88全部記憶が飛ぶくらい
名張は穴のあいた胸を手で押さえながら恨めし気に万里を睨み上げるが、彼の方はそんな怨嗟の視線をさらりと無視して桐子に駆け寄ってくる。万里は桐子の腕を引いて、耳元でそっと囁く。
「とっとと逃げた方がいい。憑依の能力、そんなに長くはもたないから」
ナイフできっちり急所を押さえていく手際の良さからうっかり錯覚しそうになるが、そういえば今、彼の中身は別人だったのだ、と桐子は改めて思い知る。どうやら、彼女の《強制略奪》の遺産の力は、あまり長い時間は使えないようだ。異能の効果が切れたらどうなるかといえば、万里の重たい体を桐子が背負って行ってやらなければならないということで、それは絶対に避けたい桐子は、さっさとトンズラする方向で即時に合意する。
障害のいなくなった正面玄関に向かって走り出す。と、すれ違いざまに名張がしぶとく声を上げた。
敗北宣言でも恨み言でも負け惜しみでもなく、くつくつと喉の奥で嗤う声だった。
この状況でなおも笑っていられる神経が気味悪くて、桐子は思わず立ち止まる。
「《武器庫》の適合者、無色の器……逃がすものか……」
名張はぜえぜえと荒い息の合間に、往生際の悪い台詞を呟く。
「まずは腕を直して、組織の人員を補充、それから……捕まえに行く愉しみがあるというのも悪くない話だ」
この男、これだけの目に遭ってまだ懲りていないのか。まったく、名張の執念深さには恐れ入る。一度両腕を落とされても改心しなかった男は、二度目に両腕を落とされた上に胸を貫かれてもまだ宗旨替えをするつもりはないらしい。
このまま放っておいたら間違いなくまた面倒なことになる。近いうちに目の前に現れ、再び災禍を撒き散らすに違いない。
桐子は舌打ちを一つして、名張に向き直る。
「ボロ雑巾の分際で、あんまり私に手間をかけさせるんじゃないわよ。金輪際悪巧みができないように、全部記憶が飛ぶくらい蹴り飛ばされたいらしいわね」
「は……満身創痍はお互い様だろう、小娘が随分と虚勢を張ったものだ」
「虚勢かどうか、試してみる? いいわ、諸々の恨みも晴らしたいし。あなたの頭でサッカーしてやるから覚悟しなさいよ」
いざキックオフ、と意気込んだところで、しかし予想外のことが起きる。
「――人頭サッカーか、面白そうだね。ぜひ、混ぜてほしい」
予想外に食いついてくる声があった。提案した桐子の方が逆に引くほどノリノリのテンションで賛同する男の声。それに聞き覚えがあった桐子は厭な予感を覚えた。賭けてもいい、今の事態を更に引っ掻き回す悪意ある人間が来たに違いない。
奥の廊下から悠然と歩いてくる人影。その姿がはっきり見えたところで、桐子は頭を抱え溜息をつく。予想に違わず、面倒な奴が現れた。
「誰だ、貴様は」
名張は新たな闖入者を睨みつけ、訝し気に問う。誰何された男は微笑を浮かべ応じる。
「行平槐――遺産を破壊する者だ」
遺産を集め異能者を作ろうとする名張に対し、遺産を片っ端からぶっ壊すことを目的とする行平。ハブとマングースみたいな天敵同士が予定外のところで相見え、勝手にメンチを切り始めた。それをとりあえずは蚊帳の外から眺める桐子は、この混迷した事態の結末をお義理で見届けてから帰るべきか、それとも今のうちにさっさとお暇させてもらうべきか悩んだ。よりによってとんでもないときに、余計な奴が出てきたものだ。
「誰? また敵?」
万里が怪訝そうに呟く。ベストオブ因縁の相手を忘れたのか、とツッコミを入れかけた桐子だが、そういえば今は中身が万里じゃないから、行平の顔を見ても解らないのだな、と得心する。
「よく解らないけど、今のうちに……あ」
言いかけた万里が言葉を切る。直後、ふらふらとよろめいた。
「ごめん、時間切れ」
それだけ言い置いて、万里はふっと目を閉じて意識を失った。あっさり倒れそうになる万里を、桐子は慌てて受け止める。
「は? ちょっと、勝手に倒れないでよ!」
よりによってとんでもないときに、パート2。どうやら《強制略奪》の遺産の効果が早くも切れてしまったらしい。意識を失った人間の体というのは案外重いのだ。抱えるのが大変になって、桐子は万里の体をひとまず床に横たえる。試しに頬を軽く引っ叩いてみるが、起きる気配はない。
まさかこの混沌とした状況の収拾を丸投げするつもりではあるまいな、と桐子は絶望的な気分になる。
