暗殺者の回想
俺は、名を捨てた男だ。
隣国の影に潜み、数多の政敵の息の根を止めてきた。
世間では『影の猟犬』などと恐ろしい二つ名で呼ばれていたらしいが、そんなものはどうでもいい。
俺にとって暗殺とは、緻密な計算と冷徹な技術の積み重ね、ただそれだけだった。
だが、あの『断絶の森』で出会った「水着の怪物」――いや、リゼットとかいう少女に出会った瞬間、俺の積み上げてきた三十年の矜持は、彼女が放り投げた岩石と共に粉々に砕け散った。
今でも、目を閉じれば思い出す。
俺の完璧な隠密を鼻歌交じりに見破り(本人はトカゲを探していたと言い張っているが、あんなデタラメを誰が信じる?)、至近距離で大樹を粉砕したあの腕力を。
「……あ、あの。おじさん、これ、おかわりいります?」
目の前に差し出された、黄金色のスープ。
俺の首を絞めるようにして洞窟へ引きずり込んだ後、彼女が笑顔で差し出してきたものだ。
正直に言おう。俺はその瞬間、これが「死刑宣告」だと思った。
中に入っているのは、俺の暗殺道具よりも毒性の強いキノコトカゲだ。それを「隠し味に毒薬を垂らした」などと言いながら煮込む女。正気の沙汰ではない。
だが、空腹と恐怖に耐えかねて一口啜ったとき、俺の魂は震えた。
「…………っ!?」
旨い。
そんな、安っぽい言葉で片付けていいものだろうか。
身体の奥底から熱い奔流が湧き上がり、暗殺稼業で負った古傷や、凍りついていた心が、瞬く間に溶かされていくのが分かった。
それはもはや食事ではなく、一つの「救済」だった。
「どうですか? おじさん、顔色が良くなりましたね! やっぱり、しっかり食べなきゃダメですよ」
彼女はそう言って、服の隙間から覗く健康的な肌に汗を浮かべ、屈託のない笑みを向けた。
その姿には、一切の殺気がない。
人を殺めることなど想像もできないほど、彼女は純粋に「食」を愛している。
……それが、何よりも恐ろしかった。
あの日、俺は悟ったのだ。
俺が磨き上げてきた暗殺術など、彼女の「食べさせたい」という本能の前では、砂の城に等しい。
俺が影から狙った投剣を、彼女は「調理の邪魔」だとばかりに鍋の蓋で弾き(本人は虫を払ったつもりだったらしい)、俺が放った煙幕を「燻製にちょうどいい」と笑い飛ばした。
暗殺者とは、相手の弱点を突く者だ。
だが、あの女には弱点がない。
いや、彼女自身がこの森の「法則」そのものなのだ。
「お姉さん、あのおじさん、泣いてるよ?」
ターゲットであった王子シグが、不思議そうに俺を見ていた。
ああ、そうだ。俺は泣いていた。
あまりの美味さと、自分の小ささと、そして……これから自分が戻るべき「血塗られた世界」の虚しさに。
翌朝、俺は彼女に「もう暗殺なんて辞める」と告げた。
彼女は「え? やっぱり虫駆除のお仕事、大変だったんですね。転職頑張ってください!」と、どこまでも噛み合わないエールをくれた。
最後まで俺のことを『一生懸命な害虫駆除業者』だと思い込んでいた彼女の天然さに、俺はもう、笑うしかなかった。
俺は今、国境を越えた先にある小さな村で、一人のしがない猟師として生きている。
獲物を仕留めるたびに、彼女のあの言葉を思い出す。
『筋を切らないと、硬くなっちゃうでしょ!』
俺の鉈の捌きは、今や村で一番だ。
だが、どんなに完璧な血抜きをしても、あの森の洞窟で飲んだスープの味には届かない。
リゼット。
あの、美しくも恐ろしい「野生の聖女」。
彼女は今頃、北の砦とかいう場所で、また誰かの胃袋を掴み、その人生を滅茶苦茶に――いや、鮮やかに塗り替えているのだろう。
もし、お前たちが旅の途中で、魔魚を担いで笑う少女に出会ったら、迷わず逃げろ。
暗殺者としての忠告だ。
……いや。もしお前たちが、人生に絶望しているのなら。
その時は、黙って彼女の料理を口にするがいい。
お前の「死にたい」という願いなど、彼女の「美味しい」という一言で、木っ端微塵に砕いてくれるはずだ。
「……さて。今日の獲物は、あの娘ならどう調理するかな」
俺は腰の鉈を握り直し、森の奥へと足を踏み入れる。
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