環状に鳴く、夜鳥 — 孵る刻 —
くたびれたアパートの前。
見慣れた階段の下に、見慣れない影があった。
親鳥の新しい翼。
低く構えたボディに、月明かりが滑った。
TOYOTA MR-S。
小さなボディに潜んだ軽さと自由。
走るためだけの、研ぎ澄まされた羽根。
「……いい羽根だろ。」
親鳥は煙草を咥え、笑った。
ピヨは言葉が出なかった。
二人は多くを語らなかった。
親鳥は短く顎で峠を指した。
ピヨは頷いた。
夜の峠道へ向かう。
静かな山の息吹を裂く二つの影。
MR-S が前をゆっくり流す。
ピヨのカプチーノが、その後ろで羽音を整えた。
最初のコーナーを抜けた瞬間だった。
親鳥のテールが、ひときわ軽やかに羽ばたいた。
低く沈んだMR-S が、月を裂いて加速する。
ピヨは息を呑んだ。
——置いていかれる。
羽根を全開にして追う。
ステアリングを切り込むたび、タイヤが小さく泣く。
コーナーを抜けるたび、MR-S はさらに小さく遠ざかる。
それでも、背中を見失いたくなかった。
ギアを叩く。
アクセルを踏み抜く。
小さなカプチーノの心臓が必死に脈を打つ。
月の光の奥で、親鳥のテールが一瞬、羽ばたいたように見えた。
——まだだ。
ピヨは食らいつく。
届かない。
だが、諦めない。
峠を抜ける冷気が、額を濡らした。
肺が痛む。
ステアリングを握る指先が痺れる。
それでも、親鳥のテールだけは、見失わなかった。
山を下り切った頃、親鳥のMR-S はゆっくり減速した。
路肩に車を寄せ、親鳥は煙草に火をつけた。
静かに吐かれた白い煙が、夜気に溶けていく。
「……お前の居場所は、ここじゃないんだろ。」
親鳥は振り返らなかった。
「孵るときが来た。」
短く告げる声だけが、夜を刻んだ。
ピヨはカプチーノのボンネットに触れた。
小さな羽根が、確かに熱を帯びていた。
環状の風が、遠くで鳴る気がした。
親鳥の煙草の火が、小さく赤く瞬いた。
ピヨは息を吸った。
何も言わずに、小さく頷いた。
雛鳥は、夜鳥になった。
羽ばたく場所を思い出した。
環状の輪が、遠い夜に待っていた。




