75あいつ馬鹿ですよ
内通者疑惑なんて、甘利の考えすぎだと思っていたから、すっかり忘れ去っていた。だというのに、実際に怪しい人間がいると白鷺は言い、しかもその人物は篠崎輝のことだという。寝耳に水の話に、万里は低く唸る。
輝は三つ年下の少年だ。部下、という言い方には少々語弊があるが、万里が主に、琴美と輝と、三人でチームを組んでいるのは確かである。そしてチームリーダーが誰かと言えば、万里であるのも確かだ。
輝との付き合いの長い万里から言わせれば、輝が内通者などという話は到底信じられない。なにせ、
「勘違いですよ。だって、あいつ馬鹿ですよ」
万里は当人がいないのをいいことに、歯に衣着せぬ言い方をする。一応輝を擁護しているのだが、正直な気持ちで思った通りに弁護しようとすると、同時に罵倒する羽目になる。
「輝が他に情報を流すとか、そういう頭使った芸当ができるとは思えません。尾行は相変わらず下手くそだし、中一にもなっていまだに赤点とって帰ってくることもあるし、報告書書かせると三行に一回誤字るし。たぶんUSBとUSJの区別もつかないですよ」
「酷い評価だな……」
身内に対する酷評ぶりに白鷺が呆れ返る。
「いや、確かに、篠崎に限って情報を漏らすということはあるまいとは思う。だが、怪しい動きをしているのは確かなのだ。内通者疑惑が持ち上がっている以上、社長に報告しないわけにもいかんからな」
もしそれが事実だとしたら、チームリーダーとして気づかなかったのは恥ずべき話だ。白鷺が冗談を言っているわけでもなさそうなので、万里は戸惑い気味に問う。
「怪しいっていうのは、具体的にどういう様子なんですか」
「碓氷が気づかなかったのも無理からぬことかもしれんな。どうも、篠崎は碓氷を避けているような節がある。社内で碓氷とすれ違いそうになると、あからさまに方向転換をする。それと、碓氷が退社した後、こそこそとあたりを見回しながら出かけていく。それも、救済社が保有する遺産を持ち出して、だ。上司の碓氷には隠れようとしているようだが、他の人間にまでは注意がいかないのか、こちらからは怪しいのが丸解りなのだが」
万里は思わず頭を抱える。尾行が下手くそな輝は、周りからきっちり見張られているのにも気づいていないようだ。
「輝の奴……いったいなに考えてるんだ」
白鷺が言うには万里に隠れて何かをしている様子らしいから、万里が直接問い詰めたところで白状はしないだろう。なんやかんやで心配性な万里なので、一気に不安な気持ちが擡げ始めた。
何も問題が起きなければいいのだが――
★★★
桐子のもとに母校から電話が来たのは、月曜日の夜のことだった。
夕食を終え、課題のために自室に引っ込もうとした矢先、リビングの電話が鳴った。スマホを持つようになってから、知り合いはたいていそちらに連絡を寄越すので、固定電話など八割がた怪しげなセールスしかかかってこなくなった。どうせまたその類だろうと思いながら、桐子はナンバーディスプレイを覗き込んだ。表示されていた番号は、どこかで見たことがあるような気がするものだった。市外局番を見るにどうやら近所らしいと思われ、受話器を取る。その電話が、思いがけず、桐子が卒業した地元の中学からのものだったのだ。
電話をかけてきたのは、桐子が三年生の時に担任だった本多という女性教師だった。三十代くらいの若い教師で、担当教科は英語。とても熱心だった印象がある。「あなたなら聖新学園に行けるわ!」とたびたび近隣随一の進学校を勧めてくれた担任だが、そのたび桐子は「あんな学費の高いところは無理です」と提案を蹴っ飛ばし、自分のクラスから聖新学園入学者を出したがっていた彼女を苦笑いさせていた。
『久しぶりね、上原さん。変わりない?』
「ご無沙汰しております。こちらは元気でやってます」
『そう、よかったわ。急に連絡してごめんなさいね。実は、上原さんに折り入ってお願いがあるのよ』
そう前置きして、本多が話し始めたのはOBOGによる進路相談会での講師の依頼だった。中学二年生向けに、進路の決め方や勉強方法などを講演するもので、言われて桐子は、確かに自分も二年生の時に、卒業生が来て話をしてくれたことがあったな、と思い出す。本多は現在一年生の受け持ちなので、講演のとりまとめ役ではないそうだが、二年のクラスの担当から、今年の卒業生で誰か適任がいないかと相談され、桐子のことを思い出したという。
『真っ先に上原さんが思いついたの。今年の卒業生の中では、上原さんが飛びぬけて優秀だったから』
社交辞令だとしても、そう言われれば面映ゆいものだ。中学時代、騎士団の仕事を理由に成績を落とすようなことにはなりたくなくて、授業は人一倍真面目に受けていた。その甲斐あって、試験では学年五位以内をキープし、進学校の一つである舟織一高に進学できた。
『そういうわけで、上原さんに講師をお願いしたいの』
「講師ですか……あまり特別な話はできないと思いますよ。授業を真面目に受けるってくらいしか、やっていませんでしたし」
