72みんなの笑顔を守るため
「調子に乗った報いを受けて今すぐプールの底で土下座なさい」
などという言葉が喉の奥まで出かかって、桐子が後先考えずに目の前の敵を蹴り飛ばす方向で舵を切りかけた、その時。
ガンッ、と大きな音が上の方から響いた。何かが激しくひしゃげるような音。たとえるなら、トラックのボディの上に何かが落下してきたような音だ。というか、たとえばじゃなくて、そのままだった。トラックの上に何かが乗っている。
何事かと全員が視線を上向ける。と、次いで乾いた銃声が響く。
「うっ」
男たちが次々に呻き声を上げて手を押さえる。武器を狙って撃たれたようで、全員銃を取り落とす。示し合わせたみたいに揃って足元に滑ってきた銃を、桐子はしれっと蹴り飛ばした。
「今のうちに!」
柏木が叫び、捕まっていた子供たちが一斉に逃亡を図る。予定外に武器を失った男たちは、子供の瞬発力には敵わなかった。
「くそっ、何なんだ」
御子柴が忌々し気に空を仰ぐ。その上を黒い影が飛び越えて行った。
子供たちを庇うように御子柴たちの前に立ちはだかったのは、紺色のパーカーを羽織った黒髪の男だった。肩越しにちらりと振り返った顔は、狐の面によって素顔が隠されている。
「誰だ!」
御子柴の問いに、しかし狐面の男は無言のまま右手に持つ銃を突きつける。
ひとまず不審者集団からは解放された柏木たちだが、敵か味方か微妙な正体不明の狐面に戸惑っている。桐子は咄嗟に、弓香を振り返る。
「部長、マイク貸してください」
「え、鈍器にするんですか?」
「普通に使います」
発想が暴力的な部長からマイクを借り受け、まあ確かに鈍器としてもいいかもしれないとは思いつつも、桐子は当初の予定通り正しい使用法を実践する。
「あ、あれはー!」
マイクのスイッチを入れて大仰に叫ぶ。御子柴は叫んでも外には聞こえないようなことを言っていた。何かの遺産の力で結界のようなものくらいは張っているのかもしれない。ならば桐子が音量全開で絶叫しても問題ないだろう。
「えーっと……み、みんなの笑顔を守るため、世界の平和を守るため、悪い奴らは許さない! 神の御使い、『きつね仮面』だーっ!!」
もうちょっと他に格好いいのがなかったものかと自分でも思う桐子だが、急場のアドリブなどこんなものだ。意図を汲み取ってくれたらしい弓香がすかさず合いの手を打つ。
「みんな、きつね仮面が来てくれたよー! みんなできつね仮面を応援しようっ」
きつね仮面って何?
そんな奴いたっけ?
どこかのローカルヒーロー?
冷静になればいろいろとツッコミどころが満載なのだが、ノリと勢いで押し切ったもの勝ちだ。戸惑っていた子供たちも、桐子と弓香がそろって手拍子を打ってゴリ押ししていくうちに、そういうものなのだと思って次第に応援を始める。
「すごい、きつね仮面だ!」
「ヒーローだ!」
「きつね仮面、がんばれー!」
普通の子供たちの前でドンパチを始めて流血沙汰にでもなろうものなら大問題だ。しかし、フィクションなら問題ない。要は、この非現実的な襲撃をヒーローショーということにしてしまえばいい。ヒーローというものは、当然のようにピンチに駆けつけてくれるし、どこからともなく強い武器を取り出すものだし、多勢に無勢でも平気で立ち回るし、何より最後は必ず勝つようにできている。
泣きそうだった子供たちが、次第に希望を取り戻していく。これはヒーローショーなのだから、怖いことは何もない。目の前で起きているのは、必ずヒーローが勝ち、悪者は退散していき、ハッピーエンドになることが約束された物語だから。
「きつね仮面だと? そんなふざけた話があるか」
ショーではなく本気で悪事を働こうとしていたガチの悪者の御子柴は、突然現れたふざけた敵と、それを持ち上げ勝手にフィクション扱いし始める観客に、露骨に面白くないような顔をする。しかし、幸いなことに、御子柴が苛立ち吐き捨てる言葉は、いかにも典型的なやられ役っぽい台詞であり、子供たちは一層盛り上がる。
