45らしくないことをするんだな
七月の最終金曜日は、空に雲が殆どなく、太陽がじりじりと照りつける、夏らしく蒸し暑い日だった。さすがにまだ左手の装具が外せず、蒸れて痒くて仕方がなく、夏場に骨折などするものではないと思い知らされる。扇風機を出力全開で回しながら自室に篭って夏休みの宿題に手を付ける桐子は、しかし溜息ばかりをついて、なかなか捗らない様子だった。
たいした進捗もないまま、時刻が午前十時を回った頃、机の上に放り出してあったスマホがメッセージの受信を知らせる音を鳴らす。相手は雪音である。
『市営プールのチケット貰ったんだけど、一緒に行かない?』
遊びのお誘いの連絡だった。普段なら一も二もなく飛びつく提案であるが、現在は心身ともにプールに行けない状態である。桐子は「心」の方には触れず、お断りの返事をする。
『実は転んで手を骨折しちゃって、プールには入れないの。ごめんね』
桐子は片手で時間をかけてそれだけ返信する。すると、雪音の方は二十秒と経たずに返事をくれる。
『骨折!? 大丈夫なの!?』
『来週くらいまで安静にしてれば治るらしいよ』
『わかった、また誘うね。お大事に! 暴れちゃ駄目だよ! 絶対暴れちゃ駄目だよ!』
放っておくと暴れるような奴だと思われているのだろうか。若干の疑問符を浮かべつつ、桐子はスマホを置く。
と、再びスマホが鳴って、桐子は首を傾げる。また雪音からだろうかと思って見てみると、予想外に、相手は渋谷だった。驚き慌ててメッセージを確認すると、思いがけない内容だった。
『今日、お会いできませんか?』
急な呼び出しだったが、すぐさま承諾した。正直なところ、桐子の方も彼女に話をする機会を窺っていた。本来なら桐子の方から申し出るべきところを、現実逃避しているうちにお呼びがかかってしまった。そういうわけなので断ろうはずもない。慌てて着替えを済ませ、鞄をひったくって家を出る。時刻表もろくに確認せずに出てきたが、折よくやってきたバスに飛び乗って、桜泉女子大学を目指した。
夏季休業期間中のため、いつも使っている路線バスは本数を減らした特別ダイヤで運行していたが、運よく乗り換えが上手く行って、女子大の前までは四十分ほどで到着した。大学の門前にある停留所で下車して、守衛に声を掛けて敷地内に入る。すると、丁度敷地内から門の方に向かってくる渋谷と行き会った。
渋谷は小走りにやってきて、声を掛ける前に桐子に気づいて破顔した。
「上原さん。ああ、来てもらえてよかった」
それは明らかに見えている反応で、想定していなかった応対に桐子は思わず尋ねる。
「先輩、目は」
「あのね、上原さん」
渋谷はなぜか申し訳なさそうな顔をすると、思いがけないことを言う。
「私、あなたに謝らないといけないことがあるの」
★★★
――渋谷真里菜の鍵を巡る事件の、桐子の知らなかった裏面の出来事。
土曜日の夕方、仕事を終えて帰ろうとした渋谷はバス停で万里と遭遇し、鍵を狙う女襲撃者から守られた。その時万里は、渋谷に告げた。
「解っただろう。鍵を持っていることが知れ渡っている以上、このままじゃ、何度でも狙われることになる。それを回避するためには、一度鍵を手放すべきだ。つまり、鍵は別の人間の手に渡ったと情報を流すわけ」
思いがけない提案に、渋谷は目を瞬かせる。渋谷が反応に困っていると、万里は朗々と続けた。
「今は丁度、何人かの遺産蒐集者が鍵を狙って群がってきている。そいつらの前で、鍵を俺に奪われる、もしくは大人しく差し出すところを見せるわけ。そうすると、そいつらは、鍵は救済社――俺の所属してる組織だけど――が手に入れた、って情報を持ち帰ってそこらじゅうに拡散させてくれる。それで、ほとぼりが冷めた頃に俺は鍵を返す。これで一件落着。どう?」
「あなたの目的は鍵を手に入れることではないの?」
「俺をそのへんの連中や桐子と一緒にしないでほしいな。俺は『遺産は然るべき場所で有効活用されるべき』派だ。持ち主が鍵をただの装飾品だと思っていたり、遺産だと解っていてロクでもないことに使っているようなら遠慮なく頂戴する方向で動いていたんだけれど、調べてるうちに気が変わった。その鍵は目の代わりだろう」
初対面の相手からいきなり秘密を言い当てられて渋谷は息を呑む。
事故の影響で視力を失った渋谷が鍵の不思議な力で目が見えるようになった、という御伽話のような話は、言ったところで簡単に信じてもらえる類のことではないので、今まで他人に言いふらしてはこなかった。家族以外では、今日初めて桐子にだけ教えたことだ。それにもかかわらず、どうやら万里は渋谷の事情に察しがついているようだ。いったいどこで嗅ぎつけてきたのだろうかと、渋谷は目の前の少年に対する警戒度を引き上げる。
「どうしてそんなことまで知っているの」
