第1話 一目見た時から、堪らなく好きになった
上原忠雄は京都南郊の衛星都市「京田辺市」に住み、毎日、始発駅から地下鉄に乗って京都市内の会社へ通勤している。そして、毎朝、一人の若い娘を繁々と眺めやってビジネス街のオフィスビルへ出勤するのであるが、実は、忠雄はその娘が好きになっていた。彼女は毎日、同じ時刻に決まった階段を下りて来て、走って、出発間際のドアの開いている電車に飛び込む。その走る様子が如何にも可愛く、スマートで、上品だった。彼女は、少し息を弾ませながら、車内を一通り、二通り、きょろきょろ見渡してから、徐に空いている席に腰を下ろす。栗色の髪に真っ黒な瞳、顔色は象牙のような光沢を湛え、見るからに可憐な娘だった。
忠雄は彼女を一目見た時から、この顔が堪らなく好きになった。相手の女性を知っていようと居なかろうと、その場で無我夢中に抱き締めたくなるような女性に出逢うことが時には有るものだが、その娘は忠雄の心にそんな願いと思いと期待を抱かせるに十分だった。つまり、忠雄がそれと気付かずに自分の心の底に抱いている愛の理想と言うべきものに彼女は合致していたのである。
忠雄は車内で彼女を執拗に眺めた。繁々と見詰められて彼女は極まりが悪くなり、俯いて目を伏せた。忠雄もそれに気付いて視線を逸らしたが、直ぐにまた、彼の眼は引っ切り無しに彼女の上に戻って行った。そして、その魅了して止まない貌を見詰めながら、彼女との弾んだ語らいや心愉しいデートを夢想して、夢とも現とも判然とし難い感覚の中に浸るのだった。
或る日、忠雄はいつもの電車に乗り遅れそうになって、慌てて、階段を一段おきに飛び降りた。ホームへ走って行くと、眼の前を奔る彼女の姿が見えた。彼は追い縋りながら思わず声を懸けた。
「おはよう!」
彼女も振り向きざまに、笑顔で答えた。
「あっ、おはようございます」
それは意図せずに自然と口を突いて出た言葉であった。企まずに交わした挨拶の所為で二人は既に旧知の間柄のような気軽な気分になり、電車に飛び乗ってからも言葉を繋ぎ続けた。
「ああ、やっと間に合った・・・」
「そうですね、危なかったですね」
「何処まで乗るの?」
「四条までです」
四条と言うのは京都随一の繁華街の中心地である。
「あなたは?」
「僕はその次の烏丸御池までだよ」
烏丸御池は名立たる大手企業の高層ビルが林立する一大ビジネス街である。
「四条の何処に勤めているの?」
「高島屋百貨店のデザイン室に居ます」
「そうか、売り子じゃないんだね?」
「ええ、まあ・・・専属デザイナー越路純子の見習い弟子です」
「えっ?あの有名な越路純子の?」
「はい、そうです」
「越路純子が毎日その百貨店に居るの?」
「いえ、先生は東京に常駐で、月に二、三度京都にお見えになるくらいです・・・あなたはどんなお仕事を?」
「僕は三井住友商事の営業部員だ。勤めてもう丸三年になる」
「エリートなのね」
「別にエリートと言う訳じゃないが・・・君はもう長いの?その仕事・・・」
「今、二年目で、未だまだ新米です」
彼女はピカピカの二十三歳で、ファッションデザイナーの卵であった。
「僕は上原忠雄って言うんだけど、君の名前は?」
「あらっ、まるで身上調査みたいですね、お互いに」
彼女はくすっと笑って忠雄の貌を見た。
「僕は君のこと、もっともっと知りたいんだよ」
「あたしの名前は藤沢みはる、美しい春って書くの」
「藤の沢に美しい春か、綺麗な名前だね」
二人は軽く笑い合いながら話を続け、忠雄が美春に訊ねた。
「君は夕方、何時に終わるの?仕事は・・・」
「定時は、一応、六時だけど、でも、その日の仕事の進み具合や翌日の準備などで残業になったり深夜に及んだりすることも間々有るわ。不定時みたいなものですよ」
「そうか・・・」
「でも、それが何か?」
忠雄は、一瞬、思案気を見せたが、思い切るように切り出した。
「うん。良かったら、帰りにお茶でも飲まないか?二人で・・・」
美春も一瞬躊躇うが、やがて顔を挙げて答えた。
「良いわ。解ったわ。何とかなるでしょう・・・」
「そうか、じゃ、六時半に四条駅の改札の前で待って居るよ」
「うん。じゃ、また、その時に」
美春は片手を上げて混み合うホームへと電車を降りて行った。
その日、忠雄の一日は長かった。ユーザーを何軒か廻ってオフィスへ戻った後、パソコンに営業日報を打ち込み、翌日の予定を確認して時計を眺めても、未だ終業の時刻には三十分もあった。彼はこれからする美春との愉しいデートのあれこれを考え、心躍らせて時間を過ごした。
喫茶店は何処へ入ろうか?ディナーは何処で摂ろうか?最後の仕上げは何処で何を飲もうか?・・・
やがて、終業を知らせるチャイムが鳴って、彼はそそくさとオフィスを後にした。
美春が約束の十分前にやって来た。
「遅くなってごめんなさい」
「僕も今来たばかりだ。君が遅れた訳じゃないさ」
忠雄が美春を導いたのは四条通りに面した大きな喫茶店だった。二人は店の中央にある螺旋状の階段を上って二階の窓際に腰を下ろした。直ぐにウエイトレスが水とおしぼりとメニューを持ってやって来た。
「何にする?」
「あたしはホットコーヒー」
「じゃ、僕も同じものを」
ウエイトレスは恭しく一礼して去って行った。
「この後の予定だけどね」
「ええ」
「ディナーは洒落たレストランでフレンチを食べて、その後、カクテルバーで軽く一杯、というのはどう?」
「うん、良いわね。あなたにお任せするわ」
コーヒーが運ばれて来て、美春が訊ねた。
「あなた、シュガーは幾つ?」
「僕はブラックで良いよ」
「そう、じゃ、あたしは砂糖二つ。一日の疲れをとるには甘いものを少し摂る方が良いのよ」




