55女だね
扉越しに声を聞いた瞬間、万里は自分の一番の失態に気づいた。行平に後れを取ったことでも、桐子に助けられたことでもない。そもそも自分が出かけた用事をすっかり忘れていたことだ。
元々万里は、琴美のお使いでタルトを買いに外出したのだ。それが、うっかり寄り道したせいで予定外の戦闘に巻き込まれ、満身創痍で部屋に送り返される羽目になり、そうしている間に買い物のことなんてすっかり記憶から抜け落ちた。
しかし琴美の方は、万里がそんなことになっているなど知る由もないから、ずっとタルトはまだかまだかと心待ちにしていたに違いない。だというのに、何時間待っても一向に所望のタルトは届かないし、連絡してもつながらないし――それもそのはず、通信用端末は破壊されてしまっている――で、彼女はついに痺れを切らして万里のアパートまでやってきてしまったのだ。
最悪の展開だ。タルトは買ってない。怒られる。それは百歩譲ってまあいいとしよう。しかし今、部屋に進入されるのは非常に拙い。部屋には桐子がいる。桐子はまだこの緊急事態に気づいていないようで、訪問相手が敵ではないと思って安心しきった顔になっているが、そんな生易しい状況ではないのだ。
万里は桐子を振り返り、神妙な声で囁く。
「来てるのは俺の妹。妹も救済社の人間で、君の面は割れている」
端的に告げた瞬間、桐子にも事態の恐ろしさが理解できたようで、一瞬で顔面蒼白になった。
「居留守を使おう。そのうち諦めて帰るはずだ。絶対声を出すなよ」
潜めた声で脅しつけると、桐子はこくこくと頷いて、両手で口を塞いだ。
「ちょっと、お兄、いないの? いるよね? いるんでしょ? どういうことなの?」
琴美がしつこく食い下がりながら、ガンガンと強い調子で扉を叩く。明らかに近所迷惑になっていそうだが、それを気にする気配はない。
時間が永遠のように長く感じられた。実際には、ほんの一分ほどのことだっただろう。ついにノックの音が止み、「仕方ないなあ」と琴美の諦めの言葉が聞こえた。やっと帰るのか、と万里はほっと胸を撫で下ろす。
が、次の瞬間、かしゃんと、明らかに鍵穴に鍵を差し込んだ音が聞こえて、万里は目を剥いた。
あいつ、いつの間に合鍵を? 居留守作戦が失敗したことを悟り、万里は血相を変えて扉に走って行く。琴美に勝手に解錠される前に自分で鍵を開けた。扉を押し開けると、琴美が憤慨した顔で仁王立ちしている。
「なんだ、お兄、やっぱりいるじゃん」
「何で人んちの合鍵を当たり前のように持ってるんだ」
「一人暮らしで、何かあったとき困るだろうからって、母上が」
余計なことをしやがって、と万里はこの場にいない母に対して内心で怒りをぶつける。
「外暑いんだから、早く中に入れてよねー」
などと言いながら、琴美は万里を押し退けて勝手にずかずかと部屋に進入してくる。まだ本調子でない万里は琴美の横暴を止めることができない。扉を開ける直前に、かろうじて、三和土に脱いであった桐子の靴は《武器庫》に片付けた。が、問題なのは桐子本人の方だ。もう今更「隠れろ」と叫ぶわけにはいかない。機転を利かせて隠れていてくれと祈りながら、万里は慌てて琴美を追いかける。
リビングのテーブルには放置されたマグカップと、ドリンク剤の空き瓶が三本。桐子の姿は、目につくところにはない。だが、窓は鍵がかかったままだから、ベランダから逃亡したわけではなさそうだ。つまり、部屋のどこかに隠れている。
万里は素早く視線を走らせる。一点に注意を引かれた。クローゼットだ。少し隙間が空いている。成程、そこに慌てて飛び込んだんだな、と得心する。とにかくクローゼットに琴美を近づけないようにしなければ、と固く決意する。
琴美は遠慮なしに部屋の奥までつかつかと歩いていくと、先刻まで万里が寝ていたベッドに勢いよく腰を下ろす。
「お兄、私が頼んだタルトはどうなっているの?」
「あー、買いに出ようとはしたんだけど……外に出た瞬間、あまりの暑さに熱中症になって部屋で伸びてた」
「嘘」
琴美の台詞は、信じられない、という驚きを表すのではなく、完全に虚偽の発言だと決めてかかるような調子だった。淡々と「ダウト」と告げたようなものだ。
「お兄が熱中症? そんな虚弱体質なわけないでしょ。ほんとはどういうわけなの。ほら、言い訳するならしてみなさいよ」
「いやいや、嘘じゃないから。俺はこう見えて軟弱なんだよ。冷房のガンガンきいた部屋で育ったから、炎天下の中を歩くなんてとてもできなくて」
万里が苦しい言い訳に固執していると、琴美は溜息交じりに、サイドボードの上に置いてあったエアコンのリモコンを手に取った。
「ぜんぜん冷房ガンガンじゃないよ、設定温度、二十八度になってるよ」
即座にぼろが出た。どちらかといえば冷房は苦手だし、さして広くない部屋だから二十八度の標準設定から下げたことがない。
それから琴美はテーブルの上を眺めて。
「お茶を飲んだ形跡がある。飲んだのは誰?」
「お、俺に決まってるだろう」
「お茶は利尿作用があるし、塩分は含まれてないし、その上冷たいのじゃなくて温かいのなんて、熱中症の時には普通飲まない」
「すみません俺が悪かったです」
万里はあっさりと敗北を認めた。昔からこの妹は、無駄に鋭い観察眼と推理力を発揮する。琴美を騙しとおすのは非常に困難なのである。
しかし、琴美の観察眼は万里の想像よりも優れていたようだ。追及は更に続いた。
「女だね」
「え」
「お兄、女の子を連れ込んでいたんでしょう」
肝が冷える。万里は表情に出さないように全神経を集中させる必要があった。あてずっぽうだろうか?
