87ベストオブ性悪男だけど
さて、状況を整理しよう。
想定外のことに弱いと指摘されたことを実は根に持っている桐子の現在のモットーは、ヤバい時こそ冷静に、である。だらだら流れてくる冷や汗に気づかないふりを続け、桐子は目の前で起きている現実を直視する。
戦闘用に改造を施された義手義足により、奇天烈ながらも厄介な攻撃を繰り出してきた名張だが、万里によってその両手はもぎ取られた。足の仕込みナイフも危険だが、初見ならともかく二度も三度も食らうようなものではない。だいたい、桐子が本気で蹴る時よりもトロいし。
どうやら万里の正体は敵にばれてしまったようだが、その瞬間に異能を解禁した万里によって、名張は大量の散弾を浴びた。そして最後にとどめの一発、というところまで追い詰められた。
そこから一秒。
現在、万里は冷たい床にぶっ倒れていて、名張は呼吸を整え直して仁王立ちしてそれを見下ろしている。
待て待て待て、何がどうなったらそうなるの?
冷静になろうと頑張ったけれどやっぱり冷静ではいられなかった桐子は、心の中で激しくツッコミを入れた。
名張が何かを囁いた瞬間、万里の動きが止まった。あとほんの少し、引き金にかけた指先を押し込むだけで銃弾をぶちまけることができたはずなのに、それすらも叶わないまま唐突に彼は凍り付いた。そして電池が切れたみたいに床に崩れ落ちてしまった。想定外の展開に、桐子は思わず物陰から飛び出した。
「万里……!」
咄嗟に駆け寄ろうとして、しかし名張に鋭く一睨みされて立ち止まる。万里は名張の足元で無防備に転がっている。迂闊には近づけない。名張もそれなりに消耗しているはずだが、それを感じさせない怜悧な視線に、桐子は情けなくも射竦められてしまった。
敵は、両手がぶっ壊れてはいるが、両の義足は健在だ。その気になれば、脚の仕込み刃で万里の首くらいすぐ刈り飛ばせそうだ。未だに能力の使えない桐子もなかなか窮地だが、それ以上に万里が崖っぷちだ。今がたぶん、一番、敵の機嫌を損ねてはいけない場面だ。……いけ好かない奴の神経を逆撫でせずに会話をするのは、桐子が一番苦手な分野なのだが。
頼みの綱だった万里がこの調子では、選手交代するほかない。最悪なタイミングでバトンタッチしやがって、と桐子は舌打ちしたくなるのを堪えた。
緊迫した局面に、一度だけ深呼吸をして、桐子は神経を尖らせながら名張に問うた。
「クイズ番組の最後は得点百倍ルールじゃあるまいし、あそこまで追い詰められていたくせに勝手に形勢逆転されては困るんですけど。いったい何をしてくれたわけ?」
突然倒れてしまった万里。さっきのは名張が持つ何らかの遺産の力だろうかと推測するが、そんな思考を読んだように、名張は小さく嘲るような色を含ませて言う。
「今のは異能ではない、私は異能者ではないからな。遺産などという得体のしれないものは、まだ自分の体で試す気にはならないものでな」
今のは「自分で使う気にならないような異物を平気で他人に使うんじゃねえ」と言われたいための渾身のボケなのだろうか。冗談だとしたら全く笑えないし、本気で言っているなら救いようのないクズだ。桐子はこの男の外道ぶりについて再確認させられる。
「異能でないなら」
「ただの技術。所謂、後催眠暗示だ」
「後催眠暗示……」
「キーワードを口にすれば、予め決められた行動を取るように、いくつか暗示をかけてある。当然、本人はそんな暗示をかけられていることなど知りはしないが」
いつの間にそんなことを、と問いかけて、しかし桐子は口を噤んだ。聞くまでもないことだったとすぐに気づいた。今日ここで顔を合わせてからのほんの数分の間に、いくつも暗示をかけている暇などなかった。ということは――
「この男は、かつて私が『斡旋者』から買い取り遺産適合実験に使っていた子供だ。人工的に作られた異能者、その数少ない成功例」
「……そんなことだろうとは、思っていましたけどね」
桐子は薄々感じていた想像が当たっていたことを知る。
万里と名張は今日が初対面ではない。すなわち、万里にかけられていた暗示は、昨日今日仕掛けられたものではなく、もう何年も前から密かに埋め込まれていた地雷だったのだ。
名張はその何年も前のことを思い出すように目を眇める。
「碓氷万里、篠崎輝、周音琴美……斡旋者があの時施設から連れてきた三人のうち、使い物になると思ったのは一人だけだった。一人は被験体にして、同じ施設で兄弟同然に育っていた残りの二人は人質にした」
人質、という言葉は、輝からも聞いた。桐子にも徐々に名張がしていたことの全容が解ってきた。
「私が扱っていたのは力のない子供だった。しかし、だからといって叛乱を恐れないわけにはいかなかった。実験が成功すれば、無力な子供は強力な異能者になるのだからな」
「つまり、実験が成功して、自分を遥かに凌ぐ能力者が生まれたとしても、逆らうことができないように、予め子供たちには暗示を仕掛けていたというわけね。人質を取るだけでは飽き足らず、そんなことまでしているなんて、ずいぶん素敵なクソ野郎ぶりね」
