、騒がしい足音と金属的な音が響いてきた。
「衛生局だ! 通報に基づき、立ち入り検査を行う! 道をあけろ!」
荒々しく扉が蹴破られ、数人の役人と、その後ろから勝ち誇ったような顔をした飯屋『大豚の胃袋亭』の店主、グードが姿を現した。
「ほら見ろ、役人さん! あの娘だ。あいつが毎日、裏口から正体不明の魔物を運び込んで、毒入りのスープを客に食わせてやがるんだ!」
グードの指差す先、リゼットは困惑した表情で立ち尽くしていた。
役人の一人が冷酷に告げる。
「不浄な食材の調理、および無許可での魔力薬草の使用疑い……。ひだまり亭、店主バルド。貴様、この娘を雇い、共に王国公衆衛生法に抵触する犯罪行為を行っていたな?」
「……知らねえな」
バルドは腕を組み、役人の前に立ちはだかった。
「この娘は、一週間前に勝手に転がり込んできたただの浮浪児だ。俺が目を離した隙に、勝手に鍋を握りやがった。……この店に、こんな奴は必要ねえ。さっきクビを言い渡したところだ。文句があるなら、俺じゃなくその娘を追い出せばいいだろうが」
「おじさん……?」
リゼットは耳を疑った。バルドが自分を売るようなことを言うはずがない。
だが、バルドの背中は小刻みに震えていた。その大きな拳は、血が滲むほど固く握りしめられている。
(……ああ、そうか)
リゼットは気づいた。
バルドは自分を庇っているのだ。
自分がここに居続ければ、店は潰され、バルドも投獄される。
それを防ぐために、彼はわざと自分を突き放し、すべての責任を「勝手な居候」に押し付けて逃がそうとしている。
「……バルドの言う通りだとしたら、娘、お前を同行させねばならん。来てもらおうか」
役人がリゼットの腕を掴もうと伸ばした、その時。
「おっと。その汚い手を、俺の妹分に向けないでもらおうか」
どこからともなく、影のようにザックが現れた。
彼は役人の手首を鋼のような握力で掴み、無造作にひねり上げる。
「あぐっ!? な、なんだ貴様は!」
「……ただの通りすがりの冒険者だよ。……おい、役人。この娘が毒を作ってるっていう証拠はあるのか? ここのスープを飲んで病気になった奴が一人でもいるのかよ。むしろ、お前らが賄賂を受け取ってる証拠なら、俺が今ここでギルドに通報してやってもいいんだぜ?」
ザックの放つ圧倒的な殺気に、役人たちは一瞬で顔を青くした。
ゴールドランクの威圧感は、末端の小役人を震え上がらせるには十分すぎた。
「ひっ……! 覚えてろよ、ひだまり亭! 次は軍を連れてきてやるからな!」
グードと役人たちは、尻尾を巻いて逃げ出していった。
静まり返った店内に、リゼットとバルド、そしてザックの三人だけが残る。
「……リゼット。……追い出したのは、本気だ」
バルドはようやくリゼットの方を向き、その瞳に苦しげな、しかし確かな慈愛を浮かべた。
「お前は、こんな薄暗い下町の、小さな鍋に収まっていい奴じゃない。……お前の『祈り』は、もっと多くの奴らを救える。こんな腐った役人が威張り散らす場所じゃなく、もっと切実に、お前の料理を待っている奴らがいる場所へ行け」
「バルドおじさん……」
「クビだ、リゼット。……だから、笑顔で。もっと広い世界を見せてこい。それが、お前を拾った俺への恩返しだ」
リゼットは溢れそうになる涙を、ぐっとこらえた。
彼女は自分のエプロンを丁寧に畳み、カウンターに置くと、背中に愛用の大鍋を背負い直した。
「……わかったわ。おじさん、ありがとう。……おじさんの腰、絶対に無理しちゃダメよ。また痛くなったら、トカゲの湿布を……あ、これはダメね」
リゼットの少し場違いな冗談に、バルドが鼻で笑った。
「……じゃあ、行ってくるわ!」
数刻後。
リゼットは王都の喧騒を背に、北へと続く街道を一人、軽快な足取りで歩き始めていた。
ザックから授かった「さらし」のおかげで、足取りは驚くほど軽い。背中の袋には、バルドが持たせてくれた、とびきり硬い「ひだまり亭」のパン。
「……よし! 北へ行こう。あっちには、もっとお腹を空かせた人がたくさんいるかもしれないもんね!」
彼女は一度だけ振り返り、遠ざかる王都の街並みに深く頭を下げた。
王宮を追われ、下町の恩人と別れ、彼女は再び独りになった。
だが、その瞳に迷いはない。
冷たく吹き抜ける辺境の風。その先に待つのは、後に彼女が「最高の家族」と呼ぶことになる、無愛想な騎士団長と、飢えた騎士たちの砦。
リゼットの「祈り」は、これから辺境の冷たい風を、美味なる黄金の香りで満たしていくことになる。
彼女の本当の物語は、ここから始まるのだ。
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