やはり今すぐ逃走するか。いやしかし、よくよく考えると、詳細不明の後催眠暗示で眠ってしまった万里が、放っておけば自然に目を覚ますかというと、その確証はないので、できれば彼の起こし方くらいは名張に吐かせてから逃げたほうがいい気がしてきた。ただ、行平と睨み合っている現状では、それを聞き出す余裕はなさそうだ。流石に二人まとめて黙らせるほどの元気は、桐子にはない。
途方に暮れる桐子をよそに、名張と行平の間ではバチバチと火花が散っている。
「君は破壊庁のブラックリストに入っている。次から次へと人を集め、同じだけ遺産を集めてロクでもないことに使っている。別に正義の味方を気取るつもりはないからね、君が非人道的なことをしていようが、基本的にはどうでもいい。しかし、そこに遺産を使うというなら、それらはもれなく破壊させてもらう必要がある」
「人の会社にずかずかと入り込んで、勝手に家探しでもしていたのか?」
「どうやら君は先客の対応中で忙しそうだったからね、その間、施設の中は自由に歩き回らせてもらったよ。他の社員も、疲れて寝ているようだったしね」
要は、万里が散々引っ掻き回してセキュリティがガバガバになったところで好き勝手に漁夫の利を得ていたということらしい。名張が万里に気を取られていた間に、おそらくこの施設に保管されていた遺産は行平の餌食になって今はガラクタと化していることだろう。
名張が青筋を立てて怒ったのが、顔を見ないでも解った。
「私に喧嘩を売って、タダで済むとは思っていないだろうな」
「そういう啖呵は、可愛げのある少年少女たち相手に切るといい。私からしてみれば、満身創痍のボロ雑巾が喚いているだけで酷く滑稽に見える」
言いながら、行平は何の躊躇もなくすたすたと名張に近づいて、頭蓋を右手で鷲掴みにした。
途端に名張の呻き声が漏れ始める。
行平槐の異能は《死の抱擁》――その手で触れたものの力を尽く吸収する。
手が使えない上に胸に穴があいた状態の名張では、行平の手から逃れることはできなかったようだ。抵抗することはなく、数秒の後に名張はその場にひっくり返った。
今から尋問しようと思っていたのに先に倒されてしまった。いや、面倒な敵同士が勝手に争い合って結果的に一人減ってくれたのだからよしとするか。桐子は落胆すべきか喜ぶべきか迷った挙句、一応後者の反応をしてみる。とはいえ、行平はぴんぴんしているし、万里は気絶したままで戦力にならないしという状況なので、あまり喜んでばかりもいられない。
名張は、息はしているようだが、力を絞り尽くされて動く気配がない。後回しでいいと判断されたらしく、行平はもう名張の方には目もくれず、困ったことに桐子の方に狙いを定めている。
「さて、次はそちらの番だ」
「ええと、今すぐ帰って晩御飯にしたい気分だから、見逃してくれると嬉しいのだけれど。というか、助けてくれるつもりだったからこのタイミングで出てきたのよね、敵の敵は味方理論よね」
希望的観測全開で問うと、行平はにっこり笑う。
「そんなわけないだろう。遺産は全部壊す、異能者も全員壊す」
「どうしてそうなるのよ。あなたこれで三度目よ? 今時、三回もしつこく絡んでくる敵キャラなんてフィクションでも見かけないわよ? いい加減にしなさいよ、ストーカーか!」
腹立たしい展開に桐子はほんのりヒステリックに叫ぶ。事態がちっともいい方に転ばなくてうんざりしてきた。
桐子のささくれたった気分をよそに、行平は以前と変わらない薄ら笑いを浮かべたまま続ける。
「相手にする順番のせいで妙な期待をさせてしまったのなら申し訳ないが、残念ながら私は誰の味方をする気もない」
行平は、今や完全に桐子を標的として定めているようだった。
「次は君の遺産を、」
破壊する、と言いかけたのであろう行平の言葉を途中でぶった切って、桐子は行平の側頭に回し蹴りをぶち込んだ。
案外簡単に蹴りが決まって、行平は軽々と吹っ飛んでいく。さっきまで余裕ぶっていた敵が顔を歪めて床を転がっていくのを切ない気分で眺めながら、桐子はどっと押し寄せてきた疲労のせいで肩で息をする。
「はぁ、はぁ……またつまらないものを、蹴ってしまったわ……」
異能力をほんの少しくらいなら使えそうな余裕が出てきた、と思ったのが丁度、名張の頭を蹴り飛ばして蹴球をしようという凶悪な発想が頭をもたげた頃だった。その愚案は行平の登場によりキャンセルされることになったが、予定していた凶悪キックはここに繰り越されたわけだ。
「ちょっと休んで、やっと溜めた力を、無駄遣いしてしまった……跳んで帰れなくなってしまった……」
