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四章

 鏡の前に立ったのはただの感傷だった。根暗は昔読んだ漫画のことなど思い出しながら、鏡の前でポーズなどとってみたりする。

 すげぇ不気味だ。

 不健康な生活で乾燥し切った唇に、表情の無い頬、深くクマの刻まれた瞳、何らかの魔物が潜伏していそうなボサボサの髪。シニカルな笑みを浮かべているつもりであるその顔は、ハルシオンか何かで陶酔する麻薬中毒者にしか見えない。細いばかりの腕が挿す斜め上方には、ディズニーアニメのキャラクターが描かれたカレンダーがあった。

 鏡に映る自分の姿に噴出して、ぼくはけらけら笑いながら足元に顔を伏せる。僅かに窺えるその時の自分の表情は、少しはマシになったかな、と自分で思える程度にはあからかだった。

 さて。時刻は朝の五時十七分。

 暇だ。

 早く起きすぎた。というか昨日は一睡もしていない。

 退屈しのぎに天気予報でも見ようかとテレビの前をうろついたのは良いが、画面の点け方が分からない。買い換えたということは知っていたのだけれど、だがテレビジョンというものは、画面の前側に電源があるのがふつうではないのか。

 リモコンでしか電源が入らないようになっているのだろうかと思い、手に取ってみたのは良いのだけれど、これも反応しない。はてこれはどういうことか。¥

 悶々と考えていると、チャイムが鳴り響く音が聞こえた。

 扉を開けた。

 「やあやあ」

 円居愛だった。

 「おはよう歩君。こちらは綺麗な良い一軒屋だね、羨ましいよ。僕の家なんて、何だかギャングのアジトみたいな装飾ばかりだからさ。お父さんのセンスなんだが、あまり良い趣味だとは言えないだろう?」

 ぼくに何かを言う隙を与えることもせず、視線だけはこちらに向けてべらべらと話し始める円居愛。

 「聞いて驚いてもらいたいのだけれど、あの家、空調設備は整っているのだけれど、窓はほとんどないんだ。一階の窓なんか全部ガムテープで閉じちゃっていてね。それから家の鍵が一つしか無くって、それをお父さんだけが持っているものだから、あの人が出かけていると僕らは二階から家に上がるしかなくなっちゃう。まったく困ったものだと思わないかい?」

 「……そうですね」

 「ところで歩君。今はまだ五時だよ、良く起きていたね」

 飄々としてそんなことを言う円居愛。ぼくは苦笑いすることもせずに、目の前の男に尋ねる。

 「何しに来たんですか?」

 「君を迎えに来たんだよ」

 円居愛はにこにことして応える。

 「昨日は妹が君の家を訪ねたそうじゃないか。だったら、今日は君があの子を連れ出すのが道理だと思ってね。そうしてもらう為に、僕はここにこうしてやって来た」

 「……そうですか」

 どこまで本音で言っているのかは分からないが、全てが本音ではないことは確かだろう。

 「少し待っていてください」

 「君がそういうなら、いつまでも待つよ」

 円居愛は綺麗に微笑んで言った。

 ぼくは部屋の奥へと引っ込んで、最低限の身支度が入っている机から、家の鍵とペンとメモと催涙スプレーをポケットの中に放り込んだ。そしてしのぶちゃんにメールを一通、送ろうかと迷う。

 「うん。これではまるで、本物の芸術家の部屋だな」

 部屋の隅っこ、いらなくなったものを押し寄せた場所に座り込んで、円居愛はそう言った。

 「家財用具に勉強机、その上に置かれたコンピュータ。鉛筆画なんかは、こちらのボードに向かって描いているようだね。これじゃまるで、君が絵画とパソコンとベッドで寝ること以外、何もしていないように見える」

 いつの間に部屋に上がりこんでいたらしい。こうしてぼくの部屋についてあれこれ口にするのは、無礼に対する開き直りのように思われた。

 「おうや。こんなものがあるじゃないか」

 言って、円居愛はゴミ箱の中から将棋盤を摘み上げる。

 駒のデザインが格好良いので買って、遊び方も分からず捨てたものだった。円居愛は駒を盤の上にぶちまけて、子供のおもちゃ遊びのようにそれを指先でいじくりながら、楽しげにいう。

 「なぁ歩君。都合が着くならでかまわない。時間もあることだし、僕とこれで遊んでみないかい?」

 「ぼく、ルールも知らないのですが」

 「問題ないよ」

 円居愛は楽しげにそう言って、駒の中からいくつか図体の大きなものを選び、盤の端と端にそれぞれ並べ始める。 

 「これを順番に指で弾いてさ。相手の駒を全て盤から出した方が勝ちだ」

 「それ、どれが自分の駒だったか、分からなくなりませんか?」

 円居愛は愉快そうに首を振った。

 「君に限って、それはないよ。君は、映像や風景をそのまま記憶することに関しては天才的だ。意識さえしていれば、駒についた微細な傷まで正確に暗記ができるはずだよ。かと言って、別に観察力や注意力があるという訳でもないのが、君のおもしろいところなんだけれどね」

 「そんな風に言われたのは、初めてですよ」

 「そのはずだ」

 円居愛はシニカルに笑った。

 「だが君の絵を見れば、誰もが君を直感像素質者だと気付くはずだ。それは類稀なる才能だよ、大切にしたまえ」

 「絵画の役に立つのなら、嬉しいですけれどね」

 ぼくは曖昧に笑って、将棋盤の前に座った。

 「先行、頂いて良いですか?」

 「かまわないよ」

 しばらく真剣に思案して、ぼくは自分の駒のいくつかを纏めて将棋盤の中央に弾き出した。

 円居愛はそうしたぼくの駒をすかさず攻撃する。早くも一体、やられてしまった。

 ぼくは残りの駒を盤の中央に集める。円居愛は訝しそうにしながらも、自分の駒を鋭く弾いた。

 会話も無く、表情すら変化しない、静かな攻防戦の中で、ぼくは何と無く、円居愛という人間を理解しようとしていた。でもそれ以上に、お互いこのゲームに勝つために、一生懸命であるに違いない。


 円居家に辿り着いたのはちょうど七時を回った頃合だった。円居愛は家の前で丙に背中を預けるなり、ぼくに微笑んでこう言った。

 「ぼくは先に西条デパートへ着いておくから。君は忍を連れて出て来ると良い。もう起きているはずだから」

「……今日もぼくらを尾行するつもりですか」

 「当然だよ」

 ぼくの質問を意外とさえ、感じていそうな円居愛の声だった。

 「何か不都合でもあるのかな?」

 無邪気で無責任な、そんな疑問が含まれた質問だった。

 「いいえ。そんなことは、ありませんが」

 ぼくは小さく首を傾げて、曖昧に口にする。

 「でもそれだったら、ぼくらと一緒に行動すれば良いだけの話でしょう?」

 円居愛は一瞬、ぼくの言動が心底解せないといった表情をして、次に寂しそうに顔を伏せた。

 「ならないよ。僕は舞姫ちゃんに蛇蠍の如く忌み嫌われているからね。君らの楽しい休日に、影を落とすようなことはするまいさ」

 どうやら本気で口にしているようだった。

 「二人が小学生だった頃くらいまでは、舞姫ちゃんとも良く遊んだんだけれどね。今じゃすっかり、どうしてだか、顔を見ただけで殴られるような関係になってしまった。哀しいことだよ」

 今度は彼は、嘘を付いている。さもなければ自分を誤魔化している。

 少なくとも、その原因が自分自身に起伏していることは、気付いてはいるのだろう。

 「一度、真剣にお話をなさってはどうですか?」

 「僕はいつも真剣だ」

 憮然とした調子で、そう言い返される。

 「……まあ良い。僕はデパートが開店したら、この間の喫茶店に行くから。できたら、店の前でも通ってくれると、後ろを付けやすくなって助かる」

 「……てっきり、デパートの前で、ぼくらが来るのを待っているものかと思っていましたが」

 「昨日はそうしたよ。でも、今日は事情があるんだ」

 円居愛は人懐っこい笑みを浮かべて、それから円居家の玄関を手で指した。

 「それじゃあ。……妹をよろしく頼む」

 「分かりました」

 言って、ぼくと円居愛はお互いに背を向けた。


 「……わざわざありがとう。とても嬉しいよ」

 玄関のチャイムを鳴らすと現れたのは寝巻き姿の白い妖精だった。寝ていたのを起こしてしまったかな、と思って、彼女が手の平に白い靴下を握っていたことでそれが杞憂だと分かった。

 着替えてから出てくれば良いものを、何の躊躇も無く。しのぶちゃんと言い姫ちゃんと言い、寝巻きで人前に登場することを恥と思わない性格らしい。もしかしたら、ぼくに気を使って早く中に入れようとしてくれたのかもしれない。

