80この鈍間共
蹴破るくらいの勢いで扉を開け放てば、荒々しい騒音に五人の研究員たちは一斉に振り返る。
「誰だ!」
研究員の一人が叫ぶ。全員の視線はまっすぐに輝に注がれる。感情が高ぶるあまり、隠匿の遺産の効果は切れてしまっていた。適合率がただでさえ低い輝では、平常心でなければ満足に遺産を扱えないのだ。しかし、今更姿を隠す必要などない。問題ないと判断する。
輝は先刻、誘拐犯の懐から奪ってきたスタンガンを右手に構え、研究員たちに宣戦する。
「全員、俺がまとめてぶっ潰す」
言うが早いか、輝は床を蹴り手近な男に飛び掛かる。クリップボードを抱えていた男はそれを思わずといった風に取り落としていた。突如向けられた敵意に反応の遅れた男に、輝はスタンガンを押し付けた。
「ぐががッ!」
苦悶の声を上げて男が激しく痙攣し、一拍置いて床に倒れた。
「こいつ……」
近くにいた別の男が掴みかかろうとする。輝はそれを身を屈めて避け、と同時に、先刻倒れた男が床に落としたボールペンを拾い上げる。なおも輝を捕えようと両手を広げる研究員の太腿に狙いを定め、ペン先の飛び出した状態のボールペンを思い切り突き立てた。
「ぐあああ!」
凶器として十分に凶悪なボールペンに脚を鋭く穿たれ、男はその場に崩れ落ち、脚を抱えて呻きのたうつ。これで二人、残りは三人だ。
手近なテーブルを踏み台にして飛び上がり、短い滞空の間に輝は次なる標的を決める。呆然と立ち尽くす眼鏡の男。跳躍の勢いのまま右脚を振り抜き、男の側頭を蹴り飛ばす。眼鏡が外れて転がり砕け、遅れて男も吹き飛ぶ。脇のテーブルの上にあったパソコンや計器類を軒並み巻き込んで倒れた。
だん、と床を激しく鳴らして着地する。と、前後を残る二人の敵に挟まれた。前方の男は懐から小ぶりのナイフを取り出して突き出してくる。ただ、あまり荒事には慣れていないのか、ナイフを持つ手は震えている。肩越しに後ろを振り返ると、そちらの男はどうにか隙を見て輝を捕えようとしているのか、どっしりと仁王立ちして待ち構えている。ガタイはいいが、見たところ丸腰だ。
「このクソガキ!」
汚らしく罵りながら、ナイフを持った男が突進してくる。直線的に突き出された刃は、その軌道のあまりの単純さゆえに、躱すことは容易かった。体を横にずらして切っ先を避け、男の右手を掴み後ろに回って捻り上げる。痛みで力が緩んだところを、男の手からナイフをもぎ取り、背中を蹴り飛ばす。前に着き飛ばされた男は、その先のもう一人とぶつかって絡まるようにして倒れる。起き上がるのにもたついている隙に、二人に順番にスタンガンをぶち込んだ。
流れるように敵五人を黙らせ、輝は小さく息をつく。常日頃、味方からは馬鹿だ馬鹿だとたびたび言われるものの、戦闘能力がないわけではない。むしろ、荒事には慣れているほうだ。遺産はなかなか使いこなせない、しかしだからこそ、異能に頼らなくても戦えるように訓練を積んできたのだ。
さて、悦に浸っている暇はない。早く子供たちを逃がさなくては。輝は奪ったナイフで、手前のベッドに横たわる少年の拘束を切断する。呆然としている少年を起こして、他の子の拘束も解くように指示する。輝に促され、少年ははっと我に返り、慌てて隣のベッドに縋りつく。危なげな手つきながらも、ベルトを外していった。輝は反対側から拘束を切っていき、やがて六人全員の拘束を解いた。
増援なんて必要ない。ちゃんと一人で全員助けられた。どうだ見たか、と輝は後ろを振り返る。隣の観測室に一人残していた桐子の姿は、しかし、今はなかった。隠匿の遺産の効力はとっくに切れているので、姿が隠されているのではなく、本当にそこにはもういないということになるのだが、彼女はいったいいつの間にいなくなってしまったのか、輝は全く気づかなかった。弱気なことを言っていた彼女のことだから、輝が騒ぎを起こした瞬間、拙いと思って逃げたのかもしれない。
