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未来AIの戦術が理解できない俺、室町で名将と呼ばれる  作者: 堀吉 蔵人


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29/30

豆を置く場所

興味をお持ちいただきありがとうございます !

藪を半分だけ刈る、というのは、口で言うほど簡単ではなかった。


 全部刈るなら、足軽たちは慣れている。鎌を入れ、枝を落とし、見通しをよくすればいい。だが半分となると、どこを残し、どこを削るかを決めなければならない。景には、それが分からない。


 南の藪は古井戸の窪地から少し下がったところにあった。背の低い竹と、曲がった雑木と、名も知らない草が絡んでいる。人が一人しゃがめば、外からは見えない。二人なら枝が揺れる。三人なら、たぶん無理だ。そういう曖昧な隠れ場所だった。


「軍師殿。ここより奥を刈りますか」


 足軽の一人が鎌を構えた。


 景は藪を見た。奥を刈れば、誰かが逃げた道が見えるかもしれない。だが奥まで刈ると、遠くの道からも井戸が見えそうだった。


 では手前だけか。手前だけ刈ったら、奥に隠れられる。


 真ん中だけか。真ん中だけ刈る意味が分からない。


《地形評価: 近接隠蔽地点多数》


《推奨: 視線誘導用の遮蔽を残置》


《推奨: 接近経路を限定》


「視線誘導って、どこからどこへ」


《観測対象: 会談参加者、潜伏観測者、第三勢力の伝令》


「増えた」


 景は額に手を当てた。


 紗那が横で藪の密度を見ている。鎧は着ていない。動きやすい袴に、短い刀を腰へ差していた。髪は男のように結ばれ、顔にはいつもの静かな緊張がある。景よりずっと、この場所の危なさを皮膚で読んでいるようだった。


「軍師殿は、藪を目にするおつもりではない」


「目にする?」


「目にさせるのだ。敵に」


「いや、俺は、隠れにくくしたいだけで」


「隠れにくくする場所を選ぶことで、隠れやすい場所を示す」


 景は嫌な汗をかいた。


 そう言われると、そういう策に聞こえる。だが実際には、どこを刈ればいいか分からなくて困っているだけだ。


 権爺が杖で地面を突いた。


「ならば、道筋を一つ残しましょう。南の細道より来る者には、藪の切れ目が見える。そこへ寄れば、井戸の縁は見えませぬが、こちらの声は聞こえる」


「声は聞こえるのか」


「井戸が返しますゆえ」


 景は古井戸を振り返った。


 石組みの縁は、苔を削られたところだけ白く乾いている。三本の傷は布で覆って隠してあった。隠すと言っても、布を置いただけだ。隠していることが見える隠し方である。


「それ、逆に目立たない?」


「目立ちます」


「駄目じゃない?」


「目立たせるために置いたのでは」


 権爺は不思議そうに言った。


 景は黙った。


 確かに、自分がそう言った気もする。三本の傷を人が見える場所に置く。井戸へ沈めない。昨日の老婆の言葉が頭に残っていたせいで、傷を完全に隠すのが怖くなったのだ。


 だが、布で覆えば、誰でもそこを気にする。


 気にされると困る。


 気にされないと、もっと困る気もする。


《認知負荷: 上昇》


《推奨: 判断項目の分割》


「してるよ。分割しても全部分からないだけで」


 景が小声で返すと、紗那が少しだけ視線を寄こした。


「また、文字か」


「うん。だいたい役に立つけど、だいたい難しい」


「ならば、難しいまま置けばよい」


「俺に言ってる?」


「敵に」


 紗那は藪の方へ歩いた。足軽たちが道を開ける。彼女は一本の細い枝を折り、地面に立てた。


「ここを残す」


 次に、少し離れた草を踏んだ。


「ここを刈る」


 また別の木を指す。


「これは残す。背を低くして、枝先だけ切る」


 足軽たちはすぐに動き始めた。


 景はその様子を見ながら、胸の奥が少し沈むのを感じた。紗那の方が軍師らしい。権爺も足軽も、景の言葉を待つ顔をしながら、実際には紗那の解釈で動いている。


 それで助かっている。


 助かっているのに、怖い。


 名声は景の前を勝手に歩いている。だが、その足を動かしているのは景ではない。KM-07の文字と、紗那の言葉と、周囲の期待だ。景本人は、その後ろで転ばないようについていくだけだった。


