少年王子の回顧
あの日、僕は死を待っていた。
隣国の第三王子という、宝石を散りばめただけの虚しい肩書き。
王位継承という名の泥沼から逃れ、従者たちを失い、一人で迷い込んだ『断絶の森』は、幼い僕の絶望を飲み込むには十分すぎるほど深くて暗かった。
(……ああ、父上、母上。僕はここで、獣の餌として消えるのですね)
背後には、月光を宿したような銀色の毛並みを持つ、巨大な『山岳大狼』。
その飢えた瞳が僕を射抜き、喉の奥から漏れる低い唸り声が、僕の死期を告げていた。逃げる力も、剣を握る気力も残っていない。僕はただ、震える指を組み、嵐のような牙が僕の首を噛み砕く瞬間を待った。
だが――その時だった。
「――ちょっと! そんなところで勝手に『つまみ食い』しようとしないで!」
暗闇を切り裂くような、凛とした、けれどどこか陽気な声。
直後、僕の耳元を猛烈な勢いで「何か」が通り抜けた。
ドォォォォンッ!!
凄まじい衝撃音。目を開けると、そこには信じられない光景があった。
王国の精鋭騎士でも手こずるであろう猛獣が、重厚な「大鍋」を顔面に食らい、無様に地面を転がっていたのだ。
「あーあ、もう。この子ったら、私が目を離すとすぐこれなんだから」
茂みをかき分けて現れたその人を、僕は一生、忘れることはないだろう。
新緑の木漏れ日を背負って立つ彼女は、僕が知るどんな着飾った王妃よりも、気高く、そして美しかった。
不思議な青色の服に身を包んだその姿は、彫刻のようにしなやかで、健康的な肌が汗に濡れて真珠のように輝いている。
(女神……様……?)
僕は呆然と、その姿を見つめることしかできなかった。
彼女は気絶した狼の頭を、まるでお転婆な弟を叱るようにぺしぺしと叩くと、軽々と重い大鍋を拾い上げた。その仕草一つ一つが、僕には完成された演武のように優雅に見えた。
「大丈夫? ちょっと遅くなっちゃってごめんね」
彼女が僕に駆け寄り、その場に膝をついた。
至近距離で僕を覗き込む、澄んだ黄金色の瞳。
そこには、王宮の人々が向けてきた「憐れみ」や「打算」など微塵もなく、ただ純粋な「心配」だけが宿っていた。
「……あ、あ……」
声が出なかった。
彼女が僕をひょいと抱き上げた瞬間、僕の世界は一変した。
伝わってくる、驚くほどの熱量。
腕の柔らかさと、相反するような力強い筋肉の感触。そして、彼女の髪から漂う、森の若葉と、どこか食欲をそそる芳醇な香辛料の香り。
(ああ、僕は……救われたんだ)
絶望で凍りついていた僕の心臓が、彼女の胸の鼓動に共鳴するように、激しく脈打ち始めた。
「私はリゼット。しがない料理人よ。……あんた、体力が底をついてるじゃない。私の『拠点』へ行きましょう」
「えっ、あ、自分で……歩けるよ……」
顔に血が昇るのが分かった。情けないことに、僕は彼女の逞しくて豊かな胸元に顔を埋めるような形になってしまい、その柔らかさに触れるたび、頭の中が真っ白になった。
「いいのよ。お客さんに無理をさせるのは、料理人の名折れだわ」
リゼットお姉さんはそう言って、僕を軽々と背負い直した。
首筋に触れる彼女のうなじの熱さ。
肩紐から覗く、吸い込まれそうなほど白い肩。
彼女が険しい岩場を飛ぶように登るたび、背中から伝わる彼女の「生命力」が、僕の中に流れ込んでくるような気がした。
この森は死の領域だと思っていた。
けれど、この人の背中は、王宮のどのふかふかなベッドよりも温かくて、安全な場所だった。
「さあ、しっかり捕まってて。今夜は、あんたの顔色が良くなるような最高のスープを作ってあげるから!」
彼女の鼻歌が、風に乗って僕の耳をくすぐる。
僕は彼女の背中にしがみつきながら、密かに誓った。
いつか。いつか僕が、この華奢(に僕の目には見えた)で美しいお姉さんを守れるくらい、立派な男になったら。
今度は僕が、彼女を世界で一番安全な場所へ連れていくんだ。
少年の僕に訪れた、あまりにも強烈で、あまりにも「美味しい」初恋。
女神の背中に守られながら、僕は初めて、明日が来ることを願った。
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