46土下座して来い
桐子は渋谷の寮の部屋に招かれた。渋谷は淀みない動作でお茶をいれてもてなしてくれて、その動きは視覚に問題がない者のそれであった。桐子の願望が見せる幻というわけではなく、現実に渋谷は視力を取り戻していた。
いったいどうなっているのか、と混乱する桐子に、渋谷は自身に起きた出来事を話してくれた。桐子は夢にも思っていなかった裏面の話に唖然とすることになる。
桐子の知らない間に、万里は渋谷に接触していた上に、各所を騙すという彼らしい術計を授けていた。桐子が散々だと思っていた顛末は、実は丸く収まっていたらしい。
「あの性悪男が来たのは、先輩が呼んだからだったんですね」
「怖い人が三人も相手では拙いと思って、できるだけ早く事態を収束させるつもりで彼の策に乗ったのだけれど、結果を見れば引っ掻き回したみたいになってしまって、申し訳なくて……」
二人が敵同士だと知らされていた渋谷は、万里の話を桐子に流すわけにもいかず、その逆も然りであり、「珍しく目的が一致している」という情報は互いに共有されなかった。そのため、いつもどおり敵対することになった。まあ、いつも通りだから別にいいのかもしれないが、協力していたほうが手っ取り早かったかもしれない。とはいえそれは結果論であり、言っても詮無きことである。もしかすると逆に、下手に協力や演技などせずに本気で戦ったからこそ、「遺産は救済社が奪っていった」というシナリオに説得力が出た、という考え方もできる。
万里の思惑を知ってみると、桐子は少し納得できることもある。いつも通りの敵対関係だったものの、なんとなく、万里にものすごい侮蔑の目で見られていた気がしていたのだが、おそらくそれは気のせいではなかったのだろう。万里は桐子を「一般人からも容赦なく遺産を取り立てる冷酷無比で血も涙もない女」だと考えていたわけで、そりゃあ軽蔑したくもなるのも納得の認識である。
「上原さん、怪我の具合は」
「私の怪我なんて、大したことじゃないです、日常茶飯事ですから。そんなことよりも、先輩が無事でよかったです」
そもそも、たかだか保持者三人が敵になったくらいで心配されるほど自分が頼りなく見えたのが問題だ、と桐子は反省している。もう少し威厳というか、そういうものがあれば、事態はそんなにこじれなかったと思う。
それに、万里の介入はタイミングが悪かったとはいえ、介入自体が悪かったわけではない。桐子の提案した「異能者になればいい」作戦は、「そんな簡単に上手くいくのか」という問題を抱えたままだった。そこを万里の情報操作が丁度補完して時間を稼いでくれた形だ。桐子では「各所を騙して誤魔化せばいい」という発想は出てこなかっただろう。もっとも、万里の助力のおかげで上手くいったというのはかなり癪に障るので認めがたいのだが。
ともあれ、《姫巫女の瞳》が間違いなく渋谷のものになり、誰にも手が出せなくなった上に、情報操作の甲斐があって、不埒な連中が、渋谷が異能者であるということすらも知りえない、という状況は考えうる中でも最上の結果だ。これなら渋谷は異能者でありながら、異能やら遺産やらのごたごたした世界とは関わることなく今まで通り生活できる。
「上原さんが折角いろいろと助けてくれたのに、私が余計なことをして怪我をさせてしまって」
渋谷がずっと申し訳なさそうに肩を落としているので、桐子は大げさなくらいに手を振って否定する。
「先輩のせいではありませんから、本当に気にしないでください。私の怪我は、単純に万里のせいです。あの男が絡むと事態がややこしくなるのは必然というか」
「……上原さん、彼のこと嫌ってる? 実はすごく因縁の相手?」
「ええ、まあ、ちょっと」
いろいろな意味でヤバイ因縁があるのだが、まあそれはともかくとして。
「あの、私、ずっと現実逃避してたんです。先輩を守れなかったと思って、謝っても取り返しのつかないことですけど、とにかく謝らなくちゃいけなくて、でも踏ん切りがつかなくて延ばし延ばしにしてて。今回はたまたま、相手が万里だったから、言い方は悪いですが、運がよかったんだと思います」
運が悪ければ、たとえば別の敵が相手で、演技でも何でもなく本当に渋谷の遺産を奪おうとする強敵が現れていたら、最悪の事態になっていただろう。