だが今は、どこに行ったか解らない桐子のことより、目の前の子供たちだ。輝は不安そうに顔を見合わせている子供たちに声をかける。
「みんな、ここから逃げるんだ」
「……逃げるって、どうやって?」
最初に解放された少年が、子供たちを代表するように問う。
「悪い大人はぶっ飛ばしたんだ。だから安心して逃げられる」
輝の言葉に、戸惑っていた少年少女たちの表情に微かに希望が差し始める。
あまりゆっくりはしていられない。研究員たちはすぐには起き上がれないようにしただけで、いずれは立ち上がってくる。そうなる前に、安全なところまで逃げ切る必要がある。
輝は子供たちを促し、実験室の扉から通路に出た。通路の先に人の姿はない。輝の先導で廊下を駆け、輝が進入してきた通用口の方へ廊下を折れた。正面に通用口の扉が見え、その間に障害となる者はいない。よし、と輝は内心で快哉を叫んだ。これなら行ける、と。
「――随分と大きなネズミがいたものだ」
底冷えするような低く怜悧な声を後ろで聞いて、輝はぞくりと背筋を震わせる。
はっとして振り返る。いつからいたのだろうか、気配を感じさせず忍び寄っていた男が一人、壁のように直立していた。
じろりと見下ろしてくる背の高い男。表情は陰になっていてはっきりとは見えないが、不機嫌そうにこちらを睨んでくるのだけは解った。蛇に睨まれた蛙というのは、こういう状況を言うのだろうか。輝の足は、なぜか床に縫い付けられたように動かなかった。
「……走れ!」
足が竦んで動けなくなった輝は、自分が走る代わりに力強く叫んだ。その言葉で、弾かれたように子供たちは一斉に走り出す。廊下の奥へ、ばたばたと慌ただしい足音が遠ざかっていくのを背中で聞きながら、輝は眼前の男と睨み合う。
聳え立つ壁のような男。黒のハイネックに、同じく黒のスラックス、両手には黒いレザーグローブと、全身真っ黒で露出の少ない格好をしていて、人というより岩とか言われたほうがしっくりきそうだ。右目の上には大きな傷跡があり、輝はそこに傷を負った男をよく知っていた。
「名、張……」
思わず声が上擦った。名前を口にすると、男――名張は意外そうな顔をした。
「ほう、俺を知っているか。もしや、昔飼っていたモルモットのうちの一匹か」
とことんこちらを人間扱いする気のない発言に輝は憎悪を掻き立てられる。
「俺はお前のそのムカつく顔……忘れたことはなかったぜ」
「仕事柄、憎まれることには慣れているからどうでもいいがな。なんにしても、俺が折角掻き集めた新しい実験体を、勝手に檻から出されるのは困る」
「子供たちのことは追わせねえぞ」
子供の足では、すぐに遠くまでは逃げられない。彼らが逃げる時間を、長く稼ぐ必要がある。この男に追いかけさせるわけにはいかない。
幼いころの恐怖心が蘇り委縮してしまった体が、しかし、怒りと恨みで熱く滾り、再び動き出す。輝は手に持っていたナイフを名張へ突き立てんとする。
名張はただ静かに左腕を持ち上げた。輝が胸に向かってナイフを突き出すと、切っ先はそれを遮るように掲げられた腕にぶつかった。そして、キンッ、と肉に刺さったのではありえない音を立てた。
輝は絶句する。名張が五体満足で立っている、その時点で想定してしかるべきだったのだ。名張はかつて、御影在処によって両手両足を切り落とされた。つまり、現在の名張の両手両足は義手義足に他ならない。そしてこの男のことだ、単なる義手義足ではなく、武器としても役に立つような特殊な仕様であってもおかしくはないのだ。