 「それじゃあ。まだ早いし入って」

 「うん」

 綺麗に磨かれた、しかし脇には本やおもちゃの積まれた廊下を進み、急な階段を登って姫ちゃんの部屋は二階のもっとも奥の場所にあった。二階の廊下には爛漫な表情をした悪魔の木造や、ぼくの身長の半分はありそうな動物のぬいぐるみ類が壁にかけられており、部屋の外から姫ちゃんを監視するようでもあった。

 「……これらはいったい?」

 「ぬいぐるみはお兄ちゃんの、そこの木造はお父さんのです」

 そういうと、姫ちゃんは外側に鍵の取り付けられた扉を引いて、ぼくを中に案内する。いくつかの理由から物怖じする自分を意識しながら、恐る恐る姫ちゃんの部屋に足を踏み入れた。

 カーテンの無い大きな窓と、床に直轢きのふとん。その上に転がった白い携帯電話。隣には衣類とノートパソコンと学習鞄、学校の教科書に筆記用具が、これまた床に直接。女の子らしくかわいらしい雑貨が部屋を包囲するように、壁際でじっと立ち尽くしていた。どうもこれは、円居家の癖ということらしい。

 「この部屋の外に、姫ちゃんの持ち物はないのかい?」

 「うん。この家で自分の部屋があるのは、わたしだけだから」

 と、僅かに誇らしげに姫ちゃんは言った。

 しかしだとすると、色々とおかしいんだよなぁ。

 何せ女の子の部屋だというのに、化粧棚どころか化粧具の一つも転がっていない。お母さんはもういないというし、この家に女の子は姫ちゃんだけのはずだったから、人から借りて使うこともできない。

 というか化粧棚以前に棚というものがこの部屋には一つとしてない。机も椅子も無い。そして六月も半ばを過ぎたこの時期に、エアコンも扇風機もこの部屋には設置されていなかった。ぼくの観察力が追いつかないだけで、他にもおかしな点はいくつかあるのかもしれない。

 「ごめんね。持て成せるようなこと、わたし、ないんだ」

 せめてとふとんの上に座るように勧められる。確かに、真白い床がむき出しに成っていないのはこの部屋でそこだけだ。何と無く背徳的なものを感じながら、姫ちゃんが寝ていたふとんの上に腰掛ける。

 「いいや。それは全然構わない。しかし姫ちゃん、家ではいつも何をしているの?」

 ぼくの質問の意図が掴みかねたのか、姫ちゃんはかわいらしく首を傾げて、そして頭に思い浮かべながら、という風に

 「お料理とお洗濯とお掃除と。しのぶちゃんとメールでお話したり、一緒にネットゲームをしたり、カロリーメイト食べたり、ちょっとだけお勉強したり」

 そうか。パソコンがあったか、とぼくは銀色のノートパソコンの方を見やる。思えば、いつかネットゲームに誘われたこともあったか。その視線に気付いたのか、姫ちゃんはどこか嬉しそうに笑いながら

 「それ。しのぶちゃんが買ってくれたんだよ」

 「へぇ。どうして?」

 「あのね。小学生の時に、しのぶちゃん、いつかわたしに暖房器具買ってくれるって言ったんだ。寒いからね。でもわたし、それだったら夜にもしのぶちゃんと話がしたいから、パソコン欲しいなってわがまま言っちゃって。中学生になって、それが叶ったの」

 「へぇ」

 そこは暖房優先しろ中学時代の久重里舞姫。

……まあでも、この子が自分の望みを口にするなんてこと、滅多になかっただろうしな。しのぶちゃんとしては、何を置いてもそれを叶える他になかったのだろう。

「学校でもお話できるから、今は携帯電話の方が便利なんだけれどね。高校生に成った時買っちゃって」

 「お金はどうしたんだい? 今度もしのぶちゃんが?」

 「ううん。お兄ちゃんに頼んだら、くれた」

 「……そう」

 だったら先に暖房器具買えよ、と思わざるを得ない。

 「なあ。姫ちゃん」

 「何かな?」

 かわいらしく首を傾げる姫ちゃんに、ぼくは精一杯言葉を選びつつ、どこかおずおずと、物怖じしたような訊き方で、こう尋ねた。

 「あんなお兄さんで、苦労しない?」

 「……そうね、ちょっと大変なこと、あるけど」

 姫ちゃんは珍しく、曖昧な感じの笑みを浮かべた。

 哀しそうな、寂しそうな、そんな笑みだった。

 「でも。優しくて面倒見てくれる、大切なわたしのお兄ちゃんだから」

 それは確かに、本心からの好意の言葉で。

 ぼくは何とも言えず、ただ曖昧に相槌を打つだけだった。

 「……アユムくんは、変わらないよねぇ」

 くすくすと、姫ちゃんはおかしそうに笑う。

 「……変わらない?」

 「うん。入学式の日に、わたしに声をかけてくれた時から、ずっと、変わらないよ」

 そう言って、それから取り繕う風でもなく

 「でもわたしは、そんなアユムくんがずっと、好きだよ」

 その言葉が何故か、ぼくの心臓に限りなく近い部分を、鋭く抉ったような気がした。

 「……なぁ。姫ちゃん」

 「何かな?」

 姫ちゃんのようにはいかず、少し歪に笑いながらぼくはこう言った。

 「君ってさ。世の中に一つでも嫌いなこと、あるの?」

 ぼくの質問に、姫ちゃんは小首を傾げて

 「多分、ないよ。なくちゃダメなのかな?」

 無邪気な疑問を口にした。


 「……なぁアユム。あたしらって、ぜってー他に友達できないよな」

 「何だよ唐突に」

 言って笑って頬を歪めて、ぼくはしのぶちゃんから視線を逸らした。

 「いや、何と無くだよ」

 言って、しのぶちゃんはそっぽを向いた。隣り合って歩いているのに、お互いに違う方向を向いているという形になる。お互いに考えていることが同じであるだけに、顔を見ることができないのだ。

 西条デパートに着く前にしのぶちゃんの家に寄るという考えもあったのだが、デパートに向かうことの趣旨を思い出してそれはやめた。

 しのぶちゃんは今度は一階のパン屋の試食コーナーで、だらだら菓子パンを貪っていたところ発見された。はしたない。それから特に目的もなく、三人でデパート内をふらつきまわって早数分。

 意見を言わない三人組である。場の状況を観察するだけでどんな風に物事が転んでも楽しめてしまう性質のぼくは、しかし今回は自分の希望を口にしてみることにした。

 「行きたいお店があるんだけれど、良いかな?」

 「良いともさ。そうしよう」

 言って、ぼくは地下一階、いつかの喫茶店の方へと足を運ぶ。姫ちゃんが「ここ、知っているんですか?」と弾んだ声で口にするので、ぼくは笑顔で首肯した。

 ぼくら三人が店に入ると、どういう訳か巨大なキャリーケースを脇に置いて、さも楽しそうに机の上でお絞りの袋を裂いてあそんでいる円居愛がこちらに気付く。信じられないものを見るような、恐怖するかのような、そんな表情だった。

 「お兄ちゃん!」

 両手を合わせて、爛漫な表情で叫ぶ姫ちゃん。ありったけの嫌悪を視線に込めて、円居愛に向かって射出するしのぶちゃん。ぼくはそんな二人に構わず、キャリーケースをどかしてから円居愛の隣の席に滑り込む。

 「どうも」

 「……ああ。奇遇だね」

 言って、円居愛は人好きする綺麗な笑みを取り戻す。非難するような視線を向けるしのぶちゃんと、それに気付いて困ったような顔をする姫ちゃん。ぼくが目配せすると、しのぶちゃんは憮然としてぼくの隣に座った。

 「何か欲しいものはあるかな? 何でも言ってくれよ」

 メニューを差し出しながら貫禄たっぷりに、円居愛は言った。

 「本当?」

 姫ちゃんがそこで目を輝かせる。

 「ああ。お兄ちゃんが何でも好きなものを食べさせてあげるよ」

 にこにこと、円居愛は妹に笑いかけた。姫ちゃんは照れたように笑って、親にものをねだる子供そのものの態度でメニューを指差して注文を決める。その様子を、円居愛は心底満たされた、まるで良いお兄さんですらあるかのような目で見詰めるのだった。

