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81今すぐ破産すればいいのに

 横倒しになった輝の視界の中で、桐子が素早く駆けた。力強く踏み切った彼女は名張の頭近くまで跳び上がり蹴りを放つ。名張は腕を立ててガードするが、見た目以上に強烈な蹴撃に数歩後ろによろめいた。着地した桐子は深追いはせずに、床に転がる輝の襟を引っ掴んで引きずり、名張から距離を取った。

 引っ張られた瞬間喉が締まって「ぐぇぇ」と蛙みたいな声が出たが、文句を言えるはずもなく、輝は咽込みながら体を起こした。

「立てるわね」

 確認というより命令に近い口調で言う桐子のスパルタぶりにびくびくしながら、輝は慌てて立ち上がる。正直に言えば体があちこち痛いのだが、そんな弱音を吐いたらしばかれそうな雰囲気だった。

「少しは後先というものを考えなさい、この大馬鹿者!」

 ものすごい勢いで口汚く罵られてしまった。輝は今まで勝手に想像していた桐子の人物像がガラガラと崩れるのを感じた。会社の資料で見た彼女は、強く凛々しいながらも可憐で優美な「姫」のはずだったのだが、現実の音速姫は、「誰だ姫なんて呼び出したのは」と苦情をつけたくなるくらい苛烈な少女であった。こんな奴と毎度毎度やりあっていた万里の苦労を思うと、輝は涙が出る思いである。

 輝が内心でかなり失礼なことを考えているとは夢にも思わぬ桐子は、相対する名張を鋭く睨みつけている。

「あれが首謀者ね」

「そ、そうだ。あいつが名張……社長が切り落とした腕と足は、今は義手と義足らしい」

「それだけの目に遭っても、懲りずに同じことを繰り返しているってわけね」

 桐子は不愉快そうに要約した。

 乱入してきた桐子に、名張は更に不機嫌になるかと思われたが、輝の予想に反し、瞳には好奇の色を宿しているように見受けられた。興味深そうに桐子を見返しながら、右の義手は何かを考えるように、こめかみをコツコツと叩く。

「まさか二匹もネズミがいるとは……」

「言っておきますけれど、好きでこんなところに来たわけじゃないわよ。おたくの礼儀知らずの部下が連れてきたんですから、文句なら車で伸びてる男二人に言いなさいよ」

「文句などない。オスネズミの方は使えないが、メスの方は見所がなくもない」

「レディに対して『メス』だなんてご挨拶ね。ここの会社の人間は基本的にマナーがなっていないようね」

「残念ながら、新人研修の課程に接遇の項目は存在しない。敬意を表するようなものを相手にする仕事はしていないからな」

「ロクな仕事じゃないわね」

 つまりは、彼らは子供たちを「モノ」とか「商品」とか「実験動物」としか見ていない。

「解っていないようだな、これは素晴らしい仕事だ。素人共は、遺産との高い適合により異能者が生まれる現象を幸運と偶然に頼っているようだが、我が社は違う。任意に異能者を造り出すことができるようになれば、安定した利益が生み出せる。必要とされているのは子供の兵隊だ」

C()hild-S()oldier……というわけね。最悪な会社だわ、今すぐ破産すればいいのに」

 そう吐き捨てながら、桐子が輝の背を小さく叩いた。そして、耳元でひっそりと囁く――撤退よ、と。

 輝は驚いて桐子の顔をまじまじと見る。隣に立つ桐子の険しい表情はどうやら、決して名張の主張に苛立っているからというだけではないらしい。桐子は首筋にうっすらと汗を滲ませていて、顔に出すまいとはしているのだろうが、それでも隠し切れない疲労の色が見えた。

 輝は反論しなかった。一人では名張に手も足も出なかった。桐子の加勢で、この仇敵を何とか倒せるのではと一瞬期待したが、桐子が形勢不利と判断したのなら、それに異論を挟む余地はない。

 輝が小さく頷き同意を示すと、桐子は短く告げる。

「走って」

 その合図で、二人は同時に踵を返し名張に背を向ける。三十六計逃げるに如かず、元来た通用口に向かって一直線に駆ける。

「逃がすか」

 低い怨嗟の声が追いかけてくる。背後でピッ、と電子音が鳴り、それに呼応して、通路前方で天井からシャッターが下りてきた。狭い通路を完全に塞ぐ形でがしゃんと重い音を立てて下りた隔壁のせいで、逃げ道が失われる。このまま走っても壁に激突するだけという状況で、輝は思わず足を止めかける。それを、桐子の叫びが咎めた。

「止まるな!」

 その声に突き動かされて、輝の足は止まることなく走り続ける。僅かにスピードを上げた桐子が先行し、邪魔な障壁相手に華麗なドロップキックを決めた。ガンとか、ドンとか、事故現場でしか聞かないような轟音が響き、重く分厚く頑丈なはずの隔壁が吹っ飛んだ。頭がおかしいとしか言いようのない凶悪なキックに輝は走りながら青ざめた。

 強引に退路をこじ開けて、二人は通用口まで辿り着く。倒れ込むようにしてドアから外に出ると、桐子がすぐさま、敵から奪っておいた社員証をリーダーに読み込ませ、搬入口のシャッターを上げた。どうやら侵入の際、逃走の時のことを考えて、シャッターの開閉装置の位置は確認してあったらしい。抜け目のない桐子のおかげで、ぎりぎり名張を撒けそうだ、と輝は安堵の溜息をつく。