テンションが上がってきたところで、ヒーローには敵を格好よくぶっ飛ばしてもらわなければ。桐子がマイクを持つ手にも力が入ってくる。
「きつね仮面、お願い! 悪者をやっつけて!」
狐面の男は突然の「きつね仮面」呼ばわりに文句ひとつ言わず、意外とノリよく、くるくると銃を回してみたりなどしている。観衆から歓声が上がる。御子柴は渋い顔をする。
「鬱陶しい、まずはこのふざけた狐をやっちまえ」
御子柴が命じると、迷彩服四人組が懐からサバイバルナイフを取り出し振りかざした。
先頭で突っ込んできたちびがナイフを突き出すと、きつね仮面はそれを横に躱し、伸びてきた腕を絡めとって本来は曲がらない方に折り曲げる。
「ひぎぃッ!」
テレビの特撮あたりではよく聞くけれど、リアルで聞くとぞわぞわするようなゴキリという音と、男の悲鳴が重なった。ナイフを取り落としたちびを、追い打ちをかけるように負傷済みの腕を引いて力任せに振り回して前方へ押し返す。ちび男は突進しようとしていたでぶと正面衝突して、二人まとめて地面に転がった。
一人ずつでは敵わないと見たのか、がりとのっぽは左右から同時にきつね仮面に向かってナイフを振り下ろした。きつね仮面は右側から迫る敵に銃口を向け、さらに左側から襲い来る敵にも銃を向ける。がりとのっぽは目を剥いた。いつの間に二挺目の銃を手にしていたのだろう、と不思議に思っていることだろう。当たり前のように両利きのきつね仮面は二発の銃声を鳴り響かせ、ヘッドショットで敵を二人同時に沈めた。慈悲深くも装填されていたのは実弾ではなかったようで、敵は白目を剥いて昏倒するだけで済んだようだ。
本物のヒーローショーならもうちょっと引っ張って、少しは苦戦した風なところを見せてくれるところだろうが、きつね仮面は遠慮も容赦もなく、四人の敵をものの十秒ほどで返り討ちにした。
役に立たない部下に憤ったのか、御子柴が青筋を浮かべて舌打ちをする。
「まったく、たった一人になにを手こずってるんだ」
ぼやきながら御子柴は作業服のポケットから指輪を取り出した。アメシストに似た色の石が嵌め込まれた指輪で、御子柴の武骨な手にはおよそ似合わない代物だった。
「黒岩、起きろ。二人でこいつをやる」
倒れた四人のうち、でぶが呻きながら起き上がった。最初に腕を折られたちびと正面衝突して倒れた奴だ。四人の中では一番軽傷だろう。黒岩と呼ばれたでぶは、自分の上に折り重なり倒れていた仲間を押しのけ立ち上がる。隣に並んだ黒岩に、御子柴は指輪を手渡した。黒岩は右手の薬指に指輪をはめる。
準備が整ったのを確認してから、御子柴が低い声で呟く。
「《破滅の音叉》」
その瞬間、桐子の「何となく第六感」が働いて、指輪が遺産であることを教えてくれる。
どうやらここからが正念場らしい。
ところで、今の敵の行動は少し奇妙だな、と桐子は引っかかりを覚えていた。遺産は、それを保持する人間ならそれなりに使うことができる。指輪が遺産なら、それを黒岩が使うことは可能だ。しかし、今の様子からすると、遺産を発動させたのは御子柴の方だ。元々御子柴が持っていたものとはいえ、御子柴が黒岩の――他者が占有する遺産に介入し発動させたということになる。そもそもなぜ御子柴は自分で指輪を使わずに仲間に渡して使わせているのか。
桐子がその小さな違和感を考察している間に、戦闘は開始される。
敵二人は別れて動き、きつね仮面を挟撃できる位置につく。そして御子柴と黒岩は同時に右手を掲げる。直後、それぞれの周囲に音符が浮かび上がった。音楽が流れ出したとかではなく、文字通り、音符が具現化している。四分音符やら休符やらがなぜか形を持って宙に浮かんでいる。
はっきりいって訳が解らないしだいぶシュールな画なのだが、ヒーローショー風に言うなら、「悪の怪人がおかしな力を使ったぞ」の一言に集約できるので、ヒーロー設定は便利である。