 「君達は何か?」

 「それじゃあ。オレンジジュースください」

 喉が渇いていたぼくは迷わずそう答えた。喫茶店に来といて難だが、コーヒー紅茶の類はあまり好かない。というかほとんど飲んだことがない。

 「舞姫ちゃんは?」

 「いらない」

 憮然として、自分の肩に首を横たえたまま、敵意のこもった声色でしのぶちゃんは言った。

 「そうか」

 これ以上追求しても無駄だと悟ったのか、円居愛は店員を呼んで注文を済ませてしまう。それから、ぼくとしのぶちゃんの方を向いて、笑みを浮かべて言った。

 「いやぁ。こうして四人で会うのは初めてだったかな。僕はとても新鮮な気分で、そして嬉しいよ」

 「そうだね」

 しのぶちゃんの方を窺いながら、姫ちゃんがおずおず同意した。

 「わたし、びっくりしちゃった」

 「それは僕もだよ。しかし忍、いつの間にこんな素敵な友達を作ったんだねぇ。お兄ちゃんは嬉しいよ」

 「ありがとうお兄ちゃん。でもねお兄ちゃん、いつものことだけれど、どうして一人でこんなところにいるの? ここ、そんなに好き?」

 「あはは。昔、おまえと良く来たところだからねぇ。最近、僕は生徒会の仕事が忙しくておまえと遊べていないだろう? そのことでちょっぴりセンチメンタルになるとねぇ、ついここに来ちゃうんだ」

 「お兄ちゃんてば」

 「あはは」

 「ふふふ」

 「あはは」

 ガツン、と。

 ガツンと、しのぶちゃんが拳から血が出そうな勢いで、テーブルを強か殴りつけた。

 「…………なぁ」

 円居愛はけらけらとおもしろがるように、姫ちゃんはおろおろと困ったように、しのぶちゃんの方を見やる。

 「何だい? 舞姫ちゃん」

 「……てめぇじゃない。アユムだよ」

 頬杖をついて兄妹の茶番を傍観していたぼくは、瞳だけをしのぶちゃんの方に転がした。

 「どうしたの?」

 「何でまた、この兄貴がいるのに席に着いたんだ? ……つーかおまえ、もしかしてここにこいつがいるの、知っていたんじゃなかろうな?」

 「そうだよ」

 流石はしのぶちゃん。勘は鋭いのだ。

 「……分かっているのか? 姫には悪いが、あたしはこの糞兄貴のことが心底嫌いだ。反吐が出る。それが分かって、こんなところにあたしを連れて来たんだろう?」

 「そのとおり」

 ぼくは努めて飄々と答えた。

 「何故だ」

 「お兄さんのいるところからは、姫ちゃんの身にほとんど左手しか届かない」

 そう言うと、円居愛が僅かに表情を歪めてこちらを向いた。

 構わずに、話を続ける。

 「そしてお兄さん左隣にはぼくの体が、右隣には店の壁がある」

 「何が言いたい?」

 「しのぶちゃん。君は安心して、このお兄さんに言いたいことが言えるんだ」

 ぼくが言うと、円居愛はどこかしら寂しそうに笑った。

 「歩君。君のその行為には、僕に対する思いやりが僅かばかり含まれているものだと、僕は捉えてしまいたいのだけれど」

 「かまいません」

 「何がしたい? おまえは」

 しのぶちゃんは怒りと疑問と、ぼくのことを理解しようという思いを込めて、ぼくにそう問い掛けた。ぼくはしのぶちゃんに甘えることにして、努めて飄々と言葉を吐き出す。

 「ぼくだって。一回くらい、皆で真剣に話し合う場を設けたかったのさ」

 「…………」

 しのぶちゃんは呆れたような哀れむような、そんな視線をぼくに寄越す。姫ちゃんは困ったように顔を伏せた。この状況を、受け入れようとしているのだろう。

 「相談も無しにか?」

 「相談していたら叶っていたのかい?」

 「まあそりゃ、ねぇわな」

 くっくと、しのぶちゃんは薄く笑った。

 「姫がいるあたりが傑作だ。おまえ、頭悪いのか?」

 でもしのぶちゃん、君は言っていたじゃないか。

 姫ちゃんのことで、何にもできないことが悔しいって。何も達成できないことに嫌気が立つって。 

 だがしのぶちゃんはすごく友達思いの良い奴だ。だから今まで、彼女を傷付けるだろうと思って、姫ちゃんの前で円居愛と相対することはなかったのだろう。

 でもそれじゃダメなんだ。

 ここに姫ちゃんがいないと、ここで姫ちゃんが変わらないと、ダメなんだ。

 「……ふうん」

 けらけらと、円居愛はそこでおもしろがるように笑った。

 「良いだろう。僕にも少しなら時間がある。だから、舞姫ちゃん。言いたいことがあるなら言ってごらん?」

 「まずその舞姫ちゃんやめろ」

 忌々しげに、しのぶちゃんはそう口にする。

 「円居愛……てめぇは一体どういうつもりなんだ? まさか本当に、自分のことをただの良い兄貴だと思っているんじゃないだろうな?」

 「思っているよ」

 円居愛は飄々として答えた。

 「円居紫子……あの母親が死んで、親父は今まで以上に気がおかしくなって、僕は忍に言ったんだ。おまえの味方は僕だけだ、おまえは僕の言うことだけを聞いていれば良い」

 陶酔したように、円居愛はうっとりと甘美な表情を浮かべる。

 「それから、なぁ忍。おまえは一度としてその約束を違えたことはないし、僕だって、それからおまえ以外のことを考えたことは一度だって、ない」

 「……じゃあ何で、おまえの妹は平気で生ゴミを食べるんだ?」

 しのぶちゃんは隣に座る姫ちゃんを見ないように、僅かに顔を伏せながら円居愛に問う。

 「おまえの妹はおまえが認めない限りまともな食い物を一つも口に入れない。おまえの妹はおまえから届いたゲテモノメールを一件も削除しない。おまえの妹はおまえが薦めたもの以外一冊も本を読まない。おまえの妹はおまえが買ったもの以外一着の服も持っていない」

 「……何?」

 姫ちゃんは困惑した様子で、隣の親友の方を見た。

 「……何を言っているの? いったい、今から何が始まるの?」

 「姫ちゃん」

 ぼくは言った。

 「君は何もしなくて良いから。ただ、ここにいてくれれば良いんだよ」

 「……だって。そんな」

 姫ちゃんは泣きそうに顔を伏せる。

 「良いんだよ。忍はとても良い子だ。何も恥じることはないし、自分のことを欠陥人間みたいに思わなくたって、良いんだよ」

 包み込むように優しく、同時に、独善的で残酷な円居愛の言葉だった。

 ……欠陥人間みたいに。

 そんな言葉を、姫ちゃんは一度も言ったことがない。それがどうして、円居愛の口から出てくるのか。

 だがしかし、ぼくはそれに、何も言い返すことができなかった。

 「僕が妹に求めたのは、たった一つだけ。『良い子であれ』ということさ」

 円居愛は、どこか誇らしげにそう言った。

 「他の誰よりも、完璧に」

 「……それと、おまえが施した意味不明の教育と、どう関係があるっていうんだ?」

 「母が死んだ当事、僕はまだ小学五年生だったんだよ」

 恍けたような言い方だった。

 「多少、やり方が分からなくて失敗しても、仕方がないじゃないか」

 「…………」

 しのぶちゃんは不愉快をあからさまに歯を軋ませた。

 「だって怖いんだよ」

 円居愛は姫ちゃんをいとおしげに一瞥して、いたわるように目を細め

 「妹が変なものを口に入れたらどうするんだ。妹が悪い友達を作ったらどうするんだ。危険な本を読んだらどうするんだ。全ては僕の責任だ。そういうことがないように、だから僕はきちんと、妹を躾けたんだ」