「確証があったわけじゃない、ちょっとした想像だよ。いろいろと情報を突き合わせると、だいたいそんなところかな、と。その鍵がどういう能力を持っているかとか、鍵の持ち主の経歴を調べてるうちに行きついた交通事故の新聞報道とか、身体障害者手帳が交付されてたけどその後返還されたとか。流石にカルテとかレセプトまでは見れなかったけど」
確かに、渋谷は事故の後、視覚障害により身体障害者手帳を交付された。しかしその後、視力は奇跡的に「回復」したため、手術したら治ったとかいい塩梅に誤魔化しながら手帳を返還している。勿論、その話も他人に言いふらしていることではないし、桐子にも言わなかったことだ。新聞報道くらいは図書館で調べれば辿り着けるだろうが、手帳云々の話は完全に個人情報だし行政の管轄なのだが、いったいどんな後ろ暗い手段を使ったのか。
とにかく、万里は各所で入手した情報を繋ぎ合わせて、渋谷が失った視力を遺産の力で補完しているというところまで想像したらしい。
「まあそういうわけで、鍵を所持することに異論はない。寧ろそれを守りたい側なんだよね。だから誰もその鍵に手を出さなくなるように、俺と協力しよう」
鍵を狙う連中が、渋谷が鍵の保持者ではなくなったと誤認するよう、情報を操作するのが万里の提案する策だ。しかし、この策には一つ致命的な問題がある。渋谷はそれを指摘してみせる。
「それが、私から鍵を騙し取るための嘘ではないという保証はどこにあるの」
「残念ながら、証明する方法はない。こればっかりは信用してもらうしかないね。ただ、あまり自分で言いたくはないけど、どうも俺は人から信用されにくいというか、胡散臭く見えるらしい」
万里は不本意そうに溜息をつく。初対面の相手に、あからさまに「後ろ暗い方法で情報を入手してきた」アピールをするような言動を繰り返せば、胡散臭くも見えるだろう。割と、身から出た錆なのでは、と渋谷は思ったが、その本音は胸の内に秘めておくことにした。
「強いて言うなら、本当に奪う気なら、そんな回りくどいことしないでとっとと奪ってる、ってところかな」
確かに彼の言うことには筋が通っている。奪うつもりなら、先刻の女襲撃者と同じように強硬手段に出るだけで、一瞬で片が付く。交渉や提案は必要ないはずだ。
「もっとも、この作戦にも難点はある。情報操作のためにはある程度敵が喰いついてきてくれないことには始まらない。そうなると、危険な目に遭う可能性がある。最善の方法とは言い難いね。ただ、俺にはこれより手っ取り早い方法が今のところ思いつかない。最終的に決めるのはそっち」
そして万里は連絡先のメモを渋谷に差し出して「その気になったら連絡して」と言い置き去って行った。
寮に帰り着いた渋谷は迷った。桐子と万里、どちらを信じるべきなのか。
敵同士であるという二人は、手段は違えど目的は同じで、渋谷の鍵を守ろうとしているという。そんなことがあるのだろうか。誰も彼もが鍵を我が物にしようと狙ってくる中、会ったばかりの赤の他人が、それも二人もが、守ってくれようとしている。そんな都合のいいことがあるものかと、渋谷は俄には信じられなかった。加えて、敵対しているはずの二人の目的が同じという奇妙な状況も、渋谷を混乱させる一因となった。
困惑し、逡巡しているうちに、事態はのっぴきならないものとなる。夜、寮へ怪物が襲撃してきたのだ。自分の身を守る術を知らない渋谷は逃げ惑い、申し訳ないと思いつつ桐子に助けを求めた。桐子は驚くほど迅速に駆けつけてくれた。しかし、予定外の敵が乱入し、桐子は苦戦する。
このままでは桐子が危険だ、と渋谷は再び判断を迫られる。放っておけば、桐子がどうなってしまうか解らない。渋谷を守るために桐子が傷ついている。どうにかしなければ、とはいえ、渋谷の力では、超常の力を操る敵三人を退けることはできない。
敵は鍵を狙っている。それを邪魔する桐子を傷つけようとする。渋谷が鍵さえ持っていなければ、桐子は傷つく必要がないのだ――状況を打開するためには、渋谷は鍵を所持していてはいけないと判断した。捨てずに持っていた万里の連絡先のメモを引っ張り出し、身を隠しながら震える手でメッセージを送った。
『鍵を奪って』
ただ、結論から言えば、この行動というか、このタイミングというのが、完全に裏目に出た。
桐子は、たった一人で、しかも万全の状態でないにもかかわらず、結局三人の敵を打ち倒してしまった。その直後に来た万里には、もしかしたら桐子が、他の三人と同じ鍵を狙う側に見えたのかもしれない。競合した乱入者を撃退し、次は渋谷に刃を向けようとしている敵に見えたかもしれない。
万里は渋谷の依頼通り、鍵を奪い、敵である桐子を撃って去った。渋谷は自分を守ってくれた桐子を、万里と争わせ怪我を負わせる羽目になってしまった。それが棘のように心に刺さって、桐子にはちゃんと謝らなければと思っていた。
