女主人の溜息と、南方の贈り物
「――あんたたち! いつまで腑抜けた面して突っ立ってんのさ! 鼻の下を伸ばしてる暇があったら、さっさと荷馬車を立て直しな!」
霧が晴れ始めた川岸に、雷のような怒声が響き渡った。
声の主は、商隊の主の妻であり、実質的にこの隊の財布と規律を握る姐御肌の女性、マーサだった。
彼女は腰に手を当て、鼻血を出して固まっている護衛のカイルとルークを、一瞥で黙らせる。
「リゼット、あんたもだよ! そんな恰好で平然としてんじゃないよ、この大馬鹿娘!」
「あ、マーサさん。……だって、さらしが弾けちゃって。でも、おかげで蟹を仕留める時に腕がすごく自由に動いたんですよ」
ルークの外套をぶかぶかに羽織り、隠すべき場所を隠した安心感からか、すでにドヤ顔で語り始めるリゼット。
彼女の関心は、恥ずかしさよりも、仕留めた巨大な大蟹の「お味噌」の鮮度と、自分の技の冴えにしか向いていない。
「自由すぎんだよ! 男どもの理性が弾け飛んだらどうするつもりだい。……ほら、こっちに来な!」
マーサはリゼットの手を引くと、半ば強引に自分の馬車の陰へと連れ込んだ。
リゼットは「わ、わっ、蟹が……!」と後ろ髪を引かれながらも、マーサの迫力に押されて従うしかない。
「いいかい、リゼット。あんたは自覚がないだろうけどね、その……発育が良すぎるんだよ。王都の仕立て屋が泣いて喜ぶようなその身体で、ボロボロの制服を着て暴れ回るなんて、歩く兵器も同然さ」
マーサは溜息をつきながら、売り物の商品が詰まった重厚な木箱を開けた。
そこから取り出したのは、これまでリゼットが見たこともない、不思議な光沢を放つ布地だった。
「これはね、南方の島国で仕入れた『海女の潜り着』さ。向こうの海女たちが、巨大な貝や魚を獲る時に着る、特別な装備なんだよ。伸縮性が抜群で、水に濡れても重くならない。あんたみたいな漁師まがいの料理娘には、これ以上ないって代物だよ」
「わあ……! これ、すごく伸びる! これなら全力で鉈を振っても、さらしみたいに爆発しませんか?」
「……爆発はしないだろうけどね。あんたが着ると、別の意味で爆発力が増しそうだよ……」
マーサは、リゼットの無邪気な期待の眼差しに遠い目をしながら、その「南方の水着」を彼女の手に押し付けた。
これなら、どんなに激しい動きをしても、あの大蟹の時のような「爆散」はそうは起きそうにない。
「いいから着てみな。あんたのその……溢れそうな身を収めるには、これくらい特殊な素材じゃないと無理だろうからね」
数分後。
馬車の陰から、リゼットが恐る恐る姿を現した。
「……どうかな? マーサさん。ちょっと、スースーして落ち着かないけど……」
そこには、これまでの「煤けた制服」とは一線を画す、眩しい姿があった。
南方の海を思わせる深い青色の水着。
それはリゼットのしなやかな腰のラインを強調し、かつて「さらし」が必死に抑え込んでいた豊かな果実を、健康的な「美」として完璧にパッケージングしていた。
肩周りは自由になり、脚は付け根から大胆に露出しているが、それがかえって、魔物を仕留めるために鍛えられた彼女の「動ける美しさ」を引き立てている。
「……ふん。まあ、マシになったじゃない。少なくとも、勝手に弾け飛ぶ心配はなさそうだしね」
マーサは満足げに頷いたが、内心では(こりゃあ、また別の意味で男たちが全滅するね……)と頭を抱えていた。
案の定、馬車の陰から出てきたリゼットを見た護衛たちは、言葉を失った。
先ほどまでの「事故」のような露出ではなく、意図的に装われたその姿は、あまりにも破壊力が強すぎた。カイルにいたっては、持っていた水樽を地面に落としたことすら気づいていない。
「……ふん。まあ、その『潜り着』を中に着ておけば、もう勝手に弾け飛ぶ心配はないだろうね。……だけどさ、リゼット。あんた、まさかそのままの恰好で北まで歩くつもりじゃないだろうね?」
マーサは、水着姿で「身軽だわー!」と喜んでいるリゼットをジロリと睨んだ。
「え? ダメですか? 動きやすいし、すぐ乾くし……」
「ダメに決まってるだろ! あんたは良くても、周りの男たちの心臓が持ちゃしないよ。第一、北へ行けば夜は冷える。そんな恰好じゃ風邪を引いちまう」
マーサは呆れたように笑うと、別の木箱から、丈夫な麻で編まれた「チュニック」と、膝丈までの「ハーフパンツ」を取り出した。
「これはイノシシ退治のお礼だよ。あんたのボロボロになった制服の代わりさ。……ほら、さっさと着ちまいな」
リゼットは、水着の上に新しい旅装を纏って姿を現した。
淡いベージュのチュニックは、インナーの水着が程よく胸元をホールドしているおかげで、以前の制服のような「爆発寸前」の危うさは消えていた。
それでも、彼女の健康的な肉体美は隠しきれず、適度に絞られたウエストと、ハーフパンツから伸びるしなやかな脚が、活動的な「旅の少女」としての魅力を引き立てている。
「わあ、すごい! 生地がしっかりしてるのに、全然動きを邪魔しないわ。マーサさん、本当にありがとう!」
「礼を言うのはこっちだよ。こんな女の子が雇った護衛よりも強いなんてねぇ」
「――さあ! 準備はいいかしら!マーサさんが素敵な服をくれたお礼に、今日はこの大蟹で最高の『潮騒シチュー』を作るわよ! カイル、ルーク! 早く蟹の殻を剥いて! 隠し味に、さっき拾った岩塩を使うんだから!」
「「……は、はい!! 喜んで!!!」」
リゼットの明るい声に弾かれるように、男たちは猛烈な勢いで働き始めた。
カイルとルークの動きは、これまでの旅路で最も機敏だった。
リゼットが「こっちもお願い!」と微笑むたびに、彼らの作業効率は倍加していく。
その夜の野営地は、大蟹を煮込む芳醇な香りと、商隊の賑やかな笑い声に包まれた。
マーサから譲り受けた水着は、リゼットの「新しい戦闘服」として定着した。
川があれば飛び込み、獲物がいれば鉈を振るう。
そのたびに彼女の肢体は火の粉を浴びて輝き、商隊の男たちの胃袋と心を、さらに深く掴んでいった。
旅路はまだ半ばだが、リゼットの中では、バルドの店で感じた「誰かのために作る喜び」が、より大きな確信へと変わり始めていた。
(……美味しい。みんなが笑って食べてくれるのが、一番の活力になるわ)
リゼットは自分のお椀に残った蟹の身を頬張りながら、夜空を見上げた。
この街道の先に待つ「北の砦」。
そこにはどんな食材があり、どんな「お腹を空かせた人」がいるのだろうか。
「水着の料理人」という、およそ王国では前代未聞の姿になった彼女は、明日の朝にはさらに北へと進む。
彼女の物語は、初夏の風に乗って、着実に運命の場所へと近づいていた。
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