 鎌が草を払う音が続く。


 ざく、ざく、と湿った茎が倒れる。朝露が跳ね、足軽の脛を濡らした。刈られた草の青臭さが窪地に満ちる。古井戸の湿った匂いと混ざって、喉の奥に残った。


 景は布包みを開いた。


 黒く乾いた豆が三つ。細い麻縄。豆はどれも同じように見えて、よく見ると一つだけ少し欠けている。戦に使うには軽すぎる。食べるにも少なすぎる。お守りと言われれば、そうかもしれないと思う程度のものだ。


「これ、どこに置くのが正しいんだろう」


 権爺が豆を見る。


「北山の言い分であれば、井戸へ落とすな、でございます。ならば縁か、祠か、石の上」


「祠って、ここにある?」


「古い小祠なら、北の木の根元に」


 景は言われて初めて気づいた。


 窪地の北側、根が地面を抱え込むように伸びた大きな木の下に、小さな石が二つ並んでいる。屋根の形をした石は欠け、前に置かれた平たい石は苔に覆われていた。祠と言われなければ、ただの石だと思っただろう。


 景はそこへ近づいた。


 苔の上に豆を置く。簡単な動作のはずなのに、手が止まる。


 置けば、人が見る。


 誰に見せるのか。


 津田か。北山か。昨日逃げた誰かか。あるいは、ここへ来る寺下の童たちか。


《民俗儀礼推定: 供物配置》


《情報伝達推定: 公開合図》


《危険: 意図しない陣営への同報》


「やっぱり誰にでも見えるんじゃん」


《評価: 妥当》


「妥当じゃ困るんだよ」


 景は豆を握り直した。


 紗那が近づく。彼女は豆ではなく、景の手を見ていた。


「置かぬのか」


「置くと、誰かに伝わる。置かないと、北山の人たちに何か隠したと思われる。井戸に落とすのは駄目。三つ目を急ぐのも駄目」


「ならば、一つ置け」


「三つじゃなくて?」


「三つあるから三つ置かねばならぬと誰が決めた」


 景は豆を見た。


 三つ。三本の傷。三つ目の鐘。三つ目を急ぐ者。


 全部が三で絡まっている。だから三つ置くものだと思い込んでいた。けれど、一つならどうなるのか。二つなら。残りを持って帰ったら、それは隠したことになるのか。


《代替案: 段階的公開》


《効果推定: 反応差分の観測》


《確定度: 中》


「段階的公開」


 景はその言葉を口の中で転がした。


 要するに、一度に全部見せない。反応を見る。たぶん、そういうことだ。


 景は欠けていない豆を一つ選び、小祠の前の平たい石に置いた。苔の上では不安定で、豆は少し傾いた。落ちそうで落ちない。


 足軽の一人が息を呑んだ。


 権爺が目を細める。


 紗那は何も言わない。


 景は麻縄をほどき、豆の横へ輪の形にして置いた。何となくだ。豆だけでは飛ばされそうだったし、縄を使わないのも気持ち悪かった。


「これでいいかな」


 誰もすぐには答えなかった。


 やめてほしい、と景は思った。


 沈黙すると、何か深い意味があるようになる。


「一粒」


 紗那が呟く。


「水へ沈めず、祠へ置く。三を一に戻すか」


「戻してない。減らしただけ」


「三つ目を急がぬ、という返答にも見える」


「見えるだけで、返答にしたつもりはない」


「見えることが、返答になる」


 景は口を閉じた。


 それは、もう反論しても無駄な種類の言葉だった。


 藪刈りが進むと、窪地の形が変わってきた。完全に明るくなったわけではない。ところどころに草の壁が残り、枝の影が地面に落ちている。けれど、人がうずくまれる場所は減った。南の細道から来るなら、切れ目を通るしかない。切れ目に立てば、祠は見える。井戸の布も見える。会談の席になる平たい石も、半分だけ見える。