「マグカップに、リップの痕。薄いピンクの色つきリップだから、飲んだのはお兄じゃない」
無駄に細かいところまでよく見ている。
「ベッドにぬくもりが残ってる。私が来る直前まで寝てたのかな」
琴美は自分が座っているベッドを撫でながら外堀を埋めていく。
「見たところ、お兄は少し疲れているみたいだね。栄養ドリンクがぶ飲みするほど疲れるって、ただ事じゃないね」
体調が悪いことまで見抜かれてしまっている。
まずい。これはまずいぞ。背中を冷や汗が流れていくのを感じながら、万里はひたすら祈る。気づくな、気づくな、と念じ続ける。
やがて琴美は答えに行きついたらしく、そして自分で弾き出した結論に驚いて目を見開き顔を真っ赤にして叫ぶ。
「さてはお兄、私の頼みごとを無視しておいて、昼間から部屋に彼女を連れ込んでベッドでえっちなことを!?」
「してねえよッ!」
琴美の推理は最後の最後で斜め上の方向に暴走した。というか、彼女いる説、まだ引きずっていたのか。万里は勘違いし続けている妹に教え諭す。
「何度も言うが、彼女はいない」
「だって、女の子が来てた気配があって、ベッドを使った形跡があって、男の子が疲れてるって、もうそれ一択でしょ」
確かにその三つのヒントだけ聞かされたら、いかがわしい想像をしないでもないかもしれないが。
「中学生のくせに不健全な一択に絞るんじゃない」
「じゃあ何してたの。誰を連れ込んでたの」
敵ですとは当然言えない。
「というか、私が来た時、めちゃくちゃ焦ってたよね。もしかしてまだ彼女いるの? 部屋の中に隠れてる?」
斜め上に暴走したはずの推理がここにきて軌道修正して正解すれすれのところに辿り着いた。琴美はさっと立ち上がり、部屋に潜んでいるであろう「彼女」とやらを探す素振りを見せる。家探しなどされたら終わりだ。何としてでも阻止しなければならない。
「琴美、曲がりなりにも兄の部屋を勝手に漁ろうっていうのは」
「ちょっと黙ってて」
「ふゃぁ!」
制止しようとした瞬間、華麗に足払いを仕掛けられ、万里はベッドに倒れ込む羽目になる。
部屋をじろりと睨め回していた琴美は、やがて一点に狙いを定める。隙間の空いたクローゼット。琴美は一直線にクローゼットに向かい、扉に手を掛ける。いよいよ万里は震えあがる。
「ストップ、琴美、待って――!」
しかし、万里の制止もむなしく、琴美は一気に扉を開け放つ。
クローゼットの中には――衣類がぐしゃぐしゃに放り込んである。
「うわ、汚い。お兄、ちゃんと整頓しなよ」
思いがけず隠していた恥部を見られた悔しさはあるが、万里が予想していた爆弾的光景は広がっていなかった。あれ、桐子そこにいたんじゃないの?
「あ、もしかして服の山の中にえっちな本隠してる?」
「ない。そんなものはない」
「はいはい、そういうことにしといてあげる……あ、こんなことしてる場合じゃない。自分でタルト買いに行かないと」
用事を思い出した琴美はクローゼットをあっさり閉めて、「今度埋め合わせしてもらうからね」とひとしきり文句を言った後、嵐のように部屋を出て行った。
万里は部屋の鍵をかけ、厳重にチェーンロックを掛け、琴美がフェイントで戻ってこないように措置を講じた。それからリビングに戻ってくると、改めて疑問が湧く。てっきりクローゼットに隠れたと思っていたのだが、桐子はそこにはいなかった。慌てた自分が馬鹿みたいじゃないかとげんなりする。
「……もう大丈夫よね?」
緊張した声がひそひそと聞こえてくる。どこから声がするのだろうかと不思議に思っていたら、桐子がベッドの下からのそりと姿を現した。服についた埃をぱたぱたと手で払いながら、桐子は盛大に溜息をつく。
「あなたがベッドの下にエロ本を隠すような人種でなくて助かったわ」
「どこにもないからな」
なぜ桐子も琴美も、エロ本が存在する前提で話を進めるのか、と万里は心外に思う。
ともあれどうにか窮地は乗り切った。
「あなたも起きたことだし、また厄介事が起きる前に、私はお暇させていただくわ」
桐子がそう申し出たのはごく自然なことだった。
「ああ。面倒かけたな」
「これっきりですからね」
「解ってるって」
「ところで、妹さんも救済社のメンバーなら、熱中症だなんて言う必要はなかったんじゃないの? 嘘を上手につくポイントは、必要以上に嘘をつかないことでしょう。まるっきりインチキを言うからあっさりばれるんじゃない。そのせいで、不名誉な言いがかりをつけられたわ」
「敵と戦って死にかけてたなんて、正直に言えるわけないだろ。兄の威厳を保つには多少の嘘は必要なんだよ」
「兄の威厳……そんなものがそもそも存在しているとは到底思えない会話だったけれど」
大変失礼なことを言う桐子を、万里は部屋から追い払った。