 しのぶちゃんは溜息でも吐きたそうに頭を振った。

こいつは何を言っても無駄だ。と、そんな独白が伝わって来る。

 この男の言うことは、きっと事実なのだろう。

 妹のことを愛していたから、円居愛は妹に対して大変な努力をした。その努力は誰にも冒涜されるべきではない。

 だが。

 「だったら、あなたはどうして、姫ちゃんに酷いことをするんですか?」

 ぼくが言うと、円居愛は僅かに顔を顰める。

 姫ちゃんは声も無く唇を揺らしながら、机の端っこを視線で捉えていた。

 しのぶちゃんが複雑な表情を浮かべてぼくを見る。

 彼女としても、本当は何も言わずに突っ伏すか、ふざけるなと言って暴れたいところなのだろう。

 煮えた油にでも漬かっているような気分だった。こんなのは誰に対しても優しくない。姫ちゃんに対して、この状況はあまりに酷すぎる。

それでもぼくは、三人を同じテーブルに座らせたのだ。

 姫ちゃんに気持ち悪い画像を送り続ける円居愛も、きっとぼくのような心情だったに違いない。

 「ねぇ姫ちゃん」

 びくりと、銃でも向けられたように姫ちゃんは竦みあがった。

 「君は、お兄さんのことが本当に好きなのかい?」

 ぼくがそう訊くと、円居愛は勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。

 「……うん」

 「絶対に離れたくない?」

 「…………そうです」

 「そっか」

 ぼくは笑った。

 姫ちゃんは良い子だもんね。

 自分のお兄ちゃんのことを、少しでも嫌いだなんて、絶対に口にできる訳が無い。心の片隅ででも、そんなことを考えられる、はずがない。

 酷く理不尽な事実だった。

 どうしようもなかった。

 「そっか」

 ここでこれさえ覆せたら、いくらでも取れる方法があるというのに。

 頭の悪いぼくなりに考えたんだ。姫ちゃんにだけ優しくて、姫ちゃんだけが幸せになれるはずの、多分最悪の方法を。なのに。

 「それなら、しょうがない」

 この席に座ったのは大失敗だった。大事なはずの姫ちゃんをこんなに傷付けて、しのぶちゃんには呆れられる。

 ぼくじゃなかったら、もう少し上手くやれていたかもな。こんな遠回りはしなくて良かったのにな。

 「……もう後二十分はあるんだけれどな」

 円居愛はそう言って、愉快そうに腕時計を確かめる。

 「ひょっとして、もう終わっちゃったかな?」

 時計の針を一つずつ眺める。

 「帰ってしまって大丈夫かな? 九時までにここを出て行かないとまずいんだよ。九時までに」

 円居愛が勝ち誇った笑みでそう言う。その時だった。

 何かが爆発したとしか思えないその音が響いたのは。

「…………!」

 天井から鳴り響いた轟音が、コップの水を揺らした。体の芯まで響き渡るような、『どっかーん』というある種間抜けなその擬音。そして巨大な積み木を倒すようなガラガラという音が、天井から喫茶店へと降り注ぐ。

 「あいつら!」

 円居愛が叫んだ。

 「あいつら! あいつら! あいつら!」

 この男の表情が、これほど分かりやすく変化したことがあっただろうか。激しい怒りと驚きと、そして限りなく純粋な憎悪が彼の中で爆発している。

 「あいつら!」

 何が起こったのか分からなかった。しのぶちゃんが咄嗟に姫ちゃんを抱えて机の下に潜り込む間に、円居愛は目にも留まらぬ動きでぼくを跳ね除けると、机の脇に置いてあったキャリーケースを足で強く蹴飛ばした。キャリーケースは立ち竦む店員とベビーカーを引く母親の慌しく擦り抜けて、店の外の広い通路に放り出される。

 「動くなよ」

 円居愛がそう絶叫して、何事かとホールから顔を出した店員を睨みつける。店員は呆けた顔で円居愛の方に歩いて行く。円居愛は机の下の二人を一瞥して、それから店内を観察するように見回した。

 「あいつら……」

 どこか悲しそうに円居愛は顔を顰める。

 「おい、何が起こって……」

 キャリーケースが爆発して、先程とは比べ物にならない至近距離の轟音が、爆風と共に店内に吹き荒れた。

 目も眩むような、暴力的な空気の流れに、ぼくは吹き飛ばされそうだった。円居愛が体を抱えてくれたから助かったようなもの。テーブルの下に隠れなければ、小柄な姫ちゃんなど今頃向こう側の壁に叩きつけられていただろう。

 「何が、起こって……?」

 しのぶちゃんが呆然と口にする。状況を言葉にするのは簡単だ。やってみよう。

 キャリーケースが爆発して、天井や壁に大きなクレーターらしきものができて、削げたコンクリートが瓦礫となって通路の床に降り注いでいる。

 誰もがそんな理不尽な状況を、呆けたように、まるで映画館のスクリーンでも覗くように、呆然と眺めている。そんな中で、円居愛は一度肩を竦めると、どこか演技かかった足取りで店の真ん中へ赴いた。

 「……なんてこった!」

 表情を崩し、頭を抱え、怯えた声で円居愛は喚きたてる。

 「デパートの中で何かが大爆発した! さっき上の1階でも似たような音がしていた! 地上階はもうダメかもしれない! きっとこの階ももうダメだ! 早く逃げなければ爆発に巻き込まれてしまう! それに何時地上から火事が届くかもしれない! 外に出なければ窒息して死んでしまう! なんてこった死にたくない! 非常口はどこだ! 逃げ出さなければ!」

 混乱を煽るような円居愛のその台詞に、店内の人間は悲鳴をあげて店の出入り口に飛び込んだ。「落ち着いてください!」と落ち着いていない声をあげて、店員が彼らを追い駆ける。そんな風にして店内から人がいなくなるのを確認すると、円居愛はいったん息を吐いて、それから元の席に腰掛けた。

 「さて……ね。あの店員。注文したジュースとケーキを出さずに逃げやがって。この店はダメだな」

 冗談っぽく言って、円居愛は一人でけらけら笑った。

 「何を言ってるんだよ!」

 そう言って、しのぶちゃんがようやく机の下から這い出す。

 「おまえが持っていたキャリーケースが爆発した! これはどういうことだ?」

 「何バカなこと訊いてんだよ?」

 円居愛はうんざりした風に首を回した。

 「僕が爆弾魔だからに決まっているだろう? 唐突な展開でごめんねー。まさか誰もキャリーケースが爆発するなんて思わないよねー」

 「ふざけんな!」

 しのぶちゃんは机に拳を叩き付けた。

 「毎度毎度ふざけたことをする奴だと思っていたが! 今度はデパートの爆破か? 何を考えているんだおまえは?」

 「何熱くなっているんだよ。そんな喚いたってしょうがないだろう? 君、ちゃんと冷静に判断しないとこのまま生き埋めだよ。死ぬんだよ? さっさと逃げようよここから」

 「……それは、良くないんじゃないかな?」

 と、そこで、姫ちゃんがおずおずと、机の中から体を半分だけ出して言った。

 「……だって。爆弾はきっと、一つだけじゃないよね。だったら、店の外は絶対に危険だよ」

 「確かにね。この店に仕掛けるはずだった爆弾は、さっき通路の方で爆発しちゃったし」

 円居愛は首を捻って言った。

 「流石僕の妹。賢明だよ。構造的にこの天井が潰れる心配は薄いし、空気が残っている内は安全かな」

 姫ちゃんはふらふらと机から這い出す。

 「あの人達、無事に非常口にたどり着けていると良いんだけど」

 「どうかなー」

 円居愛が時計を見やる。そして指を五本開いて、一本ずつ折りたたんで行く。

 「ご、よん、さん、にー、いーち」

 ぜろ、で、三度目の爆発音が轟いた。

 「……何、今の?」

 「今のは大きいよね。みんなは多分、もう非常口のところに辿り着いてるかなー? 辿り着いていると良いねー。……辿り着いていたとしてもー、非常口はとうに使えなくなっているから無駄だろうけれど」

 「……どういうことだ?」

 しのぶちゃんが訊くと、円居愛はどこかかったるそうに

 「爆弾魔だってバカじゃないよー。被害を出したかったらふつうは逃げ場を無くすさー。最初にどこを爆発させるかって、そりゃあ非常口の扉の向こう側に決まってる。あの扉は分厚いし、音だってほとんど漏れないから、誰も気付かなかったかもだけれど」

 僕は分からなかったなー、と円居愛は能天気に言った。

 「今の爆発って……」

 「通路のどっかじゃない? ひょっとしたら非常口に行った連中と分断されたかもね」

 「……おい。行くぞ、アユム」

 しのぶちゃんが出入り口の向こう、瓦礫の山を指差して言った。

 「様子を見に行くのかい?」

 ぼくは肩を竦めた。

 「やめときなよ。危ないし、行ったところでどうにもならないさ」

 「……いいえ」

 姫ちゃんは糸で操られるような歩みで瓦礫に近付いて、耳を澄ませるように目を閉じた。

 「……声がします。誰かが、助けを求める声が」

 「……アユム」

 ぼくは嘆息して、次にこれみせよがしに肩を竦めて見せて、それから言った。

 「分かったよ。姫ちゃんが言うなら仕方がない。行って来るよ」

 「……はあ? おまえ一人で行くのか?」

 「そうだね」

 姫ちゃんを行かせる訳には行かないし、姫ちゃんを一人にする訳にもいかない。しのぶちゃんに行ってもらう手もあるが、この子は冷静な判断ができないだろうしな。必要以上に人助けをして、その挙句にけがをされても困る。