 全部ではない。


 半分だけ。


 景はそれが妙に嫌だった。半分見えるものは、見えない半分を勝手に想像させる。自分がいつも周囲にそう見られている気がした。


 昼近くになって、北山から若い男が二人来た。


 一人は昨日、鐘の件で言葉を漏らした男だった。名を与三郎という。もう一人は初めて見る顔で、頬に古い傷がある。二人とも武装はしていないが、腰に鉈を差している。山の者としては普通なのかもしれない。景には十分怖い。


 権爺が前へ出る。


「何用でございます」


 与三郎は景を見て、それから祠の豆を見た。表情が少し動く。隣の傷の男も、豆に目を留めた。


 景はその変化を見逃さなかった。


 いや、見逃せなかった。


 置いたものを見られるとはこういうことか、と腹の底が冷えた。


「年寄り衆より、明後日の座について」


 与三郎の声は硬い。


「場所はここで相違ないか」


「そのつもりです」


 景は答えた。声が思ったより小さくなったので、咳払いをする。


「ただ、井戸には寄りすぎない。声が返るから。南の藪は半分刈った。誰かが隠れて聞くと困るし、全部刈ると遠くから見える」


 与三郎は刈られた藪を見た。


 傷の男は黙っている。目だけが動く。井戸。布。祠。豆。縄。足軽の数。紗那の立ち位置。全部を数えているようだった。


《人物評価: 高警戒》


《推定役割: 監視、護衛、または伝達確認》


《推奨: 直接対立の回避》


「そちらの方は?」


 景はできるだけ普通に聞いた。


 傷の男が答える前に、与三郎が口を開く。


「平六。北の尾根を見る者です」


「尾根」


 景は思わず繰り返した。


 尾根を見る者。つまり見張りだ。昨日の藪の誰かとは違うのか。同じなのか。


 平六は頭だけ下げた。


「井戸の声が遠くまで行くと聞きました」


「俺も昨日聞きました」


「軍師殿が、でございますか」


「軍師っていうか、叩いたら変なふうに返っただけで」


 平六の目が細くなる。


 また余計なことを言った、と景は思った。変なふう、では伝わらない。だが詳しく説明すると、もっと余計な意味がつく。


 紗那が一歩横へ出た。


「軍師殿は、井戸の底ではなく、縁と藪の間を見ておられる」


 平六の視線が紗那へ移る。


「縁と藪の間」


「声を沈める者と、声を拾う者。その間に座を置く」


 景は胃が痛くなった。


 紗那はいつもより静かな声で言った。脅しではない。けれど、聞いた者の中で勝手に刃になる声だった。


 与三郎が祠の豆を見る。


「一粒だけ、置かれたのですね」


「うん。いや、はい」


「三つではなく」


「三つ目を急ぐなって聞いたので」


 景は正直に言った。


 与三郎が息を止めた。


 平六の手が、腰の鉈に近づきかけ、止まる。


 その一瞬だけで、周囲の空気が硬くなった。足軽たちも気づいた。権爺の杖の先が、地面に深く食い込む。


 景は慌てた。


「待って。変な意味じゃない。俺、本当に分かってない。老婆の人が言ってたから、そのまま」


 与三郎は平六を見た。平六は何も言わない。


 紗那だけが景を見ている。


 その目は、咎めてはいなかった。むしろ、今の言葉を聞いて、さらに何かを読み取ろうとしていた。


《反応: 過敏》


《推定: 三粒配置に固有意味あり》


《推奨: 追加質問は間接形式》


「三つ置くと、まずいの?」


 景は間接どころか、直球で聞いていた。


 KM-07の表示が視界の端で淡く残る。


《評価: 非推奨》


「遅い」


 与三郎は答えなかった。


 代わりに平六が低い声を出した。