一応外見は普通の人間である敵を怪人呼ばわりしてナレーションをしながら、ノリノリの口調とは裏腹に桐子は冷静に遺産の能力を分析する。今、別の人間が同一の異能を行使した。そんなことがあるのだろうか。黒岩は遺産の指輪を所持しているが、御子柴の方にはそれがない。どうにも、こいつらが使う遺産は普通ではないようだ。
遺産の奇異な様態も気になるが、目下の問題は謎の音符だ。なぜかふわふわ浮遊する音楽記号たち。とりあえず触れたらろくなことにならないに違いない、と直感が働く。
きつね仮面も同じように考えたらしく、突撃を図ってくる四分音符やら八分音符やらを、己の間合いに入ってくる前に撃ち抜いた。着弾の瞬間、音符は爆発した。どこかの誰かが「芸術は爆発だ」と言っていたような気がする。しかしだからといって、音符が爆発するなんて聞いたことがない。だいぶ奇抜な能力を披露し始めた遺産に桐子は目を剥いた。
目の前で繰り広げられている戦いがショーだと思い込んでいる子供たちは、爆発程度では怯まない。むしろ興奮している。まあ、特撮には爆発がつきものだからなあ、と桐子は適当に考える。とりあえず、パニックにならずに済んでいることは僥倖だ。
だが、喜んでばかりもいられない。御子柴の手から五線譜が吐き出されて、黒い線がうねりながらきつね仮面の背後に迫る。奇妙な線がきつね仮面の周りをくるくる回ったと思ったら体に巻き付いて締め上げにかかった。
「きつね仮面! がんばれ!」
子供たちは必死で応援する。桐子はひっそりと頭を抱える。勢いでヒーローショーという設定にしてしまったせいで緊張感がなくなりつつあるが、きつね仮面、普通にピンチだ。訳の解らない五線譜に縛り上げられて身動きが取れていない。御子柴がきつね仮面を拘束している隙に、黒岩は周囲に爆弾音符を大量生産している。
「ええい、ままよっ」
桐子は投げやりな気分で、持っていたマイクをぶん投げた。そこそこの重みのあるマイクは狙い過たずに黒岩の頭頂部に激突した。
「ぐあっ!?」
ゴン、という鈍い音と黒岩の喚きをまとめてマイクが拾って大きく響いた。突然の急襲に不意を突かれて黒岩がよろめく。その弾みでか、音符の大群は爆発の機会を与えられないまま、シャボン玉みたいに小さく弾けて儚く消えた。
「上原ちゃん、結局鈍器として使ってますね」
背後で弓香が呆れたように呟いていた。
きつね仮面は銃をいつの間にかナイフに持ち替えている。逆手に持ったナイフを自分の体と拘束の間に滑り込ませて、邪魔な五線譜を切断した。次いで、頭部を鈍器で殴打されて無防備を晒していた黒岩の顔面を蹴り飛ばす。
黒岩が仰け反り後頭部から地面に倒れて、再び鈍い音を響かせた。そろそろ奴は禿げるかもしれない、そんな予感をさせる音と共に、でぶ男・黒岩は今度こそダウンした。
御子柴が舌打ち交じりに右手を掲げる。またしてもおかしな音符を生み出すつもりかもしれない。が、唐突にその動きが止まった。表情には驚愕が浮かんでおり、動きを停止させていることが御子柴の意図ではないことが窺える。
桐子はちらりと弓香を振り返る。弓香は「内緒」と言うように唇の前に指を立てて、悪戯っぽく笑っている。ただし微笑んでいるのは口元だけで、牛乳瓶の底みたいな丸眼鏡を外して露わになった瞳はちっとも笑っていなかった。
敵がフリーズした隙を、彼は見逃さない。目の前で無防備に立ち止まった御子柴に、きつね仮面の回し蹴りが容赦なく突き刺さった。御子柴は派手に吹っ飛び、停まっていたトラックに激突した。どれだけ力いっぱい蹴ったのやら、ぶつかった荷室の扉が若干歪んだ気がする。
泣きそうになっていた子供も、今や顔を上気させている。
マイクを放り出してしまったので、桐子は拡声なしで声を張り上げる。
「きつね仮面の勝利だーっ!」
異能者をぶっ飛ばして拍手喝采が響いたのは、後にも先にもこの時だけだ。