手の怪我が治るまでクヨクヨしていてもいいけれど、その先は生産的なことを考えるべし、と主治医は言っていた。生産的といったら一つしかない。
「ごめんなさい、先輩。私、もっと強くなります。もしもこの先、先輩が何か困った時、その時は絶対に不安にさせたりしません、今度こそちゃんと守ってみせます」
まっすぐに渋谷を見つめて力強く宣言する。桐子にできるのは、強くなること、それ一択だ。
渋谷は桐子の言葉を受け取って柔らかく微笑んだ。
「ありがとう。私も……今度は私が上原さんを助けられるようになりたい」
その表情は、桐子が図書館で初めて渋谷に出会い、彼女を女神だと思った時と同じ綺麗な微笑みであり、渋谷が平穏な日常に回帰した合図のように見えた。
★★★
鍵をめぐる一連の騒動が決着してから早数日。左手の骨折が日常生活に影響のない程度にまで治癒し、あとは仕事に差し支えない程度まで回復するのを待つばかりとなった頃。
桐子は一つ未だに気になっていることがあった。喉に魚の骨が引っかかったみたいに、ちくりと刺さってもどかしい懸念事項。万里のことである。
渋谷の鍵を巡って、桐子と万里は対立した。実際のところは、二人の目的は渋谷の鍵を守ることで一致していており、別に対立する必要すらなかったのだが、ふだん敵対しているがゆえにお互いの目的を鍵の奪取であると当然に判断し、敵対しているがゆえに情報の共有も意思の疎通も当然になく、当たり前のように戦った。
しかし全貌が解ってみると、だ。渋谷に対しては、「全く問題なし」「いつも通りで結果オーライ」みたいに言ったし、それはそれで一つの真実ではあるのだが、一方で、どうも誤解のせいで不要なわだかまりが残ったような気もして、桐子はじりじりしている。万里の行動のなんと残酷なことか、と思い込み、外道だの、ひとでなしだの、馬鹿だのカスだの、蛆虫にも劣る卑劣漢だのと、言いたい放題に言ってしまった、と桐子は後悔しているのである。万里は他の極悪非道な連中とは違って言葉が通じる相手だ、と思っていたがそれは勘違いだった――と思ったのはやっぱり誤解だったらしい、というのが現在の状況である。
もっとも、実際に口にしたのは「外道」までで、そこから先は思っただけで言ってはいないのだが、慌ただしい戦場でのことゆえ、桐子は実際に口に出したこととそうでないことの区別が若干ついておらず、全部そのままぶちまけたと思っている。
ようやくエアコンが直って快適になったはずの自室で、ベッドの上で心の中のもやもやとした不快感と向き合い、ごろごろ、じだじだと、かれこれ一時間ほどのたうっている。もしも手元に花があれば、花弁を一枚ずつ抜いて「謝る」「謝らない」の二択で占いでもしているところだ。
どうする、早いとこ謝っちゃう? 桐子はベッドの上で膝を抱えて体を丸め、ダンゴ虫みたいに転がって自問する。敵とはいえ、誤解に基づく非難は不当なものであり、撤回するのが筋というもの。いやしかし待て、冷静になれ、と思考がすかさず制止をかけてくる。相手は敵だ、敵に律儀に謝る奴がどこにいる。いつも殴り合いをしている敵組織の人間なのだから、わざわざ謝罪してやる謂れはない。だいたいこっちは万里のせいで骨折までさせられているのだ、どちらかといえば向こうが謝罪すべきだ。
とはいえ、このまま放置しておいたら、夏休み明けに教室で顔を合わせた時に気まずくなるのは火を見るより明らかだ。いくら公私混同しないことになっているとはいえ、仕事でこれほどこじれて険悪になってしまったら、学校で平然としていられるはずもない。
いっそスマホで呼び出して謝ってしまおうか。いや、プライベート用の端末で呼び出して仕事の話をするのは、それこそ公私混同で協定違反だ。
ああ、どうしたものか。桐子の思考は延々と堂々巡りを繰り返す。進展のない思考を繰り返していると、次第に、なぜ自分だけこんな頭の痛いことを考えなければならないのだと、怒りを感じてくる。こちらがこれだけ悩んでいても、あの男はいつものように、何を考えているのか解らない調子で、人を喰ったように飄々と笑っているに違いない、と桐子は勝手に決めつける。そうなると、自分だけがつまらない問題にいつまでもかかずらって夏休みという貴重な時間を無駄に消費していることが、非常に腹立たしく思えてくる。