 だが、安心するのは早すぎたと、次の瞬間思い知る。シャッターが上がった先に、武装した敵が五人、待ち構えていた。

 研究施設には似合わない、防弾仕様と思しきボディアーマーを装備したむくつけき集団が退路を塞いでいる。全員が揃って両手で小銃を構えてこちらに照準している。

「大人しく投降し――」

 輝が自身に向けられた五つの銃口に怯み、銃を構えた男が降伏を呼びかける、その間に、ギブアップを宣言する気などさらさらなさそうな桐子が、拉致されるときに使用されたバン(中で二人、敵構成員が伸びている)を蹴り飛ばした。

 まず自動車は蹴るものではない。そして、何かの間違いで蹴ったとしても、せいぜい傷がついて持ち主が悲しみ蹴った人間の足の方が痛むだけなのが関の山のはずだ。しかし、桐子は軽々しく蹴った。ごく当然のように、サッカーボールを蹴るかの如く自然な流れで。そして、蹴られたバンが当たり前のように浮いて吹っ飛んだ。

 車はそんなに軽いものだっただろうか、と錯覚してしまうほどにあっさりと飛んだ。しかし、そんなはずがないのは、飛んできた車に薙ぎ飛ばされまとめて下敷きになった男たちの悲痛な呻き声が如実に表している。重い。当たり前だが、とても重いのだ。

 五人のうち三人がバンに押し潰されて沈黙した。その悲惨な光景に唖然としている間に、残る二人も桐子に殴り飛ばされた。制圧までの時間は十秒足らずである。

 呆然とする輝、その腕を、桐子がもどかしげな顔で舌打ちしながら引いた。立ち止まっている暇はないのだと、言葉にするより先に桐子は動いている。

 肩越しに振り返る。通用口まで名張が追い付いてきていた。出待ちしていた五人は名張の差し金であろうから、おそらく彼は武装した五人でネズミ二匹は余裕で捕らえられると判断し、さして慌ててはいなかったのだろう。しかし、実際に追い付いてみれば、ちょっと目を離した隙に部下は伸びているわけだ。名張が僅かに目を見張ったのが解った。

 これで名張はこちらの戦闘能力を正確に見積もっただろう。つまりは、余裕ぶっている場合ではないと思い知ったはずだ。もう一切の容赦を捨てて追いかけてくる。ぐずぐずしている暇はいよいよなくなってきた。

 搬入口から飛び出すと、外は既に大禍時。だが、薄暗い中でも、素早く周りに視線を巡らせれば、左右からばたばたと足音を響かせながら更に敵構成員が迫ってくるのが解った。輝が予想していた以上に、名張の組織の人員は多い。正規ルートで正門を抜けて脱出するなら、右手から武器を持って迫ってくる集団を突破する必要がある。

「どこ見ているの。最短ルートで逃げるに決まっているでしょう」

 輝がどうやって敵を倒すかシミュレートしていると、それをあっさり切り捨てるように、桐子は輝に強引に前を向かせる。前方には三メートルほどの塀。まさかこれを飛び越えるのか? 輝が尻込みしながら尋ねようとするが、問いかけるより先に桐子は無断で輝の背を踏みつけ足場にして、高い壁に上った。

「痛ってえ……!」

「ほら、早く」

 輝の苦情をさらりと無視して、桐子が上から手を伸ばしてくる。輝はとにかく逃げるのが先決と、痛む体に鞭打って跳躍し、桐子の手に掴まって引っ張り上げてもらった。

 塀の向こうは、幸い断崖絶壁ではなかった。反対側に回り込まれる前に、さっさと逃げようと、輝は塀を越えて向こう側に下りようとする。

 しかしその寸前に、小さな違和感が棘のように突き刺さる。桐子はなぜ自分を踏み台にして塀を上ったのだろうか。《神速撃》の異能があれば、わざわざ人を踏み台にするまでもなく、この程度の壁はひとっ飛びのはずなのに。まさかこの状況で輝に嫌がらせをしたいわけでもあるまいし――

 小さな疑問を、しかし、そんなことを考えている場合ではないと輝は振り払い、下へ飛び降りようと重心を前に移した。その時、同時に飛び降りようとしていた隣の桐子の体が、不自然にがくりと後ろに傾ぐ。見れば、彼女の首にワイヤーが絡みついていた。

「え――」

 輝が境界を越えて行くのとは逆の方向へ桐子が落ちていく。輝の足は既に塀から離れていて、戻るにはもう遅い。呆然とする輝に向かって、桐子は小さく唇を動かした。

「行きなさい」

 最後の最後で道が別たれるなんて、そんな覚悟、輝にはできていなかったのに。


★★★


 首に絡んだワイヤーを解いて、桐子は地面に引きずり降ろされた拍子に汚れたスカートを軽くはたいて土を払う。とっととトンズラするはずが、壁の中に取り残されてしまった。ぎりぎりのところで向こう側へ逃れることのできた輝は、ぐずぐずしていないでさっさと逃げただろうか。気になるところだが、桐子の方も、あまり人の心配をしていられる余裕はない。

 自身を取り囲む男たち、その中央には機嫌の悪そうな顔の名張が仁王立ちしている。桐子を足止めしたワイヤーは名張が放ったものだった。そう簡単に逃がす気はないということらしい。

「まったく、余計な仕事が増えてしまった……だが、お前を代わりに捕えられれば、収支はプラスか」

「さらっと簡単に捕まえられる前提で話をしないでもらえるかしら」

 強気に言う桐子だが、名張はそれを鼻で笑った。

「簡単なことだ。先程までは手を焼かされたが……()()お前を捕えることなど造作もない」

 桐子は忌々し気に舌打ちする。どうやら名張は、桐子が一番気づかれたくないところに、気づいてしまったようである。

 まったく、現実はままならないものだ。

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