とはいえ、一時的に鍵を手放したことにより渋谷は視力を失い、寮の外に出ることすら難儀するようになった。数日仕事を休み、試験期間中ゆえにいくつかの単位を落とし、万里の連絡を待つ日々を送った。
はたして、万里は四日後、渋谷の寮を訪れた。普通に友人だとでも言って堂々と入構してもよさそうなものだが、彼は作業服を着て宅配便の配達員に扮して現れた。もっとも、当初、渋谷はその姿を見ることはできなかったので、その姿を目の当たりにしたのは鍵を受け取ってからだ。
渋谷はただ、「お届け物です」という声に応じて手探りで部屋の扉を開けて彼を招き入れた。受領印を要求されることもなく、手に押し付けられるように何かを握らされたところで、視力が回復し、自分が持っているのが遺産であり、目の前にいるのが万里だと気づいた。
万里は以前会った時と変わらず不敵な笑みを浮かべて言った。
「上手く行った。鍵は救済社が獲得したって専らの噂」
万里の情報操作は首尾よくいったらしい。自分が何かを得たわけでもないのに、万里は満足そうな表情をしている。
「もう不用意に鍵を人目に晒さないでくれよ。やっぱり持ってる、ってバレたら面倒だ。流石に同じ策は二度も使えない。特に桐子はしつこいから、絶対回収に来る」
実際にしつこくされた経験でもあるのか、万里は心底煩わしそうな顔をしてみせた。
そして、用は済んだとばかりに、さっさと踵を返しかける万里を、渋谷は慌てて呼び止めた。
「あの、正直、こうしてここに現れるまでは半信半疑だったの。あと一日待って来なかったら、『やっぱり騙されたんだ』って思っていたところ」
「だろうね。俺は初対面で信用されたことがない」
渋谷が正直に告白しても、万里は特に気を悪くした様子もなく苦笑した。
「助けてくれて、ありがとう」
「礼はいいよ。仕事でやっただけだし」
彼がわざと素っ気なく告げたのは、照れ隠しのような感情が少しはあったのではないかと、渋谷は思う。
「それと、上原さんのことだけれど」
「桐子のこと?」
「敵同士だって言ってたけど、でも一つだけ言わないと。たぶんあなたは彼女を誤解してる。上原さんは最初から、私の遺産を回収しようとはしなかった。あなたと同じで、守ってくれたの。敵同士だというのに、それがずっと不思議だったのだけれど」
渋谷が告げると、万里は虚をつかれたような顔をした。夢にも思っていなかったことなのだろう。敵である少女が何を考えていようと、万里には関係のないことかもしれない。ただ、渋谷にとって桐子は大事な人間であり、彼女が誤解で非難されるのは厭だった。
「それともう一つ。私はもう鍵を人目に晒すことはしない。覚悟を決めたから。目を逸らさないで、私にできることをするって。もしも泣いている人がいたら、見つけて、傍で励ましてあげるって」
受け取った鍵が右手の中で熱を持っていた。どくん、どくん、と脈動しているかのよう。今まで何年も鍵と一緒に在ったけれど、こんな感覚になったことは一度もなかった。初めてのこと。初めて、鍵が「生きている」ように感じる。
不意に手の中の固い金属の感触が消える。鍵の形をしていたものが赤い光の粒子に変わった。
光の粒は渋谷を包むように漂い、やがて彼女の中に吸い込まれていく。
何が起きているかを理解したらしい万里がぽつりと呟く。
「……遺産融合、か」
遺産をその身に取り込み、誰にも手出しできなくしてしまう方法――保持者から異能者へ変わること。どうすればそんなことができるかなど、教えてくれる人はいなかった。だから渋谷はただ希った。「私のものになって」と。はたして、偶然と幸運を掛け合わせた奇跡は渋谷を異能者に変えた。あるいは、鍵が渋谷を正当な持ち主として認めた。
万里は鳩が豆鉄砲を喰らったみたいな顔でひとしきり驚いた後で尋ねた。
「それは桐子の入れ知恵か?」
「上手くいくとは限らない、とは思っていたのだけれど」
遺産を取り込んだことで体力を持っていかれたのか、渋谷は大きく息をついてその場に座り込む。すぐには立てそうになかった。
「結果としては、上手くいってよかったわ。あなたが、私が覚悟を決めるだけの時間の余裕を作ってくれたおかげ」
「異能者なんて、ロクなもんじゃないと思うんだけどな」
「私もあなたや上原さんみたいに、誰かが困っているときに助けられるようになりたいの。そのためには、異能者になるのは悪いことじゃないでしょ?」
「桐子はともかく、俺みたいにっていうのは、だいぶ誤解があるな。俺は基本的に他人を助けたりはしない」
「でも、助けてくれたでしょう」
「十年に一度くらいの希少事例だ」
それから万里は少し物憂げに呟く。
「俺もだけど……桐子もたまには、らしくないことをするんだな」
その表情の中にうっすらと後悔のようなものが滲んでいたのを、渋谷の瞳が見逃すことはなかった。