 「……紳士だねぇ」

 くっくと、円居愛は笑った。

 「でも僕は自分以外の男が自分より格好良いのは大嫌いだからねぇ。ここはね、僕も一緒に行こうじゃないか。女の子二人は、残って」

 「……でも」

 「残っているんだよ、忍」

 円居愛は姫ちゃんの頬に手を伸ばして、優しく微笑んで言った。

 「何もかも全部、お兄ちゃんが何とかしてあげるから。だからおまえは、僕の言うことだけ、聞いていれば良いんだ。分かるね?」

 「良く言うぜ」

 しのぶちゃんが肩を竦める。

 「話は後でたっぷり聞かせてもらうからな。アユムに変なことするんじゃねぇぞ」

 円居愛は笑顔で片目を閉じて見せると、そのままぼくの前を楽しげに歩き始めた。ぼくはその後ろをなぞるように、彼の後を付けていく。

 ずんずんと瓦礫の山を踏み越えていく円居愛。そんなに大きな山ではないが、足の力だけで超えようと思えばそこそこ体力がいるだろう。よじ登るように瓦礫を進んでいると、崩れた瓦礫に足を取られ、後ろ向きに放り出されそうになる。

 そんなぼくの手を、円居愛が掴んで持ち上げる。お陰で転げずに済んだ。

 「大丈夫かい?」

 「…………」

 愉快そうな顔をする円居愛。まったく、何て様だろう。

 「いやいや、すまないね。僕がデパートを爆発させたりしなければ、こんなことにはならなかったっていうのにねぇ」

 「……一つ、聞かせてもらって良いですか?」

 「何かな?」 

 にこりと、円居愛は微笑んで僕に問うた。

 「どうして。爆破を実行したあなたが、デパートに閉じ込められちゃっているんですか?」

 円居愛なら、無関係の事件を自分が起こしたものだと嘯くくらいのことはするかもしれない。だが、彼の所持していたキャリーケースが爆発したということは、この目で確認した事実だった。

「いやいやいやねぇ。僕ってば、ひょっとしたら人望がないのかもしれないなぁ」

 寂しそうに笑って、しかし円居愛は飄々と

 「最初の計画ではね。僕は九時までにキャリーケースを放置してあの喫茶店を出る。そして九時半に最初の爆弾が起爆して、僕らはそれを高笑いしながら眺めている、という感じだったのだけれど。……どういう訳か、予定より一時間早く一階の爆弾がドカン。地下にいたから連絡も来なかった」

 「……人望ありませんね」

 「ああ。どうもぼくには、人望がないらしい」

 へへ、とやんちゃ坊主のように笑う円居愛。

 「生徒会長に立候補した時も、候補者は二人しかいなかったのに、僕には八票しか入らなかった。すげぇムカついたから、色々して無理矢理会長になったんだけどさ」

 「色々て」

 「具体的には、相手候補に転校してもらったりとか」

 「……そんなことしてるから、人望無くすんだと思いますよ?」

 「そうかなぁ。そうかもねぇ。あははは」

 ここでもう一つ爆発音。どっかーん、なんて擬音がこの世に本当に存在するとは思わなかった。空気が割れて耳に突き刺さるような暴音。

 「そもそも、どうして高校の生徒会長になりたいなんて思ったんですか?」

 「そこは君、生徒の会の長だよ。目立つじゃないか」

 少年のような笑みで、誇らしげに円居愛は言った。

 既にどこかに避難しているのか、瓦礫の向こう側に立っている人はいなかった。今度は裂けた天井から降り注いだ瓦礫が通路に降り注いでおり、向こう側と完全に隔絶してしまっている。そして瓦礫の山の前には、赤子が転がって泣いている。

 「……誰かいますか? 誰か!」

 瓦礫の向こう側より女性の声がする。どうやら、降り注いだ瓦礫の所為で、赤子と分断されてしまったらしい。こんな状況だ、何に驚いて赤子を手放してしまってもおかしくない。瓦礫に埋もれなかっただけ幸運というべきだ。そう言えば、途中でベビーカーが放置されているのを見たな。

 「はいはーい、いますよー。私立動堂学園高校三年一組三十四番、生徒会長の円居愛ちゃんですよー。気軽に愛ちゃんって呼んで下さーい。ところで奥さん、何かお困りですかー?」

 ふざけた態度で瓦礫の向こうに呼びかける円居愛。赤子の鳴き声が轟く。

 「息子が、息子がそこで泣いて……」

 「安心してください」

 円居愛にうんざりとしながら、ぼくは言った。

 「赤ちゃんのことは任せて、避難してください。……非常口は使えますか?」

 「……いいえ。瓦礫に埋もれていて……皆さんでどかしているところなんですが」

 「そうですか。上手く出られたら、ぼくらがこっち側にいること、外の人達に伝えてくださいね」

 赤子を抱き上げ、ぼくは瓦礫に背を向ける。これを背負ってあの山を登るのか、そう思うとうんざりした気分。

 「その子は僕に任せてくれたまえ」

 円居愛が頼もしげに言った。

 「大丈夫、取って食ったりはしないさ。僕は自分のしたことに責任の持てる爆弾魔だからねぇ」

 「……そうですか」

 とんでもない戯言である。……どうもこの男には、こういう明らかにおかしなことを分かって口にして、人の気を引こうとする癖があるような。デパートを爆破しようという試みも、そういう心理によるものかもしれない。

 「ところで。どうして九時半なんて、半端な時間に起爆を設定していたんですか?」

 「……どういうことだい?」

 「いいや」

 ぼくは言葉を選ぶこともせずに、その歪な考えを口にする。

 「だって。人を巻き込みたいのなら、もっと昼間とか人の多い時刻を選ぶのがふつうでしょう? 何だってこんな早朝に」

 ふむ、と円居愛は感心したように

 「それに気付くとは、なかなかあくどい考え方ができるじゃないか」

 「どうも」

 「理由は簡単だよ。人の多い昼間を選びたくなかったのは、多くの人が被害にあうのが嫌だったからだ」

 「……はぁ」

 ぼくは首を傾げる。

 「じゃあどうして、わざわざ日曜日に」

 「みんな忙しくってねー。全員の都合が付くのが今日の日曜の午前中だったんだよー」

 「……はぁ」

 あっけらかんと言う円居愛に、ぼくは顔を顰めて嘆息する。何ていい加減な連中だ。何がしたいのかも分からない。

 円居愛は赤子の体をぬいぐるみのようにぞんざいに扱いながら、器用に瓦礫を乗り越えて行く。途中でベビーカーが落ちているのを発見したが、目もくれずに元の喫茶店へと、軽快なスキップで飛び込んだ。

 「……アユムくん、お兄ちゃん」

 喫茶店に戻ると、姫ちゃんが机の下からのそりと顔を出した。隠れてたんだ。

 「無事で良かった……ありがとう」

 「いや」

 ありがとうて。この子の言動も、結構不可解なんだよな。

 「ところで何で机の下? いや気持ちは分かるけれどさ」

 「……その。しのぶちゃんが」

 机の下を覗き込んでみると、しのぶちゃんが奥で頭を抱えてぶつぶつ言いながら震えていた。右手は姫ちゃんの服の裾を摘んでいる。なるほど、そういうことか。

 「かわいいなぁ」

 円居愛が赤子を机の上にぞんざいに放り出して言った。

 「かわいいよ舞姫ちゃん。大丈夫、机の下にいようがどこにいようが死ぬときゃ窒息して死ぬ。そんな風に机に隠れる必要なんてないさ」

 「……うるせぇ」

 忌々しそうに、しのぶちゃんが円居愛を睨む。

 「誰の所為でこんなことになった! 誰の所為で!」

 「ごめん。猛省するよ」

 言って、壁に手をついて猿の反省してみせる円居愛。

 「おまえ……自分のしたことが分かってんのか? 本当にもう取り返しがつかないんだぞ!」

 「取り返しつかないって?」

 「……だから。このデパートの中の奴ら、何人死ぬと思ってる? 爆弾は止められないし、逃げようにもおまえが言うことが確かなら非常口は既に……」

 「止められるよ、爆弾」

 あっけらかんと、円居愛は言った。

 一瞬、喫茶店からは赤子の鳴き声以外の音が消え失せた。

 おぎゃー。おぎゃー。おぎゃー。おぎゃー。おぎゃー。おぎゃー。と、息継ぎをしながら赤子は六回分泣いた。赤ん坊は母を求めてか、腹が減ったのか。それは分からないが。

 「……はぁ?」

 「いやね。デパートに仕掛けた爆弾なんだけれど、起爆時間は操作できるし、不発にしようと思ってできないこともないんだよ、実は」

 言って、円居愛は携帯電話を取り出した。

 「仲間に連絡を取って交渉すれば、或いはこれ以上の爆発は防げるかもね。今時地下でも電話通じるからねー。ネットで会った連中だけど頭悪い奴ばっかだし、今すぐ110番におまえらのこと言われたくなきゃ爆弾止めやがれーって、そう言えば良いことだよ」