ナイフを難なく防いだ頑丈な義手で、名張は輝の攻撃を弾きとばす。そして、狼狽する輝の右手を打ち払う。びりびりと痺れるような強烈な痛みに、輝はナイフを取り落とす。零れ落ちた刃は廊下を滑って手の届かないところへ。
慌てた輝は代わりにスタンガンを構えるが、それも名張は間髪入れずに弾き飛ばした。得物をすっかり失くして、次の一手を考えあぐね動揺してしまえば、その隙に名張の左の義手が固く握られ、大きな拳は輝の鳩尾にめり込んだ。
「っは……――!」
内臓が押しつぶされる感覚。息が止まる衝撃に、一瞬輝の体は浮き上がり、そして一拍置いて、今度は上から振り下ろされた拳に頭を殴られ床に叩き落される。容赦のない打撃の連続に、反撃の隙が掴めない。得意なはずの近接戦で、ただの一発すらヒットを叩き込めない。
「くそっ……」
ぐっと手に力を込めて起き上がろうとする。だが、名張の爪先が輝の顎を蹴り上げ、再び床に転がる羽目になる。立ち上がる暇を与えられないまま、更に頭を踏みつけられる。端的に言って、絶体絶命の窮地だ。
ぐりぐりと靴の裏で輝を踏み躙りながら、名張は懐から通信機らしきものを取り出す。いくつかボタンを操作し、通信が繋がると、名張は指示を飛ばす。
「モルモットが逃げた。動ける人員はまず正門を塞げ。モルモット共に塀は超えられない。正門を固めてしまえば逃げられない。門を塞いだ後、敷地内に隠れているモルモットを追い詰めろ」
失敗だ。心臓がぎゅっと締め付けられるような感覚。敗北感と罪悪感に息が苦しくなる。詰めが甘かった。自分一人の力で敵を倒し、子供たちを逃がせると思った。だが、実際蓋を開けてみればこのざまだ。
この後、もし子供たちが捕まったら? 逃げた罰として、彼らは名張によって痛めつけられるだろう。もう二度と、逃げようなんて気を起こさないように、徹底的に心を折られるだろう。中途半端に手を出したせいで、事態は悪化することになる。輝は己の甘さと無力さを心の底から呪った。
輝が自己嫌悪に陥っている間にも、事態は止まることなく進んでいく。確実に悪い方へ。名張の持つ通信機に、部下らしき人間からの連絡が次々に入る。
『正門に人員の配置完了』
『これより敷地内を捜索します』
実験室にいた研究員の他にも、この施設にはまだ人員がいたのだ。それも輝は想定が及んでいなかった。このままでは、子供たちが見つかってしまうのも時間の問題だ。
どうすればいい? 答えの出ない絶望的な問いだけがぐるぐると頭の中で巡り、しかしどうすることもできず、輝は悔しさで握る手に爪を食い込ませる。
事態が思いがけない方向に動き出したのは、次の通信が入ってからだ。
『東側、子供たちの姿が見えません』
『建物北側、標的確認できません』
『同じく西側、誰もいません』
名張が若干苛立ったような声を上げる。
「敷地内にいるのは確実だ、隈なく探せ」
その直後、切羽詰まった叫び声が通信機から飛び出した。
『こちら保管庫! 所長! 実験待機中だったモルモットの姿も消えています!』
「……何?」
会話の内容は、輝にも大まかに理解できた。この施設に囚われていた子供は、実験室にいた六人以外にもいたのだ。しかし、その子供たちも、なぜかすでに姿を消しているという。名張がますます不機嫌になるのが輝にはよく解った。
「いったいどういうことだ。モルモット共はどこへ消えた」
名張の苛立ちが最高潮になる頃に、その問いに答えられる人間は現れた。
「――あなたたちには届かないところよ、この鈍間共」
冷ややかな声と共に、輝の視界の端で音速姫・桐子が駆け抜けた。