つい長々と話を聞くのが嫌になって短気を起こしてしまった。桐子は少しだけ反省する。とはいえ、行平が見逃してくれなそうな気配を醸し出した時点で戦闘は避けられなかっただろうから、先制攻撃自体はそんなに間違ってはいなかったはず、と少しだけ自己正当化を図る。
と、またしても廊下の奥から誰かがやってくる。
「行平ー? 言っておくけど、会社の人間以外に手を出したら駄目よ……って、遅かったみたいね」
語尾を落胆で染めながら現れたのは、初瀬御世だった。
桐子が八月に交戦した、破壊庁のメンバー、初瀬。前回と同様、今回も行平と一緒にいるところをみるに、扱いが面倒な行平を上手く転がせる貴重な構成員として重宝されていつでもニコイチ扱いされている可能性がある。
初瀬は倒れた行平を一瞥し、桐子の姿を認め、それでだいたいの状況を理解したらしく、溜息をついた。
「まったく、ちょっと目を離した隙に三段飛ばしで話を進めないでほしいのに」
「ちょっと、あなた目付け役ならあんな面倒な男から目を離すんじゃないわよ! 私の仕事が増えたじゃない!」
桐子の苦情に、初瀬は表情を変えず肩を竦める。
「私は別に行平のお目付け役じゃないし」
「というか、私には金輪際関わらないって約束したでしょう」
「そんな約束はしていないわ。あなたの遺産に手は出さない、とは言ったけれど」
「行平槐は約束をまるっと無視して私を狙おうとしたわよ」
「止めようとしたのだけれどね」
「しっかり見張っておきなさい」
「まあいいじゃない、結局あなた、瞬殺しちゃったじゃない」
万里は行平を相手にして大分苦戦したようだが、これはまあ、相性の問題だ。行平の能力を万里から聞いた当初から、桐子は「捕まる前に蹴り飛ばせばいい」と考えていた。標準速度が音速でない万里からは大雑把な方針が不評だったが。
「まあ、行平がやられたことについて、私が報復するというようなつもりは一切ないから、安心していいわよ」
「当たり前よ、あなたまで喧嘩を売ってくるようでは完全に約束が違うもの。負けた人は約束くらい守ってくれないと」
「はいはい。まあ、お詫びと言ってはなんだけど、これ、あげるわ」
詫びる気のなさそうな淡々とした調子で、初瀬が桐子に押し付けてきたのはタブレット端末である。
「この施設に保管されてたデータ、消す前に中身を確認したのだけれど。研究関係のことは全部消したけど、それは使うかもしれないと思って、データを抜き出しておいたの。名張は被験者に面倒な仕掛けを施していたようね、その詳細よ」
今一番欲しかった情報である。
「暗示を解くキーワードは」
「残っているわ。その様子だと、彼はそのせいで気を失っているのでしょう?」
万里の尋常ではない様子から、何が起きたかだいたい想像がついているらしく、初瀬は話が早かった。
「素人でも解けるものかしら」
「名張が被験者全員に目を光らせているわけにはいかないでしょ。問題が起きた時、名張がいなくても鎮圧できるようにするつもりなら、キーワードさえあれば誰でも暗示の発動・解除ができるようにしておくのが道理じゃない? 暗示自体を綺麗に消去するなら一度医者に診せた方がいいでしょうけれど、取り急ぎ起こしたいだけならあなたでもできるでしょう」
「成程ね」
初瀬は気を失ったままの万里を一瞥する。
「彼のこと、起こしておいてあげてよ」
桐子は小さく頷き、慣れないタブレット端末を操作してデータを確認する。名張はいくつか暗示があるようなことをいっていたが、データが多すぎてすぐには目当てのものが見つからない。斜め読みで目的の情報を探しながら、桐子は初瀬に問う。
「あなた、言ってたわね。同じ施設で生活していた後輩が実験に使われていたって。あなたが言ってた後輩は万里のこと? それでもって、問題の元凶が名張?」
「ええ、碓氷君も被害に遭ったうちの一人。最近になってここの組織が目立つ動きをしたからいろいろと調べていたのだけれど、首魁が名張らしいと解って、殲滅作戦に私が手を挙げたの。この手でぶん殴ってやりたくてね。で、いざ乗り込んでみたら、先客がいたというわけ」
事情を説明し終えると、初瀬は伸びている行平を気にする素振りを見せた。
「行平が起き出す前に、あなたたちは撤収した方がいいわ、話がややこしくなりそうだから。あと、名張の身柄はうちがもらっていくから、あしからず」
「そいつ、二度と関わりたくないから、今のうちに記憶が飛ぶくらい蹴り潰しておきたいのだけれど」
