85退いてくれよ
底なし沼に沈んでいきそうになった桐子の意識を引っ張り上げたのは、突如響いた銃声だった。
はっと目を開けると、見張りの男も異音に気づいたようで顔を顰めて部屋の入口の方を見つめていた。どうやら部屋の外で騒ぎが起きているらしい。
「さっきの男が戻ってきたのか?」
呟きながら、監視の男が椅子から腰を浮かせ銃を持ち直した。その言葉で、まさか輝が戻ってきてしまったのだろうかと、桐子は不安になる。施設内にいる敵構成員は、先ほどの交戦で少しは戦力を削れたものの、それでもやはり、輝一人で突破できるとは思えない。折角逃げられたのに、わざわざ戻ってくるなど無謀だ。
ザザッ、と微かなノイズが聞こえる。監視役が耳に手を当てて、何ごとかを話している。どうやら仲間から通信が入ったようだ。
「ああ……そうか、やはり侵入者か。ん、おい、どうした? ……ちっ、だらしない奴だ」
監視役は舌打ちをする。通信の相手は、現在の窮状を伝えるだけ伝えて、侵入者にやられたのかもしれない。しかし監視役は、仲間がしてやられた割には余裕そうな様子だ。他の仲間がやられても、自分だけは敵を制圧できるという自信があるようだ。ついさっき車の下敷きになったばかりなのに、その自信はどこから来るのだろう。
「のこのこ戻って来るとは馬鹿な奴だ、返り討ちにしてやる」
外の騒ぎは徐々に大きくなっているように感じられた。こちらに来ては駄目だ、と桐子は念じる。確かにこの見張りはさほど強敵とは言い難いかもしれないが、それでも輝の手には余る相手だ。
しかし、桐子の願望とは裏腹に、騒動の震源は確実に近づいてきているようで、部屋のすぐ外で男の呻き声が上がるのが聞こえた。部屋の前を固めていた見張りがやられたらしい。
「ふん、少しはできるらしいな。だが……」
男がにやりと笑ったかと思うと、入口の扉の正面に陣取り銃を構えた。
「中に入ってきた瞬間に狙い撃ちにしてやる」
男は侵入者が突入してくるのを待ち構える。扉が開いた時が最後だと言いたげに。
「俺は射撃の腕は他の連中よりも優れている。敵の姿が見えた瞬間に引き金を引き、瞬きの間に両手両脚を正確に撃ち抜いてやるぜ」
舌なめずりでもしそうな様子で、男は敵が姿を見せる瞬間を待った。
そしてその三秒後、部屋の扉が激しく蹴破られた。蝶番が弾け飛び、外れた扉が派手に吹っ飛び、監視役は侵入者を視界に収める間もなく、扉ごと踏み潰された。
一度壊れた扉は、直しても壊れやすい。
「ん、何か踏んだかも」
扉の下敷きになった異物の感触に気づいたのか、侵入者が首を傾げる。が、すぐにどうでもいいと思ったのか、気にせず扉の上を歩いて部屋に入ってきた。あんなに自信満々にしていたのに一瞬で沈黙してしまった監視役が、桐子はいっそ憐れに思われた。
しかし、そんな憐憫の情はすぐさま吹っ飛ぶ。
「あ、いたいた。元気してた?」
てっきり侵入者は輝だと思っていた桐子は、予定外の人物に瞠目する。
友達の家に遊びに来たみたいな緊張感のないテンションで乗り込んできたのは万里だった。ここまでの道中暴れてきたためだろうか、服はところどころ擦り切れている。右手に持つのは、友達の家には間違いなく持ち込まないであろう物騒なアサルトライフルだった。
彼の登場を想定していなかった桐子は、いったい何がどうなったらこういう展開になるのか、経緯を想像しようとして、しかし頭が重いのですぐに思考を放棄した。考えるより訊いた方が早い。
「で、どういう状況なの?」
「勿論、助けに来たんだよ」
そして有言実行、万里はベルトに差していたナイフで桐子の拘束を手早く断ち切った。
桐子はふらふらと起き上がり、「何かの間違いでは?」と疑問に思うのを隠しもしない目で万里を見上げる。
「感謝しろよな、ピンチに駆けつけてあげたわけだし。……いや、冗談。元をただせばたぶん九割がた輝が悪いんだろうから。とりあえず、無事で良かった」
敵にかけられる台詞としてこんなにも奇妙な言葉もないだろうが、万里は皮肉でなくそう言った。
「念のため再確認しておくけれど、私たち、敵同士ですからね?」
「忘れたわけじゃないよ。けど今回は、お互い面倒な連中に絡まれちゃったわけで、こういうときは、敵の敵は味方理論だよ。俺も君には借りがあるし、志半ばで倒れるのは構わないけれど、せめて俺が借りを返し終わってからにしてくれよ」
万里は助けてくれる理由をやたらと饒舌に語る。こんなに面倒な言い訳をしないといけないのは、敵同士であるがゆえだ。万里の言い草が可笑しくて、桐子は敵地を脱していないにもかかわらず思わず吹き出してしまう。
くすくす笑いながら桐子は礼を言う。
「救援には感謝します……輝は無事にあなたと合流できたのね?」
「ああ、君のおかげ。助かったよ」
敵を相手に礼を言い合う奇妙な展開を終えると、桐子は今一度気を引き締め、ここからのことを考える。
「ボロ雑巾になっているようだけれど、あなた大丈夫なの?」
「こっそり解決できればよかったんだけど、途中で見つかってね。そしたら案の定、敵がもれなく武装していて次から次へと……いやまあ、ボロ雑巾って言ったって、君ほどじゃないさ、問題ない」