『その当たり前のことを解ってない子がいるのよ。年頃だから、遊んだり部活に勤しんだりで充実しているのは解るのだけれど、それで疲れて授業で寝ちゃってる子って、結構いるのよね。でも、二年生で夏休みも終わっちゃって、そろそろ危機感を抱いてくれないといけない時期でしょう。特別なことというより、普通のことを普通にやるのが大事だって話をぜひしてもらいたいの。上原さんならすごく説得力あるから』
などと、上手いこと持ち上げられおだてられ、悪い気はしなかったし、恩師に対して無碍なことも言えない桐子は、そういう話でいいなら、と講師の依頼を了承した。
そしてその打ち合わせのため、翌火曜日、授業を終えた桐子は部活を欠席して、母校の本多のもとを訪ねることになった。
舟織市の隣に位置しながら、舟織市よりもずっと田舎であるのが、桐子の住む美守町である。生まれ育った桐子はさほど不便を感じないのだが、大型ショッピングセンターもお洒落なブティックも書店もファミレスもない美守町は、若者にはあまり面白くないらしい。それらの娯楽を求めるためにはまず隣の市に出るしかない状況である。当然のように町内には高校も大学もないので、義務教育を終えて進学するにはやはり町外に出るしかないし、さらに言えば雇用も決して多くはないので就職しようと思ったら結局町外に出るしかない。そんな具合だから若者人口の社会減はとどまるところを知らない。
そんな町ではあるが、父の転勤に際して我儘を押し通すだけあって、桐子は美守町の生家に思い入れがあるし、多少不便であっても地元に愛着がある。仮に大学進学で一時的に別の場所に引っ越すにしても、最終的には地元に戻ってくるだろうと思っている。まあ、騎士団の仕事がある以上、その拠点から遠く離れたところに引っ越すのは無理があるだろうという現実的な問題はあるし、そもそも騎士団の仕事と掛け持ちで大学まで進学できるのかという問題もあるのだが。
ともあれ、現在も住んでいる美守町、そして母校の町立美守中学にも愛着のある桐子は、地元に貢献するのもたまにはいいだろうと思いながら、久しぶりに中学の敷地に足を踏み入れることになった。
放課後、舟織駅前からバスに飛び乗って、自宅を通り越して美守中学前のバス停で降りた時、時刻は四時半を少し過ぎたくらいだった。中学生たちは部活動の真っ最中の時間で、屋外では野球部とサッカー部と陸上部がさほど広くないグラウンドを分け合って練習をしていた。懐かしい光景を横目に校舎を目指すと、下校する生徒とちらほらとすれ違う。彼らとは違う、高校の制服を着ているので、何となく後ろめたいような不思議な感覚になる。自分は呼ばれた身なので堂々としていていいはずなのだが、やはり卒業してしまった以上は「部外者」であるというような、罪悪感、あるいは寂寥感のようなものが、そう思わせるのだろうか。中学の制服を着て小学校の前を通った時も、似たような気持ちを覚えたのを桐子は思い出す。
何となく足早に校舎に辿り着き、職員室を訪ねて行った。来意を告げると、迎えてくれたのは本多と、二年の学年主任の蜷川という男性教諭だった。
隣の会議室に場所を移して詳しい話を聞いたところによると、進路説明会は再来週、十月の第一土曜日に行われる。桐子のほかにも卒業生に声をかけているようで、総勢六名になるらしい。一人あたりの持ち時間は十分程度と、講演の概要の説明を受け、だいたいどの程度の量の原稿を用意すべきか、桐子は頭の中で目途をつける。
「今回は引き受けてくれてありがとう。僕は上原さんのクラスの授業を受け持ったことはありませんでしたが、評判は聞いていましたよ。試験ではいつも上位だったそうですね」
蜷川が如才なく称賛をくれるので、桐子は気恥ずかし気に頭を下げる。
「高校でも頑張っている?」
「はい」
どこぞの敵エージェントのせいで心労が多い上に万年二位に甘んじることになっているのだが、それについては触れない。本多に問われた瞬間に頭に浮かんだ性悪男のにやけ面を、桐子は思考からかき消した。
その後、演劇部に入ったことや、文化祭のことなど、高校での生活のことを話した。勉強のことも勿論だが、高校での生活のことを聞きたがる生徒もいるから、そういう話をしてもらえるのも有難いと蜷川は期待を込めた目を向けていた。
簡単な打ち合わせを済ませ、資料を受け取ると、あとは当日にということになった。三人で会議室を出て、昇降口まで見送られる。挨拶を済ませて辞そうとすると、丁度同じタイミングで帰ろうとしていた生徒が蜷川に声をかけた。
「蜷川せんせー、何かあったら電話していいですか?」
女子生徒二人がどこか心配そうな顔で尋ねると、蜷川が手を上げて請け合った。
「解った、気を付けて帰るんだよ」
「はぁい、さようなら」
女子生徒は安心した顔を見せてぱたぱたと連れ立って昇降口を出ていく。
「何かあったんですか?」
尋ねると、蜷川が少し困った顔で頭を掻く。
「彼女たちの帰り道に、今は使っていない古い体育館があるんだけれど、どうやらそこに生徒が出入りしているらしいんだ」
桐子は真っ先に、「絶対なにか後ろ暗いことをしているに違いない」と思った。




