静かなる追跡、あるいは戦慄の調理場
隣国の暗殺者キルトは、木の陰に身を潜め、冷や汗を流していた。
ターゲットである少年王子・シグの隣にいる、美少女。
彼女の挙動が、キルトの暗殺者としての常識をことごとく破壊していたからだ。
(……おかしい。隠密スキルは完璧なはずだ。なのに、なぜだ……!)
バルトが指に投剣を挟み、呼吸を整えた瞬間。
リゼットが、ピクリと鼻を動かし、キルトの潜伏している茂みを正面から睨みつけた。
「――そこにいるのは、分かってるわよっ!!」
「っ……!!」
キルトの心臓が跳ね上がった。
(見破られたか!? この距離で!?)
暗殺者が動揺して飛び退こうとしたその刹那、リゼットの腕が唸りを上げた。
ドォォォォンッ!!
リゼットが全力で放り投げた岩が、キルトの耳元を掠め、背後の大樹を粉砕した。
もしあと数センチ右に寄っていたら、キルトの頭部はスイカのように弾けていただろう。
「ひいぃっ……!?」
最強の暗殺者が、情けない声を漏らして地面に転がった。
しかし、リゼットはキルトに駆け寄るどころか、粉砕された樹の根元へ向かって猛ダッシュしていく。
「ああっ、逃がさないわよ! その茂みに隠れてる『毒吹きキノコ・トカゲ』!! 今日こそはそのシッポをスープの出汁にしてやるんだから!」
「…………え?」
地面に這いつくばったまま、キルトは呆然とした。
リゼットが鉈を振り回して追いかけていたのは、キルトの足元をチョロチョロと走っていた小さな魔獣だった。
彼女の視界には、屈強な暗殺者の姿など1ミリも入っていなかったのだ。
「あ、危ないわよ、そこのおじさん! そこに立ってたら、トカゲの毒ガスを浴びちゃうわ!」
リゼットがようやくキルトの存在に気づき、慌てて声をかけた。
彼女の顔には、殺気など微塵もない。
あるのは、見知らぬ通行人(?)を心配する、どこにでもいる優しい少女の表情だった。
「ひ、人……? 貴様、私を狙っていたのでは……」
「狙う? 私が? 怖いこと言わないでくださいよ!」
リゼットは、自分より遥かに物騒な装備をしたキルトを見て、思わず鉈を背中に隠し、シグの背後に一歩下がった。
「私、料理人ですよ? 人を狙うなんて、そんな……衛生局の立ち入り調査の時みたいに心臓がバクバクしちゃう……! シグ、この人、なんだかすごく怖い顔してるけど、もしかして……道に迷った猟師さん?」
シグは、リゼットの背後で必死に笑いを堪えていた。
隣国の刺客が、リゼットの「おかず狩り」の余波だけで、戦意を喪失してガタガタと震えている。
「あ、ああ。……そうみたいだね。お姉さん、このおじさん、すごくお腹が空いてて、頭が混乱してるんだと思うよ」
「まあ、そうなの!? 可哀想に……」
リゼットは「怖いおじさん」への恐怖よりも、料理人としての「空腹への同情」が勝ってしまった。
彼女は、トカゲのシッポ(戦利品)を手に取ると、怯えるキルトに向かって慈愛に満ちた(しかしキルトにとっては死神の勧誘に見える)笑顔を向けた。
「あの、おじさん。怖い顔しなくて大丈夫ですよ。今から、このトカゲさんで、元気が出る『痺れスープ』を作ってあげますから。……ね? 私、これでも王都で働いてたから、味には自信があるんです!」
キルトの目には、その笑顔の背景に、先ほど大樹を粉砕した岩の破壊跡が見えていた。
(……スープにするだと? 私をか? 「痺れ」させてから、「味には自信がある」だと……!?)
暗殺者の脳内で、リゼットの善意が「高度な尋問技術」へと変換されていく。
彼は、リゼットが差し出した「トカゲの死骸」を見て、ついに心が折れた。
「……た、助けてくれ……。もう……もう暗殺なんて辞める……」
「あら、暗殺? ……やっぱり猟師さんじゃなくて、虫駆除の専門家さんだったのかしら。大変なお仕事なんですね」
リゼットはどこまでも噛み合わない会話のまま、キルトの襟首を掴んで(力加減を間違えて少し首が締まったが)、洞窟へと引きずっていった。
「さあシグ! 準備して! 今日は珍しいお客様だから、特盛よ!」
「……うん。おじさん、お姉さんの料理は本当に美味しいから、覚悟を決めたほうがいいよ」
こうして、隣国最強の刺客は、リゼットの「無自覚な暴力」と「究極の料理」によって、再起不能なまでの胃袋の奴隷へと変えられていくのであった。
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