『ひだまり亭』の皿洗いと、黄金のトカゲスープ
王都の華やかな中央通りを抜け、石畳が欠け、下水の匂いが漂う下町へと足を踏み入れると、そこには別の世界が広がっていた。
「……お腹、空いたなぁ」
リゼットは、背負った大きな鍋を揺らしながら呟いた。
王宮を追い出されてから三日。手元にあるのは愛用の鍋と包丁、そしてザックがくれた「さらし」だけだ。
バルトロ料理長に「クビだ!」と言われた時は、新しい食材に出会える喜びで胸がいっぱいだったが、いかんせん路銀というものを全く持っていなかった。
ぐぅぅ、とリゼットの胃袋が情けない音を立てる。
その時、鼻をくすぐったのは、微かな、しかし確かな「小麦」の匂いだった。
リゼットは吸い寄せられるように、一軒の古びた食堂の前に辿り着いた。
看板には掠れた文字で『ひだまり亭』とある。
「……あの、すみませーん。……だれか、いませんか……?」
店の中へ足を踏み入れた瞬間、リゼットの視界がぐらりと揺れた。極度の空腹と連日の野宿。野生児といえど、限界だった。
「おい、娘! 大丈夫か!」
奥から現れたのは、煤けたエプロンをつけた、熊のような大男だった。
店主のバルドは、倒れ込んだリゼットを慌てて支えると、カウンターにあった自分の昼飯――食べかけの硬いパンと、ぬるくなった白湯を差し出した。
「ほら、これを食え! 死ぬんじゃねえぞ!」
リゼットは夢中でパンを口に運び、白湯で流し込んだ。
胃の腑が熱を持ち、指先に力が戻ってくる。
「……ふぅ。おじさん、ありがとう! 助かったわ!」
「礼ならいらねえ。それよりお前、その大きな鍋を持って一体どこから……」
バルドが言いかけたその時だ。
「……あうっ!?」
バルドの巨体が、不自然な角度で固まった。
バキッ、という嫌な音が店内に響く。
「おじさん!? どうしたの!」
「ぐ、ギックリだ……。昨日から予兆はあったんだが……。くそ、これから昼の仕込みだってのに……」
バルドは顔を真っ赤にして床に崩れ落ちた。
この店は彼が一人で切り盛りしている。
彼が動けなければ、今日の営業は絶望的だ。
バルドは痛みに耐えながら、悔しそうに拳を握った。
「……お前、飯を食ったらさっさと行きな。……今日の店は、お終いだ……」
その弱々しい声を聞いた瞬間、リゼットの黄金色の瞳に火が灯った。
「おじさん、寝てて! 私、これでも王宮で働いてたの。お礼に、私が今日のスープを作るわ!」
「……は? 王宮? お前みたいな小娘が……あ、おい! 待て!」
制止する間もなく、リゼットは勝手口へと飛び出していった。
食材棚には干からびた根菜が少しだけ。
これでは「明日も生きられる」スープは作れない。
リゼットは鼻をくんくんと鳴らし、店の裏路地にあるゴミ集積所を睨みつけた。
そこには、生ゴミを狙って集まってきた、体長50センチほどの魔物――『一角ヤモリ』が数匹、這いずり回っていた。
「見ぃつけた。……いい出汁、出してね?」
リゼットの目が、ハンターのそれに変わる。
十分後。
厨房からは、バルドが今まで聞いたこともないような、複雑で芳醇な香りが漂い始めていた。
「おい、お前……一体何を煮込んでやがるんだ……。匂いだけで、腰の痛みが少し引いてきたぞ……」
「えへへ、秘伝の隠し味よ!」
リゼットは、さらしの上からパツパツの制服を揺らし、巨大な木べらで大鍋をかき混ぜる。
鍋の中では、丁寧に下処理されたヤモリの尾と、バルドが捨てようとしていた野菜の皮、
そしてリゼットが持っていた「祈りのスパイス」が渾然一体となり、黄金色の輝きを放っていた。
その匂いに釣られるように、一人、また一人と、仕事帰りの労働者たちが店に入ってくる。
「おいバルド、今日はいい匂いがするじゃねぇか……って、誰だその小娘は?」
最初に現れたのは、全身泥まみれの石工だった。
彼は不審げにリゼットを見つめたが、差し出された琥珀色のスープを一口、啜った。
「…………っ!!」
石工の動きが止まる。
次の瞬間、彼の目から大粒の涙が溢れ出した。
「……なんだ、これ……。温かい……。指の先まで、力が……。俺、今日はもう疲れて、明日なんか来なきゃいいと思ってたのに……」
彼は夢中で器を煽り、叫んだ。
「おかわりだ! お嬢ちゃん、これをもう一杯くれ! これがあれば、明日もまた、石を積める気がするんだ!!」
その叫びを聞いて、次々と客たちがスープを注文し始める。
「俺もくれ!」「こっちもだ!」
静かだった『ひだまり亭』が、一瞬にして熱気に包まれた。
床で横になっていたバルドは、その光景を呆然と見守っていた。
客たちが、見たこともないような晴れやかな顔でスープを飲み、笑っている。
「……祈り、か」
バルドは、リゼットがさっき呟いた言葉を思い出した。
「おじさん、見て! みんな、とってもいい顔よ!」
湯気の中で笑うリゼットの姿は、下町の汚れた厨房にはあまりにも不釣り合いで、それでいて、誰よりも神々しく見えた。
これが、後に「王都の隠れた守護聖女」と呼ばれる少女が、路地裏で起こした最初の奇跡だった。
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