「そうとは知らず、この男は折角逃げ出したにもかかわらず、のこのこと檻の中に戻ってきた。実に愚かだ」
名張はぴくりとも動かなくなった万里を爪先で蹴り転がす。抵抗することはなく、呻き声一つ上げず、万里は死んだように眠っていた。
「《武器庫》の異能者は特別だ。《武器庫》の遺産は長らく適合できる人間がいなかった。この男は、度重なる実験の末にようやく適合した、貴重な実験体だった。それをあの女狐……御影在処に奪われて、どれほど口惜しかったか。それがこうしてこの手に戻ってきた、実に愉快だ。さて、あとは……」
名張は万里を捨て置いたまま桐子の方に向き直る。万里が制圧された今、残るは桐子のみだ。
黒い死神がゆっくりと歩いてくる。じりじりと後退るが、すぐに壁にぶち当たる。武器はない。異能はまともに使えない。
今回ばかりは、詰んだ。
――と、簡単に諦められるような可愛げのある性格はしていない、残念ながら。
桐子は緊張と焦燥で波打つ胸を押さえ、平静を装って言う。
「万里は……横取り常習犯で、デリカシー皆無で、ニヤケ面が癪に障る、はっきり言ってクソ野郎なのだけれど」
「……何の話だ?」
何の脈絡もなく始まった罵倒に名張は眉を寄せるが、桐子は構わずに続けた。
「毎度毎度、懲りもせずに人の仕事を邪魔するし、いちいち発言が無礼だし、視界に入っただけでイラつくことも多々あって」
本人に聞こえていないのをいいことに、思いつく限りの罵言を並べ立ててやる。
「私の知る限りベストオブ性悪男だけど……だけど、決して愚かではないわ」
「何が言いたい」
「あなたはきっと、彼を罠に嵌めて勝ったつもりでいるのでしょう。でもご愁傷様ね。そんなに簡単に嵌められるくらいなら苦労はないわよ」
「何が言いたいんだと、」
苛立たし気に声を荒らげようとした名張が、しかし、言葉を切って瞠目した。信じられない、と言いたげにゆっくりと視線を下ろしていくと、己の胸を血に濡れたナイフが貫いている。肩越しに振り返れば、気配もなく背中にぴたりと張り付いている影。両手で握りしめたナイフで名張を刺しているのは、倒れていたはずの万里だ。
「貴様、なぜ……!」
名張が吐き出しかけた声は、喉の奥でごぽりと湧いた血の音で酷く濁った。凶刃は素早く抜き放たれ、床に血の珠を散らす。名張がふらふらとよろけ、苦し気に顔を歪ませ跪く。それを見下ろす万里の瞳は半分眠っているように、どこか虚ろに見える。
「実験の対象になった子供には、異能を手に入れた時に逆らわないように予め手を打っておく……成程、言われてみれば順当な行動ね。でも、冷静に考えれば誰でも思いつきそうな罠を、万里が予想していないと思ったのかしら? その性悪男は特に、同じ性悪野郎の考えることなんて手に取るように解るでしょうね」
「何、だと」
「万里はそれくらいの罠、最初から予期していたのよ」
だから素性がばれないように、苦しい戦いになるのを承知で異能を使わなかった。吸血鬼に対する聖水、狼男に対する銀弾のように、正体がバレたらその手の特効が来ると予想がついていたから。
そして、もしも自分が《奇術師の武器庫》の異能者であると知られて罠が発動した場合でも、勝てるように用意をしておいた。寧ろ、罠が発動して名張が油断した時こそ勝機であるとさえ考えていたかもしれない。
もっとも、そんなことは一切知らされていなかった桐子は、特に確信があったわけではない。ただ、幾度となく刃を交えてきた万里のことは、多少なりとも知っている。この性格の悪い男は、いろいろと先のことを考えている。あっさり負けるようなことはないだろうと、信じてみることにした。だから、桐子がやるべきことは、万里が用意したであろう対抗策が機能するまで時間を稼ぐことだった。急にトークで間を繋ぐことを求められてもなかなか難しいのでちょっと焦ったが、結果として雑な時間稼ぎは功を奏した。
「予め取り決めてあったんだよ、三十分経っても戻らなかったら異常事態、その時はサポート担当が代わりに体を使って戦う……それがプランA」
万里が手の中でナイフを弄びながら言う。
「他人の体に憑依できる遺産《強制略奪》……あんまり嬉しくないけど、久しぶりの出番ってわけ。まあ、私の適合率はたいしたことないから、憑依できるのはせいぜい、お兄か輝ちゃんの二択だけど、この作戦の上ではそれで充分だし」
否、声は万里だが、中身が明らかに別人になっている。話の内容からして妹のようで、どうやら彼――彼女と言うべきか?――が語る遺産の力が、用意されていた切り札らしい。その切り札が「決着を他人に丸投げする」という、あまり正攻法でないあたりが実に万里らしい。
「自分に何かあった時でも、ちゃんとあんたに引導を渡せるように、奥の手は用意してあったってわけ。いつもは計画するだけしておいて、基本的にこっちに出番が回ってくる前に終わっちゃうんだけど」
「お前は……」
「周音琴美。あんたが言うところの、適合率どん底の落ちこぼれ」
「万里」はそれから、中身は別人のはずなのに、本物そっくりに邪悪な笑みを浮かべてのたまった。
「で、自分が散々見下してた奴にしてやられる気分ってどんな感じか教えてくれる?」