「三つ置けば、呼ぶことになります」


「何を」


「来る者を」


 景は背筋が冷えた。


 来る者。


 曖昧すぎる言い方なのに、嫌な輪郭だけはある。津田の兵か。寺の童か。北山の別の一派か。あるいは、本当に信仰の話なのか。


「二つだと?」


 紗那が聞いた。


 平六は少し迷ってから答えた。


「待つ、になります」


「一つは」


「まだ見た、です」


 まだ見た。


 景は祠の豆へ視線を落とした。


 自分は偶然、一つだけ置いた。三つ目を急ぐなと言われたから、一つにした。それが、北山の符丁では「まだ見た」になるらしい。


 まだ見た。


 何を見たのかは言っていない。見ただけで動かない。来いとも待てとも言わない。


 景は、うまく当たったことよりも、外していた場合の怖さに震えた。


「三つ置かなくてよかった」


 思わず本音が漏れる。


 与三郎の顔が強張る。


 紗那がすぐに言った。


「軍師殿は、呼ばず、待たず、まず見た。ゆえに一つなのだ」


「そういうことにしないで」


「そういうことになった」


「なった、じゃない」


 景は頭を抱えたくなった。


 平六は祠の前まで歩き、豆に触れずに膝をついた。苔を見て、縄の輪を見て、それから井戸の布を見る。


「縄を輪にしたのは」


「飛ばないように」


 景は即答した。


 平六が黙る。


 与三郎も黙る。


 紗那が、わずかに息を吸った。


 景は自分がまた何かを踏んだと悟った。


「違うの?」


 平六は首を横に振った。


「北の者は、逃げ道を輪とは申さぬ」


「じゃあ何」


「戻り口」


 戻り口。


 景は麻縄の小さな輪を見る。適当に置いた輪が、誰かの目には戻り口に見える。井戸へ沈めず、祠に置いた豆。三つではなく一つ。輪になった縄。


 見ただけ。呼ばない。待たない。戻り口はある。


 そんな意味に読まれるらしい。


《符号体系: 地域固有》


《意図一致度: 偶発的高一致》


《注意: 過剰解釈が進行》


「偶発的って出てるから。本当に偶然だから」


 景は小声で言った。


 紗那が少しだけ口元を動かした。


「偶然を選べる者を、天は嫌わぬ」


「選んでない」


「ならば、選ばされたのだ」


「誰に」


 紗那は答えなかった。


 それが一番怖かった。


 平六は立ち上がると、景へ深く頭を下げた。


「年寄り衆へ伝えます。軍師殿は、三つ目を急がぬ、と」


「待って。余計に大きくしないで。俺は会談で喧嘩したくないだけで」


「喧嘩を避けるにも、合図は要ります」


 与三郎が言った。昨日より少し、声の硬さがほどけている。


「津田の文は、北山にも届いております。あの者は、こちらが焦れて三つを置くと思っていた」


「津田が?」


 景は顔を上げた。


 与三郎は頷く。


「三つ目を鳴らす者が、誰かを呼ぶ。そう見せたい者がおります」


 平六が井戸の布へ視線を向ける。


「昨日の傷も、三つでした」


 景の喉が鳴った。


 津田新左衛門が三本の傷を刻ませたのか。そう思わせたい誰かがいたのか。北山の中で三つを急がせたい者がいるのか。


 どれもありそうで、どれも決め手がない。


《関連推定: 敵対勢力による符丁誘導》


《関連推定: 北方集落内の意見分裂》


《関連推定: 第三者による会談妨害》


《確定度: 低》


「低いのに怖い」


 景は豆を見つめた。


 一粒だけ置いたことで、北山の二人は少なくとも襲ってこなかった。こちらの意図を、勝手に穏当なものとして読んでくれた。だが、その読みが広がれば、津田にも届くかもしれない。