 おぎゃー。おぎゃー。赤子が泣くのを、机から半身を出した姫ちゃんがあやそうと試みる。子供の扱いに慣れていないのか、たどたどしい手つきだった。

 「……だったら早く止めろ。てめぇだって、このまま生き埋めはごめんだろう?」

 「どうしよっかなー。僕悩んじゃうなー。困ったなー」

 「てめえ!」

 しのぶちゃんが叫ぶ。円居愛はけらけら笑う。けらけら笑って、鳴き声をあげ続ける赤子の方を一瞥する。表情を変えずにその首を掴んで、姫ちゃんから赤子を引っ手繰った。

 「……お兄ちゃん?」

 首をひん付かんで、円居愛は天井に向かって掲げるように赤子を持ち上げた。そしてへらへらと笑いながら。

 「ちょっと待ってね。舞姫ちゃんをからかうのもおもしろいんだけれど。とりあえずその前に、この子うるさいから黙らせるから」

 「……何をするの?」

 姫ちゃんが円居愛の体を掴んで、その長身をあやすように揺する。目には困惑と、それから深い絶望が浮かんでいた。

 絶望。 

 この兄の手にかかってしまった以上、赤子はもう助からないと、そんな思いが窺えた。

 「やめて。……やめてよ」

 「まぁまぁ忍。こんなうるさいのがいたんじゃ、話もうまく進まないだろう? せっかくこんなスリリングな駆け引きが起こっているんだ、バックコーラスが乳飲み子の声ってんじゃ、ねぇ」

 泣きながら縋りつく妹を、円居愛はどこか煩わしそうに、少しばかり腹立たしげに見やる。首を絞められた赤ん坊は、目玉がとび出さないまでに目を見開いて、舌を吐き出しそうに口を開いていた。

 「お、おい。てめぇ、それマジでやってんの……」

 「……ねぇ。やめてよ。お兄ちゃん」

 悲しげに、寂しげに。搾り出すような声で、姫ちゃんが懇願する。

 「お兄ちゃん、優しいでしょ。わたしの優しいお兄ちゃんでしょ? だったら何でそんなことするの? どうしてわたしのお願い、聞いてくれないの?」

 眉を顰め、頬を歪め、瞳を強い苛立ちに濁らせる円居愛。

 「ねぇお兄ちゃん。お兄ちゃんはそんなんじゃ、なかっちゃはずだよね。こんなことするの、お兄ちゃんじゃないよね」

 「うるせぇな!」

 足に縋りつく姫ちゃんの腹を、円居愛は力の限り蹴飛ばした。華奢な体はいとも簡単に、喫茶店の床にしりもちをつく。

 「おまえは黙って見ていろよ! 僕の邪魔をするな。僕の意に沿わないことをするな! 分かってんのか!」

 言いながら、円居愛は姫ちゃんの頭に足の裏を何度も振り落とす。姫ちゃんは抵抗もなく、頭を何度もぶつけながら、床を舐めるように絶え絶えの言葉を吐き出した。

 「……ごめんなさい。……ごめんなさい。……ごめんなさい。……ごめんなさい」

 円居愛は容赦しない。人格が豹変したように、普段の穏やかさの一片も感じられない激しい暴力を、妹に向かって何度も加える。その表情は、苛立ちと困惑と、陶酔するよう名愉しさに塗られているように見えた。

 「……ごめんなさい。……お願い、何でもするから。何でも言うこと聞くから赦して。その子を殺さないで。何でもするから……」

 姫ちゃんがそういうと、円居愛は愉快そうに、満足そうに、姫ちゃんを蹴飛ばす。

 「何でもするってか」

 円居愛は頬を歪めながら呟いた。

 「おまえのことだから、それこそ本当に何だってしてくれるんだろう。……おまえのそういうのが気に入らないんだ。自分のことを顧みないで、まるで人間のなりそこないみたいに、ひたすらに優しいところ」

 机から這い出したしのぶちゃんが円居愛に飛び掛り、その頬を思うさま殴り飛ばす。円居愛は避けようともせずその拳を頬で受け止めると、赤子を取り落としながら床に転がった。

 「……あんた、いったい何がしたいんだ?」

 赤子を受け止めながらぼくが言う。円居愛はへらへらと笑うだけで、ぼくの次の言葉を待っているようだった。

 「結局、あんたはこいつの泣き声なんて、本当はどうでも良いんじゃないか?」

 姫ちゃんの後ろを付けていた時にも。

 姫ちゃんの机の中にヘビを入れた時にも。

 ぼくの姫ちゃんへの手紙を裂いた時にも。

 口にした通りの理由なんか、あんたのどこにもなかったんじゃないか?

 「……あはは」

 不気味に笑って、円居愛は吊り上げられるようにして立ち上がる。

 「理由なんてありません。目的なんてありません。ただ、むしゃくしゃしてやりました。って、こう言ってみれば君は満足するかい?」

 「……しませんよ」

 ぼくは肩を竦めた。

 「あなたのことで、ぼくが不満や満足を抱いたりしません」

 「……手厳しいな」

 円居愛はへらへらとして笑う。

 「……好きだったのにな。君のこと。悲しいな、そんな風に言われると」

 そういう円居愛に、ぼくはただ首を振るだけだった。

 「……お兄ちゃん」

 「安心してよ忍。きっともうその子を殺そうとしたりなんか、しないから」

 円居愛は優しげな表情を浮かべて、ポケットの中に手を入れて、中から黒っぽい金属を手の中で弄ぶ。

「……おい。それって」

 悪戯っぽく微笑むと、円居愛はそれを姫ちゃんの前に放り投げた。

 「……これは?」

 「仲間の一人がくれたんだ」

 誇るように、円居愛は語る。

 「使いどころがあるようには思ってなかったんだけれどね。なんかほら、おもしろカッコ良いじゃないか。だから貰ったんだが、ちょっと手にとってみておくれよ」

 兄に言われるがまま、姫ちゃんはその黒い金属におずおずと手を伸ばした。

 「……拳銃?」

 呆けたような顔をする妹に、円居愛は裂けるように笑った。

 「回転式のハンドガンで装弾数は六発だったか。まあ良いや。とにかく忍、君にやってもらいたいのはあれだよあれ。ロシアンルーレットって言う奴」

 裂けるような笑みを浮かべて、円居愛は言う。

 「準備はもう完了している。ただ自分の頭に撃ってもらうだけさ。一発撃てればお友達をみんな助けてあげる。三発撃てれば地下にいる人をみんな助けてあげる。五発撃てれば、地上階の人をみんな助けてあげる」

 「本当なの?」

 姫ちゃんの顔が急に明るくなる。

 おいおい、何嬉しそうにしているんだよ。

 「お兄ちゃんが約束を守らなかったことがあったかい? きっと、行ったとおりにしてあげるよ」

 慈愛に満ちた表情を浮かべる円居愛。すると、姫ちゃんはどこかぎこちない手付きで、躊躇なく自分の頭に拳銃を突き付ける。

 「……ふふう」

 目を瞑り深呼吸をする姫ちゃん。

「大丈夫。大丈夫です。わたしはこれまで、ずっと良い子にして来たんだから……。だから大丈夫」

 ぐりぐりと、震える拳銃を自分のこめかみに突き当てる。

「だから、たとえ死んじゃっても、きっと大丈夫」

 目を見開いたその時には、姫ちゃんの手からは震えさえ消えていた。

 ぼくはすぐに動いた。

 「バカ言え」

 赤子を机に放り出し、ぼくは姫ちゃんから銃を引っ手繰る。戸惑うように目を見開く姫ちゃんの頭に、グリップを力の限り叩き落した。

 ガコン! と子気味良い音。その場に悶絶する姫ちゃん。頭を抱えて、涙を浮かべてこちらを見る。

 「痛い。何をするの」

 「何をするのはこっちの台詞だよ」

 殴りつけてしまったのはわざとじゃない。思いっきり衝動に身を任せてのことだ。

 というか言っちゃうけど、ぼくは姫ちゃんに、一度こうしたかったんだと思う。きっと。その権利がぼくにはあるだろう。

 「へぇえ。歩君、君も随分と人間らしい行いをするじゃないか。恋は盲目って言うけれどさ、どう? 思い知った?」

 「うるさい」

 言って、ぼくは円居愛に拳銃を突き付ける。

 「何のつもりだい?」

 円居愛はあくまでも飄々と、余裕の態度を崩さずに肩を竦める。

 「僕を殺しちゃったら、助かるチャンスがなくなってしまうと思うんだけど」

 「あなたと同じ空間に生きてるより、ずっとマシです」

 そう、ずっとマシだ。

 こいつと同じ空間で、こいつに支配されて暮らすくらいなら。

 「こうするって決めていたんですよね。ぼくは」

 「……アユムさん、何を?」

 「姫ちゃん。ごめんね、ぼくはまた君のことを傷付けてしまうらしい」

 それでも。きっと君は、ぼくのことを嫌いになったりしないんだろうね。

 その時ぼくは、はたして君の傍にいることができるのだろうか。

 「本当に撃つ気?」

 「ええ。後のことはその時考えます。それでは」

 そう言ってぼくは、円居愛の頭に拳銃を突き付けて、素早く引き金を引いた。

 カチカチカチカチカチ。カチ。

 「…………」

 六発撃った。

 全て空砲だった。

 というかこの拳銃、どう見ても装弾数は五じゃねぇかよ。六発入るホーススペシャルなんてこの世にない。何ていい加減な奴だ。これを姫ちゃんにたせたら、確実に弾が出るじゃねぇかよ。