「――ええい、やめよ、やめ!」
がばりとベッドから跳ね起き、桐子は誰にともなく叫ぶ。一人で勝手にもだもだしていたと思えば急に奇声を発し始め、傍目には夏の暑さで頭をやられた少女の奇行に映るだろうが、部屋には桐子しかおらず、ツッコミは不在のため、無問題。
「だいたい、いつも私の邪魔をしてばかりで、問答無用で遺産を奪って行く冷血漢のくせに、今回に限って守ろうとするなんて、柄にもないことをして、紛らわしい万里が悪いんじゃないの。ちょっと人格を否定するような侮言を吐いてしまったからといって、私が謝罪する義理はないわ。寧ろ、向こうが土下座して来いって話よ。もう知ったことか!」
桐子の中で問題は決着した。ほとんど、ただの投げやりな思考放棄なのだが、もう面倒になってしまったのだ。そしてその代わりに、このたまりにたまったストレスを発散すべく、身だしなみを整え、ショルダーバッグを斜めにかけて素早く外出の準備を済ませた。
まずは甘いものだ。脳は糖分を欲しているのだ。桐子は固い決意と共に街へ繰り出した。
――この選択のせいで、桐子は予定外の人物と遭遇する羽目になるのだが。
★★★
月替わり・季節のフルーツタルトが今日から発売なの、と妹からメールが来た瞬間、万里は厭な予感を覚えた。これから何が起きるかうすうす察しつつ、ひとまずはすっとぼけて、「で?」と素っ気なく返信した。
琴美からのメッセージはすかさず届いた。
『私、今日は仕事で忙しくて買いに行けないんだ。あとは察して』
『別に今日しか買えないわけじゃないんだろ』
『今・日・食・べ・た・い・の!』
わざわざ手間をかけて一字ずつ強調して送ってきた。万里は思わず渋い顔をする。
八月一日。仕事の予定もなく、学校は夏休みで、珍しく何の予定もない一日だった。課題はあらかた片付いており、日がな一日エアコンの効いた部屋でごろごろしたって罰は当たらないだろうと思っていた矢先に、このメールである。たまの休みくらいゆっくりさせてほしいのに、それさえも許されないとはなんと世知辛い。自然、表情が曇るのもむべなるかな。
しかしながら、万里は僅かながらも抵抗を図る。
『悪いけど、今日は俺も仕事が入っていて買い物に行く暇はない』
と、打とうとして、三文字目くらいまでを打ったところで、割り込みでメールを受信する。
『お兄がオフなのは把握済み』
こちらの台詞をすっかり先読みした先制攻撃にますます渋面になる。こうなるともう逃げられないので、万里は無駄な抵抗を諦めた。
『わかったよ』
『トロピカルフルーツタルト、ホールでよろしく』
しかもカットじゃなくてホールかよ、と万里は内心で呆れる。舟織駅の近くの、琴美行きつけのタルト専門店「果樹園いろは」は、タルトの単価が割と高めで、四号ホールで二千六百円からだったはず。予め現金を預けておくならともかく、立て替えで購入を頼むとは、なんというか、いい度胸だな、というほかない。否、立て替えのつもりならまだいいが、踏み倒される可能性すらあるから、覚悟を決めておいた方がいいかもしれない。
仕方がないな、と万里は嘆息しながら、いつまでも未練たらしく寝そべっていたベッドから脱出する。部屋の隅に放り出してあった私服に着替え、ボディバッグには残金を念入りに確認した財布を放り込み、それからプライベート用と仕事用、二台の端末を突っ込む。スマホは《武器庫》に仕舞うのが一番かさばらなくて楽なのだが、入れてしまうと鳴っていても解らないのが致命的な問題だ。仕方がないから、私用の端末を持ちつつ、急な連絡に対応できるように仕事用の端末も持つしかない。今日に至っては、琴美から更なる要求の連絡がないとも限らないので、仕事用を持つしかない。家族の連絡先が仕事用の端末にしか入っていないというのも妙な話なのだが、琴美は家族であると同時に救済社の構成員なので、どちらかに入れるとなると、当然ながら仕事用に振り分けられるわけだ。
時刻は午前十時。平穏な一日はあっけなく終了したものだ、と万里は肩を竦め、アパートを出た。
――この選択のせいで、万里の平穏な一日は本当の意味であっけなく終了することになるのだが。