 津田はきっと考える。


 なぜ一粒なのか。


 なぜ縄が輪なのか。


 なぜ藪を半分だけ刈ったのか。


 そして景には、その答えがない。


 ない答えを敵が考え始める。


 それが一番、景の名声らしい働き方だった。


「平六さん」


 景は呼んだ。


 平六が顔を上げる。


「昨日、藪にいたのは、あなたですか」


 空気が止まった。


 足軽が槍を握り直す。与三郎の肩が強張る。紗那は動かない。景は聞いてから、自分の口を恨んだ。間接質問とは何だったのか。


 平六はしばらく黙っていた。


 やがて、首を横に振る。


「違います」


「じゃあ、誰か心当たりは」


「あります」


 景は息を止めた。


 平六は南の藪の切れ目を見た。刈られて、細くなった逃げ道。その先に、低い土塀の崩れがある。


「北山の者なら、あちらへは逃げません。足場が悪い。山へ戻るなら、祠の裏を抜けます」


 権爺が低く唸る。


「では、南へ逃げた者は」


「村道に慣れた者か、寺下の童か」


 与三郎が続ける。


「または、慣れているふりをした者」


 景は唇を噛んだ。


 寺下の童。前章から残る未解決の名前。鐘を鳴らすか鳴らさないかに関わる子どもたち。北の村と寺と津田の間を、細い影のように走っている存在。


 子どもなら、藪にも潜れる。


 子どもなら、浅い三本傷も刻める。


 だが子どもを疑うのは、嫌だった。疑いたくないというより、疑い方が分からない。追えば傷つける。放っておけば使われる。


《対象: 寺下童》


《リスク: 伝令利用、強制協力、偽装痕跡》


《推奨: 捕捉より接触条件の制御》


「捕まえるなってことか」


《評価: 捕捉行動は反発および情報遮断を誘発》


「つまり、来ても逃げられるようにしろ?」


《評価: 条件付き妥当》


 景は麻縄の輪を見た。


 戻り口。


 適当に置いたものが、また意味を持つ。


「明後日、もし子どもが来ても、追わないで」


 景は足軽たちに向けて言った。


「捕まえない。脅さない。見えたら、見えたって分かるようにする。けど逃げ道は塞がない」


 権爺が眉を寄せる。


「危のうございます」


「うん。でも、捕まえたら、たぶん誰かが怒る。怒るだけならいいけど、会談が壊れる」


 景は自分の言葉を探した。


「津田が、こっちに子どもを捕まえさせたいのかもしれない。北山に三つ置かせたいのかもしれない。井戸に何か投げ込ませたいのかもしれない。分からないけど、急がせたい人がいるなら、こっちは急がない」


 言い終えたあと、景は顔が熱くなるのを感じた。


 珍しく、それらしいことを言ってしまった。自分で言ったのに、半分は紗那とKM-07と北山の言葉をつなげただけだ。


 だが、平六は深く頭を下げた。


 与三郎も続く。


「年寄り衆へ、そのまま伝えます」


「そのままはやめて。少し普通にして」


「普通とは」


 景は答えられなかった。


 紗那が静かに言う。


「軍師殿は、井戸に沈めぬ。豆も、童も、言葉も」


 やめてくれ、と景は思った。


 けれど、足軽たちの顔に浮かんでいるのは納得だった。権爺ですら、深く頷いている。


 北山の二人が去ったあと、窪地には刈られた草の匂いと、一粒の豆だけが残った。


 景は祠の前にしゃがみ込む。


 豆はまだ落ちていない。麻縄の輪も崩れていない。小さすぎる合図だ。風が強ければ飛ぶ。鳥がつつけば消える。誰かが盗れば、それまで。


 それでも、今はこの一粒が、三つ目を急がないという返事になっている。


「怖いな」


 景は言った。


 紗那が隣に立つ。


「怖いなら、よく見える」


「よく見える人は怖くないんじゃないの」


「怖くない者は、よく見ぬ」


 景は祠から目を離せなかった。


 明後日、津田新左衛門が来る。こちらの名声を研究し、対策を練っている敵だ。景の中身が空っぽだと気づけば終わる。だが、空っぽだからこそ、周囲が勝手に意味を詰めていく。


 井戸は声を返す。


 藪は耳を隠す。


 豆は呼び方を変える。


 ならば、景の空白もまた、誰かの策を映してしまうのかもしれない。


 視界の端に、文字が走った。


《接触環境: 部分整備完了》


《観測点: 祠、井戸縁、南側藪、北側退避路》


《推奨: 会談時の発話量を制限》


《推奨: 相手側の過剰推論を利用》


「発話量を制限」


 景は乾いた笑いを漏らした。


「それが一番難しいんだけど」


 紗那が振り向く。


「難しければ、短く言えばよい」


「短く言うと、また深読みされる」


「それでよい」


「よくない」


 景は立ち上がった。


 小祠の前に置かれた一粒の豆は、午後の日を受けて黒く光っている。あまりにも小さい。小さいのに、窪地の誰もがそれを避けて歩いた。


 名声がまた、景の前を歩き出す。


 今度は足跡ではなく、豆の形をしていた。

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