 壁に背を向けた円居愛は、へらへらとした笑いを浮かべる。

 「あはは。僕が妹に拳銃なんて危ないおもちゃを与える訳ないじゃないか」

 愉快そうにそう喚いて、呆然とするぼくから拳銃を取り上げた。

 「妹の仕返しだ」

 言って、円居愛は拳銃のグリップをぼくの頭に思うさま叩きつける。

 ぼくが姫ちゃんにやった時とは比べ物に成らない鈍く大きな音が鳴った。頭蓋骨にグリップの角が突き立ったような気分で、ぼくはそのあまりの痛みに喫茶店の床に倒れ付す。

 「あはは。この拳銃はモデルガンさ。さっきおもちゃ屋に行った時にさ、なんか格好良かったから買っちゃたんだよ。いやしかし歩君。驚いたよ、まさか君が、妹の前でこの僕を撃ち殺そうとするなんてねー」

 言いながら、円居愛は大事そうにポケットに拳銃をつまえこむ。モデルガンを買うのは良いとして、それを持ち歩くというのはどういう神経だ。

 「ふざけやがって」

 しのぶちゃんが歩いて来て、円居愛の胸倉を掴みあげた。

 「別に銃を使わなくたって、おまえを殺すことはできるんだぜ?」

 「それは怖い。それは実に怖いねぇ。……勝てると思う?」

 挑発するように、円居愛。

 「君は優しいからねぇ。増して、僕を殺すということは、このデパートの中のほとんどの人達を、見殺しにするっていうことだよ? いくら君に体力があるって言っても、そんな迷いだらけの暴力で、バスケ部のワイルドホープを殴り殺せると思うのかい?」

 「うるせぇ帰宅部」

 「今はそうだったかな? いやぁ生徒会の仕事とか受験勉強とかで忙しくって。こんなんじゃちぃっとストレスがたまり過ぎて、デパートの爆破くらいやっちゃったってしょうがないよね? マスコミのみんなそう言ってくれると思わない? 『爆弾魔少年、心の肖像』なんて本が出て、ベストセラーになっちゃったりしてね? そう思わない?」

 「それが、おまえの望みか?」

 へらへらと、円居愛は頷いた。

 「ああそうだよ。意味なんてないのさ。ただ目立ちたいんだよ」

 「ふざけんな」

 言って、しのぶちゃんは胸倉を掴んだまま円居愛を殴りつける。

 やはり円居愛は抵抗をしない。訝しげな表情を浮かべつつ、足を引っ掛けて円居愛を床に押し倒す。

 「……しのぶちゃん。ダメだ」

 「何言ってんだ」

 しのぶちゃんは円居愛の頭を持ち上げて、床へと叩き付ける。「うげっ」目を回す円居愛に、しのぶちゃんはそのまま幾度となく拳をぶつける。中学時代は喧嘩ばかりしていたというしのぶちゃんの、馴れた硬い拳だった。

 「てめぇ。さっさと爆弾を止めろ。じゃなきゃ、このままおまえを絞め殺す」

 「それは無理な相談だね」

 円居愛は余裕の笑みを浮かべた。

 「だって、このデパートにはもう使える爆弾なんてないんだもの」

 けろりと、円居愛はそう口にして見せた。

 「……へ?」

 一人呆然とするしのぶちゃん。そこに畳み掛けるように、円居愛は企むような笑みを浮かべて

 「だいたいさ。ネットで集まった有象無象、面識こそあれ信頼関係も結束力もない烏合の衆。全員が全員自分の仕事を果たして所定の場所に爆弾を配置するなんてこと、できる訳がないじゃない?」

 「……だったら」

 「かれこれ長いこと爆発音がないよね。予定通りなら今頃爆弾全部起動してなくっちゃいけないんだよねー。まー、多分だけど、もうまともに起爆するのはないなぁ」

 「……それって、本当……?」

 「しのぶちゃん!」

 やめろ。

 その男の言うことに耳を傾けるな。その男はそれだけ望んでる。その男に少しでも反応を示せば、そのまま何をされてしまうか分からない。

 「お兄ちゃん」

 床で震えていた姫ちゃんが、搾り出すように声をあげた。

 「しのぶちゃんに……何をするつもり?」

 そう言われた時に、円居愛は酷薄な、裂けるような笑みを浮かべて姫ちゃんを振り向いた。

 「ねぇ忍。この子のこと。もしかして僕よりも、好きかい?」

 こくん、と。

 姫ちゃんは何の躊躇も疑いもなく、兄からの問いに、素直な回答を示したのだった。

 「そっか」

 円居愛は笑った。笑って、しのぶちゃんの腹に銃を突き付けた。

 「――――!」

 銃声。

 しのぶちゃんからたくさん真っ赤が飛び跳ねてぼたぼた床に飛び散った。だくだくと水道蛇口が水を吐き出し続けるみたいににしのぶちゃんから液体が広がって行く。内臓を潰された芋虫みたいに、血液を撒き散らしながら狂ったようにのたうち始めた。

 「まぁ。撃ったのかお腹じゃ、きっと苦しむよね」

 馬乗りになっていたしのぶちゃんから浴びた血液を、ばっちぃとでも言いたげに振り払いながら、淡々と立ち上がって円居愛は言う。

 「さてと。いい加減に遊び飽きたところだな。僕だって才能あって将来有望な若者だから、こんなことで捕まりたくはない。爆弾の残ってないっつーのは嘘だし、この様子じゃ死者も増えるだろうし、僕はもう十八歳な訳から、多分死刑だし。証言者はみんな殺さなくっちゃな」

 ねぇ、と円居愛はぼくと姫ちゃんの方を向いた。

 「銃は残念でした、本物だよ」

 「……言われなくても分かる」

 「そうだねぇ。しかし歩君、君は偉く冷静だねぇ。まるで、何か確信したみたいな」

 「……そうですか」

 どうやらぼくは自分の感情さえ人任せにしてしまえる性質らしい。この男が酷薄な人間未満だというなら、それはぼくにも言えることなのだろう。

 「まあ良いさ」

 くっくと、円居愛は勝ち誇ったように笑う。

 それはどこか、寂しそうで、名残惜しそうでもあった。

 「最後に。忍。君がどれだけ人間のできそこないだったのか……君がどれだけ良い子にしていたのかを、テストしたいと思う。良いね」

 円居愛は微笑みを浮かべて、ポケットから二挺目の拳銃を取り出して、姫ちゃんに向かって放り投げた。

 「今度こそ弾が入っているよ。ロシアンルーレットだ。やってみろ」

 にこりと笑って円居愛は言う。

 「こっちの拳銃で証言者を全て殺し終えた後、僕はおまえの渡した拳銃でまったく関係ない人を殺して回ることにする。その人数を、おまえが自分に向かって撃った回数だけ、差引いてあげる。分かるね?」

 「……お兄さん」

 「前から言おうと思っていたのだけれどね。君、お兄さんは止してくれよ」

 円居愛は人懐っこい笑みを浮かべた。

 「僕を心配してくれているのかい? でも妹が僕を撃つなんて天地が翻ってもないじゃないか。それとも、僕に妹をいじめるのを、やめて欲しいっていうのかい? 悪いけど、ほら」

 言って、円居愛は姫ちゃんに拳銃を突き付ける。

 「妹から銃を奪ったりしたらこうだよ。僕は素敵なものは妹の分を合わせて二つ買う主義なんだが、その銃を二つ合わせれば、君の動きをこうして封じながら妹と遊ぶこともできるって訳だ。素晴らしいと思わないかい?」

 傑作だ。

 拳銃を突き付ける先が、ぼくじゃなくて姫ちゃんなあたり、本当に傑作だ。

 「僕はこの子だけは助けてあげるつもりだよ。ああ。せっかくここまで丹誠尽くして育てたかわいい妹なんだ。一生手放せるものか。一生手元に置いて可愛がってあげるのさ。ここを生き残ればだけれどね」