「あなた、どうせもうそんな元気ないでしょ? いいわよ、私たちが代わりに殴り飛ばしておくから。丁度、サンドバッグが欲しいと思っていたところなの」
一度負かしたためだろうか、ちょっと見ないうちに随分と態度が軟化して話が通じる相手になった初瀬は小さく笑って言う。
「今後とも、碓氷君のこと、よろしくね」
よろしくするような仲間同士ではないのだが、とは言いそびれた。
★★★
がたがたと、電車に揺られている時に似た不規則な振動を感じる。それに連動して足に微かな痛み。それから、鼻先を掠める石鹸の匂い。
薄く目を開けた世界は、すっかり闇に覆われた夜の街だった。頼りない街灯に照らされて、かろうじて目の前に浮かび上がって見えるのは、誰かの華奢な肩と、揺れる髪、あと平坦な胸。
「……桐子」
万里は掠れた声で呟く。途端に振動が止まった。
「目、覚めたの? よかった」
桐子が安堵の声を漏らす。
「そろそろ重いから放り出そうと思っていたところだったの、丁度よかったわ」
よかった、ってそういう意味? 非情なコメントが寝起きに突き刺さる。
どうやら自分は桐子に背負われていたらしい、と万里は寝惚け気味の頭で理解する。そして疲労気味の桐子は当然の如く人の足を引きずっていた。地面と擦れて靴が既にボロボロである。
「だいたい、私より背が高くて重い人を私が背負うっていうのがまず物理的におかしいし、助けに来てもらったはずの私が帰りはなぜか助ける側に回っているのも常識的におかしいし。肩は貸してあげるから自分で歩きなさい」
「ん」
文句を言いつつも肩だけは貸してくれる律義さに感謝しながら万里は夜道を歩くことになる。
ぼやけていた思考も、数々の文句を受け付けているうちに次第にクリアになってくる。とりあえず、記憶がだいぶ飛んでいる。気を失った時の状況から、目の前の景色はだいぶかけ離れているので、寝こけている間にいろいろあったのだろうけれど。
「確認だけど、『寝てる間に全部片付いてるはず』計画は、首尾よくいったか?」
呑気に欠伸を噛み殺しながら訊くと、その能天気ぶりが癇に障ったらしく、桐子は完全にお冠である。
「時間稼ぐの大変だったのよ? そういうつもりなら、最初から言っておきなさいよ」
「いや、自分で片付けるのが一番だと思ってたさ。ただ予想以上に上手くいかなかったというか」
輝と琴美には安全圏にいてもらい、万里がいよいよ危なくなったら二人に安全圏からサポートしてもらう――具体的には琴美が《強制略奪》の遺産で遠隔戦闘し、その間無防備になる琴美本人の護衛を輝が務める、というのが基本計画である。上司からはたびたび「過保護」かつ「最終手段が丸投げってどうなの」と評される。なるべく弟妹の手は借りずに決着を付けたかったが、流石に今回ばかりは相手が悪く、そう簡単には行かなかった。しかし、『さっさと片付ける』作戦が『いつの間にか片付いている』作戦になっただけで済んだので、おおよそ計画通りである。
桐子の方はなかなかどうして、機嫌がよろしくないようで、ぶつぶつとぼやいている。
「ド変態マッドサイエンティストの相手をするだけでもお腹一杯なのに、行平槐や初瀬御世まで出てきて、もう胃もたれしそうだったわ」
「行平? 初瀬?」
その面子が出てくることは流石に予想していなかった。そこまで事態が錯綜していたとなると、
「寝てて正解だったかも」
「殴るわよ?」
道中、桐子から苦情全開に事情を聞かされ、万里は混沌を極めた事の顛末を把握する。
「……そういうわけで、名張の身柄は破壊庁が押さえていったわ。あの男、いよいよ改心しないと解放されないでしょうね」
「一生、破壊庁の管理下か。ざまみろとしか言いようがないな」
破壊庁が絡んできたのは完全に想定外であり、おかげで、と言っていいのか微妙だが、ともかく、因縁深い敵の影に脅かされることがなくなったわけだ。輝と桐子の拉致に端を発して、厄介な事件に首を突っ込んでしまったが、その苦労に見合うだけの収穫はあったというところか。
ふと顔を上げると、行く先で二人組の男女が大きく手を振っている。
「やっと戻ってきた! 遅いよ、もう!」
琴美と輝だ。二人の顔を見た瞬間、無事に終わったんだな、と心から思えた。万里は小さく手を振り返す。二人が走り寄ってきて、無事の再会を喜んで飛びついてくる。怪我人にそんなに力いっぱい抱き着いてくるな、と告げるタイミングを逸した万里はそれを黙って受け止め苦笑する。
なお、巻き添えを食って敵構成員に抱き着かれる羽目になった桐子も、反応に困って苦笑いを浮かべていた。