ボロ雑巾ではない、と否定しようかと思ったが、そう力強く断言できる状態ではないので、桐子は軽く肩を竦めて立ち上がる。
「走れるか?」
「人並みにはね」
異能が全開にできれば、こんな不愉快な場所は五秒でおさらばできるところなのだが、残念ながら桐子の力は未だに回復していない。普通になら走れるだろうが、あくまで常人レベルが限界だ。せめてもう少し休憩時間を貰えればあるいは、といったところだが、敵地でのんびりもしていられない。
音速で逃げられないとなれば、当然襲い掛かってくる敵を返り討ちにしていく必要があるわけだが、桐子の武器は言うまでもなく没収されている。あまり愉快ではないけれど、ここから先は万里に任せるしかない。
万里の方も状況はちゃんと理解しているようで、弱音も文句も言わずに小さく頷く。
「了解、脱出まで丁重にエスコートしてやるよ」
「よろしく」
万里が部屋から顔を覗かせた瞬間、男の野太い怒声が響き、敵が襲い掛かってくる。それを、万里は涼しい顔で一度引き金を引いただけで黙らせた。
「行くぞ」
万里の合図に頷いて、桐子は彼に続いて監禁部屋を脱出した。
廊下を左に進み、すぐに廊下を二回左に曲がる。今までいた部屋の裏側に回り込むようにして進むと階段室に辿り着く。万里の先導で、一階へと階段を駆け下りる。途中、階段を上がってくる敵部隊と遭遇するも、万里は黙って先頭の敵構成員を蹴り飛ばした。あとはドミノ倒しのようにばたばたと折り重なるように倒れた集団の上を、軽いステップで乗り越えていく。仕事が早いし容赦がない。後ろからついていくだけの桐子は随分と楽をさせてもらえた。
一階まで辿り着いて廊下を進む。と、まっすぐ進んだ先に、最初に侵入に使った搬入口が見えた。この通路を進めば最短距離で脱出できる。
だが、そうとんとん拍子にはいかない。桐子たちが希望を持った瞬間を見計らったかのように、搬入口へ続く通路に隔壁が下りた。ずしりとあからさまに重い音を立てて道を塞いだシャッターに、万里は桐子を振り返って問う。
「あれ、破れる?」
「無理」
「俺も無理」
「というか、せっかくさっき破ったのに、まだあったの、隔壁。多すぎるでしょ、隔壁」
「正面に回ろう」
裏口からこそこそ脱出するのは諦め――実際、既に万里の侵入はばれていて騒ぎになっているので今更こそこそする必要性もない――正面玄関からの逃走を目論む。すぐさま方向転換、廊下をひた走る。
いくつもの部屋の前を通り過ぎて走るうちに、桐子は嫌な予感を覚える。階段で万里が蹴り飛ばしてからこっち、敵の襲撃がない。いくら人手不足が深刻なブラック企業で既に何人もが負傷退場しているとはいえ、敵地のど真ん中でこんなにも攻撃が少ないなどということがありえるだろうか。
「ねえ、万里」
「解ってる。攻撃が大人しくなった……多分に罠の気配がする。が、こんなとこで立ち止まってても仕方がない」
なんにしたって進める方向はもう一つしかない。トラップ上等、万里が言うことはもっともだが、桐子はそれでも不安だった。
悶々と悩みながらも足は止めずに走るうちに、いよいよ玄関ホールに出た。広いホールは、左手に無人の受付カウンター、前方にはガラス戸。そして、その玄関前に仁王立ちで立ちはだかる黒い男。
黒ずくめの装いと、右目の上の大きな傷跡が死神じみて見える男――名張。
「女、お前はなかなか貴重な資質を持っている。逃がすわけにはいかないな」
成程、首領自ら直々に待ち構えて手を下すために、他の兵は引かせたというわけか。桐子はすんなり正面玄関まで辿り着けた理由に得心がいった。
「ラスボス登場ってわけだ。桐子、下がってな」
万里が桐子を庇うように前に出て銃を構える。
「気をつけて」
心配だが、今の状態の桐子では加勢しようがない。せめて足を引っ張らないようにと、すぐさま受付カウンターの陰に隠れる。この場所なら、そうそう流れ弾を喰らうこともあるまい。
万里は名張に相対し、いつものように強気な調子で言う。
「悪いけど、今すぐ帰って晩飯にしたいんだ。そこ、退いてくれよ」
「人の会社を土足で踏み荒らして、謝罪もなしに帰ろうとするとは、常識のないネズミだ。どこの誰だか知らないが、帰すわけにはいかないな」
名張は静かな機械音を立てながら、威嚇するように拳を握った。
早速視線でバチバチと激しくやり合っている二人を、桐子は離れた場所で観察する。
黒ずくめの装いの名張は、一見すると武器は何も持っていないようだ。しかし、油断はできない。輝の話によると、両手両脚を切り落とされた名張は、今は義手義足になっている。こんな怪しげな会社で怪しげなことをしているロクでもない奴なのだから、その義手義足に、日常生活とはかけ離れた物騒な機能がついていてもおかしくない。おまけに、やたらと背が高く、ガタイがいい。彼の肉体そのものが武器と言ってもいいかもしれない。
対する万里は、右手には銃を構え、腰のベルトにはナイフの他、いくつかの装備が用意してあるが、自由自在に《武器庫》から武器を取り出し惜しげもなく披露するのが得意な彼からすると、少々頼りない装備かもしれない。
勝算はあるのだろうか――桐子の不安をよそに、戦闘は始まった。