 「…………」

 「それとも何かい? 妹に代わって君がこれをやってくれるのかい? その場合は君には最後の一発だけになるまで撃ってもらうことになるけれど、良いのかい?」

 「……冗談ですよ」

 ぼくは嘲笑した。

 円居愛。おまえは本当に、救いようのない男だよ。

 かわいそうに。

 「あははははは。やっぱりね。君だって真実忍のことを愛している訳じゃないんだ。この子を本当に愛しているのは、世界でただ一人この僕だけ。……この僕だけなのさ」

 円居愛は促すように姫ちゃんを見やる。

 姫ちゃんは緩慢な動きで、唇を震えさせ、床の方を向きながら拳銃を持ち上げた。

 「さあてね。忍、一発も撃たなくたって良いんだよ。お兄ちゃんが赦してあげるよ。おまえが撃ちたいだけ撃てば良いんだ。おまえはずっと良い子にしたいたね。だけれどね、忍、おまえはちょっと、他の誰よりも自分を選ぶことを覚えた方が良い」

 と。円居愛が最後に言ったその言葉だけは、真に妹を愛する兄の言葉だった。

 だが。

 「…………?」

 円居愛は信じられないものでも見るように、姫ちゃんに向かって竦みあがる。

 持ち上げられた拳銃は、姫ちゃんのこめかみではなく、円居愛に向けて突き付けられていた。

 「……何のつもり?」

 「死んじゃえ」

 カチリと、姫ちゃんは引き金を引いた。

 「死んじゃえ。死んじゃえ。死んじゃえ」

 カチ、カチ、カチ。と、姫ちゃんはさらに三発の引き金を引く。

 円居愛の顔が、困惑と恐怖と、絶望に染まる。世界で唯一つ絶対に信じていたものに裏切られたような、受け入れがたいものを見るような表情だった。

 「……そんな」

 最後の一発、姫ちゃんは円居愛の頭のあたりに狙いをつける。

 円居愛は絶望し切った表情で、この世界中のあらゆるものに疑問をぶつけるような叫び声で、喚く。

 「あり得ない! ある訳が……。だっておまえが……おまえが僕を殺そうとするなんて、そんなこと絶対にある訳が――――」

 ダメなんだよ。

 あんたはしのぶちゃんを殺そうとした。しのぶちゃんの腹に向かって発砲した。

 それだけは、そういうことだけは、この子の前でしちゃダメなんだよ。

 「やめろ。おまえが、そんな目で、僕を殺そうとするのは、絶対に――――――」

 最後の引き金が引かれた。


 「……姫ちゃん?」

 銃を降ろし、穴の開いた腹から血を流し続ける親友と、自分自身に銃を向けた兄を順番に一瞥し、最後にぼくの方に視線を固定させる。

 姫ちゃんは泣いていた。

 何か言葉を口にしようと思っているのだろうことは理解できた。わなわなと唇を震わせて、縋るような声で言葉にならない呟きを漏らしている。

 赦しを請いているように、ぼくには見えた。

 「……大丈夫だよ」

 ぼくは姫ちゃんを正面から抱いて見せて、それからそっと拳銃を取り上げる。

 姫ちゃんは涙を流し続ける。

 そのいとまに、「ごめんなさい」という、消え行くような言葉が聞こえた。

 「大丈夫だから。君が失ったもの、全部取り戻すから。だから、今は笑って」

 言うと、姫ちゃんは泣きながらぼくを正面から見据えて、何かが裂けるような笑みを浮かべた。

 「そうだよ」

 ぼくは笑い返した。

 「それで良い。眠れ」

 言われたとおり、成すがまま。姫ちゃんはぼくの体にしがみ付いたまま、どこか拗ねたような寝息を立て始める。

 姫ちゃんをその場で寝かせ、ぼくはふらりと立ち上がる。血を吐いてもがき続けるしのぶちゃんの姿を、自分でもぞっとするほど冷静な心で見下ろした。

 保健体育の授業で習ったことを思いながら、即席の道具で応急処置を試みる。発見される時間によっては或いは、と言ったところだろうか。

「……アユム」

 搾り出すような、しのぶちゃんの声がした。

 「ご苦労様」

 「あたし……死ぬのかよ?」

 「大丈夫だよ、しのぶちゃん」

彼女には是非生き残ってもらわねばならないと至極打算的に思考して、それからぼくは言った。

「今この瞬間に生きているんだ。すごいことだろ。だから君は後百年死なない」

 酷い理屈だったが、どうしてか自分で納得してしまう。人は儚く死ぬとか何とか、実際に死んだ奴に対してだけ言うべきことだ。

 「……けらけら」

 と。

 いつの間にか止んでいた赤子の鳴き声が再び響くと同時に、円居愛のせせら笑う声が喫茶店に響いた。

 彼は生きていた。

 「……失敗だった。何もかも失敗だった」

 「そのとおりですね」

 ぼくは答えた。

 最後の最後まで、この男は妹に弾の入った拳銃を渡そうとはしなかった。それは自身の保身の為でもあったのだろうけれど、弾の入っていない拳銃にその魂まで打ち砕かれてしまったのでは、ざまあない。

 「あなたのこと。人間として終わってるとは思いますけど、そこまで大嫌いだとは思えなくなりましたよ。人の相手にされようと色々する癖、実は何も考えてないあたり」

 「歩君は優しいね」

 蛍光を掴み取るように天井に手をかざして、円居愛は言った。

 「まーでもですよ。あなた、ネットで作ったっていう爆弾魔グループには見捨てられたみたいなもんですし、学校じゃさぞかし嫌われ者って感じでしょうし、社会的には全てのものを失ったといった具合ですし、唯一相手して貰えてた姫ちゃんには死ねとまで言われちゃったし。はっきり言って破滅じゃないですか?」

 「……ぶっちゃけ。どうでも良い」

 円居愛はどこか寂しそうに言った。

 「何でも良い。僕は早く死にたい」

 うん。それはそうかもね。

 「ぼくに殺してくれって言うのは無しですよ。あなたにはそれだけの価値もありませんから。それとも、ロシアンルーレットなんかしてみますか?」

 「冗談言え」

 円居愛はくすくすと笑った。

 「じゃあどうするんですか? お兄さん。円居愛さん。あなたまだ偉大なる未成年で在らせられる訳だし、グループでの犯行だった訳だし、温情処置でもしかしたら死刑免れちゃうかもですよ。その時は、どうする気で?」

 「知らんよ」

 円居愛は目を逸らすように乱暴にそう言った。

 「なーんも知らん。何を隠そう僕は何にも考えていないんだ。知らない知らない」

 積み木を壊すようにデパートを爆破させておいてから、円居愛はふざけた風もなくそう口にした。まったく持って性根っから腐りきった奴だった。

 ……まあ。突き詰めて言えば、ぼくだって同じようなもんだが。

 「……あのですね。お兄さん、円居愛さん」

 ぼくは肩を竦めてから、だらだらと喋り出す。

 「これはぼくにはとてもその気力が無く、しのぶちゃんには難解で、姫ちゃんにはそういう感覚がまるでなかったから、全然できっこなかったことですが。ふつう、人は、どんなにつらくてもしんどくてもどんな犠牲を払っても、人に好かれるには好かれるだけの価値がある人間になるものです。できなきゃ根暗です、底辺でぼっちでダメ人間です。蛇蝎の如く忌み嫌われて唾を吐かれて肥溜めに落ちて死ぬ運命です。でもあなたはぼくらなんかと違って、実力と才気に溢れる将来有望な若者でしょう? ちょっとは人に好かれるよう、がんばってみりゃ良いじゃないですか?」

 嘲るようにぼくがそう言うと、円居愛は拗ねたようにそっぽを向いたまま、暗く、か細く、肉親に大切なことを訊く小さな子供みたいな拗ねた声色で、ぼく尋ねた。

 「……僕にできるのかな? それ」

 「ぼくは無理だと思いますよ」

 ぼくはすごく正直に思うところを話した。

 「あなたの場合、マイナスからのスタートに過ぎますからね。まあ応援だけはしますから、せいぜい無様に無駄な努力をしてください」

 「……分かったさ」

 円居愛は言って、それからかちゃかちゃとした動作でその場を立ち上がると、ぼくに向けて親指を立てて見せた。

 「そんじゃ僕はここを逃げて姿をくらます。いつか会おう。……歩君、僕は君のことが好きだよ」

 はきはきとそう言って、円居愛はホールの方へ飛び込んで行った。もしかしたら、ぼくらは知らない出口を知っているのかも、知らないのかもしれなかった。どちらにしても、ここにじっとしているのは得策ではあるまい。

 「……ふざけた野郎だ。きっとぼくより幸せにはなるなよ」

 一人で呟く。

 ぼくはポケットに手を突っ込み、この二年間どんな局面においても糞の役に立たなかった催涙スプレーを取り出して、どこかその辺に放り投げた。

 ぼくがこいつを持っていたことを知るのは、ホームセンターの店員の他には、円居愛を数えるのみだ。瓦礫の中に封印してしまえば誰にも分からない。そして、誰にも分からなければ、それで良いしそれまでなのだ。

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