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大人への道程  作者: 石原裕
第八章 おんなへの階段

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第7話 明日から別の人生を生きよう・・・

 既に十日間の蟄居生活が続いていた。

茜は室長に逢いたかった。逢って胸の有りったけを話したかった。

辛抱し切れなくなった茜は、それまで一度もしたことの無いスマホを手に取った。

「どう?元気かい?」

懐かしい声が聞こえた時、茜は泣きたくなったし、叫びたくもなった。が、口を突いて出たのは極めて有り触れた冷静な言葉だった。

「あっ、ご免なさい」

「いや、此方こそ何の連絡もしなくて、悪いと思っている」

真実に、懐かしい声だった。

「このところ色々有って、身動きが取れない状態になっているものだから・・・君には真実に済まないと思っている。あと数日もすれば片が付くから・・・」

そう言って黙った言葉の後の沈黙に、何か不吉なものが匂った。茜の躰の中から突然に熱いものが込み上げて来て、彼女は叫んだ。

「逢いたいんです、十分でも五分でも・・・今夜が駄目なら明日でも良いです、逢って下さい!」

暫く沈黙が続いた。それから室長の声が静かに言った。

「もう少しで片が付くから。そうしたら此方から電話をするから、それまで待って欲しい」

茜は黙ったまま、暫くして電話を切った。そして、翌日、彼女は辞職願を書いて係長宛に郵送した。

茜は、もうこれで自分の言わば“オゾン時代”は終わった、と深く心に言い聞かせた。言うなれば、全ては一時の美しい夢、その愉しさを心の片隅に残しつつも、それに引き摺られること無く、厳しいこの現実に復帰しなければならない、彼女はそう心に決めたのだった。

 茜は心を引き締めて当面の日課を定めた。茜が自らに課したのは、朝はモーニング・ジョギング、昼は生活資金を稼ぐ為に職探し、夜は大学卒業以来ご無沙汰の文学の勉強、この三つだった。オゾンホールの運営を任された時に何よりもイベント・プロデューサーとしての自らの実力の無さを痛感した茜は、今一度、能力、知識、体力、感性を身に着け直そうと心に決めたのである。 

 

 瞬く間に半月ほどが過ぎた或る夕方、スマホの電話に石田室長の声を聴いた時、茜の脚は震えた。

彼が逢い引きに指定したのはあの懐かしいホテルの一室だった。茜は約束の時間が来るのを待つのももどかしく、室長の待つ部屋へ急いだ。

 ノックをするとドアが開いて室長が其処に立って居た。彼は何も言わず、ただ頷いた。その頷きに誘われるように茜は部屋に入り込んだが、一歩足を踏み入れた瞬間、どうしたことか、彼女は不意に白々しい思いに捉われた。

室長を見たら泣き出して直ぐにも彼の胸に縋りつくだろう、と茜は思っていたのだが、そう言う激しい感情は何も動かなかった。ただ全てがよそよそしく思えた。これまでと同じホテルの一室でありながら、全てが全く違う感じだった。室長までが同じ男でありながら、もう同じ男ではないのであった。茜は突然、全てが終わったことを決定的に理解した。

 やがて、いつもながらの食事が運ばれて来たが、それを食しつつも、会話は途絶えがちで弾まなかった。

「北陸へ転勤されるそうですね?」

「何だ、知っていたのか」

茜は仲良しの総務部員、小畑香織から二日前に情報を伝えられていた。

「私の所為なんですね、あの二つの事件で責任を取って富山へ赴かれるんですね」

室長はそれには直接答えずに、ぽつりと言った。

「僕は意外と我の強い男でね、未だビジネスマン人生を終る訳には行かないんだ。多少不格好でも捲土重来を期すしか無いんだよ」

茜は眼を見張って、室長を黙って見詰めた。眼に涙が今にも零れ落ちそうに盛り上がって来た、が然し、その先の感情へとは至らなかった。

 食事の後、室長が茜を誘った時、彼女は拒みはしなかった。茜にしてもそのまま別れるのは余りにも名残惜しかった。だが、二人の思いが深過ぎたのか、その夜のベッドは不完全燃焼のまま呆気無く終わった。物足りない感覚と気分が残りはしたが、然し、全ては終わったのだった。

明日から、別の人生を生きよう・・・

茜は心の中で呟いた。


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