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二章

 何だよその名前。

 自分で嫌う要素が見付からない。あまり頭の良さそうな子ではなかったから、ひょっとしたら苗字の漢字が書けないのかもしれないとか考えてほくそえむ。流石にそれはないか。

 どことなく円居さんと関係のありそうな子だったし、しのぶという下の名前は咄嗟の嘘だろう。咄嗟に出たのだとしたら無理があるので、久重里は本当の苗字。名前の方に何かあるに違いないとか思いつつ、いい加減に考察を進める。

 すぐにやめた。

 分かる訳がない。

 円居さんとしのぶちゃんを並べて絵を描いていると朝になったので、ぼくはすぐに支度を始めた。とてもかったるい。昨日はちょっと、ひさしぶりに激しい運動をしすぎたのだろう。

 後のことはやっておいてくれると言ったしのぶちゃんなのだけれど、ぼくが指定したいじめっ子女子達を、ちゃんと後ろからぶん殴ってくれたらしい。そんな噂を耳にした。ちなみに、下駄箱の中の虫達については、それは円居さん本人の仕業と言うことになったらしい。「あれやったの、おまえ?」と誰かに訊かれて、「へ? ……ああ、うん。そうです」と、本人が歯切れ悪く答えていたのだから確かだ。

 教室での彼女のイメージは完全に固定されてしまったことだろう。それについてはすまないと思うのだけれど、あえて自分から名乗り出すことはしなかった。円居さんが自分から復讐したということになれば、いじめっ子集団もこれ以上円居さんに手は出しにくくなっただろうから。

 これでぼくの願いの内、半分は叶えられたことになる。

 とりあえず、教室の真ん中の席で、周囲に遠慮するように携帯電話を操作する円居さんの、彼女なりに平和な姿が見られて良かった。

 綺麗な顔にはまだ、痣や擦り傷が剥き出しで。白い手足も観察すれば傷だらけなのだけれど。まったく下手糞なやり方だと思う。ぼくが小学生の時のいじめっ子の方が、まだしも上手かったぞ。

 あれと同じだけの痛みを、いじめっ子全員に味わわせてあげたいのだけれど、しのぶちゃんとの約束があるのでそうもいかない。

 ぼくがしたことは、円居さんを守る行為ではなかった。それは復讐であり、言い換えれば子供の仕返しだ。もっと単純に言うなれば、腹が立って殴りかかったという、それだけに過ぎない。

 図らずも彼女が陰湿ないじめから解放されたのであれば、それはそれで良いことだ。

 やっぱり、彼女は広い教室に一人きりなのだけれど。まあ、あの子のことだから。ぼくが何をしようと、同じような状態になったともいえる訳だけれど。結果として、ぼくが彼女に孤独を与えたことに変わりはない。

 大きな集団の中で感じる孤独ほど、つらい孤独はないのだから。それを彼女に与えてしまった、ぼくはきっと、やっぱり、彼女に一番害を成した人間だ。

 そして、そのぼくが教室の中でどのようなポジションに落ち着いたのかと言うと、クラスの小間使いだ。

 「パン買って来て」と言われればおつりをごまかし、「ジュースを買って来て」と言われれば缶をへこませて持って来る。そのたび殴られ罵られ、そんな無能な使いっぱしり。

 しかし連中も、人をバカにしたら、手痛いしっぺ返しが待っているかもしれないことを、円居さんの件で学んでも良さそうなものである。

 まあ、ぼくに限ってそんなことはない。できるのはただの陰湿な仕返しだ。

 その日、女の子達に言われて数点のパンとジュースを買いにいかされていた帰りだった。ぼくは閉まっていた家庭科室の窓を壊して、中に侵入した。それから床に落ちていた裁縫針をいくつも拾い上げ、レーズンパンの中に次々刺し込む。危険だが、針の頭は露骨に並んで見えているので、これを飲み込んだりするのはよほどの間抜けだ。

 我ながら、根暗で陰気で後先考えない仕返し行為だ。まったく、自分で自分に呆れてしまう。

 それから外に出て、中庭に煙草の吸殻を発見する。拾い上げて、ペットボトルの中にたっぷり粉を落とす。そして何度か振る。こっちは一口くらい飲んでもらおうというのだ。ふふふ、楽しみだぞ。

 「何をしているんですか?」

 後ろから声がかかって、小心者のぼくはそれに竦み上がった。

 「……円居さん?」

 昼休みは一人で部屋でサプリメントを食べている彼女が、そうしてこんなところにいるのだろう。考えて、それからぼくは彼女から目を逸らした。

 ぼくは彼女に、失恋をしたのだ。

 そう自分に言い聞かせる。

 「どうして、目を逸らすんですか?」

 そう訊かれた。ぼくは逃げ出した。

 「待ってください!」

 等と言っても、逃げ足はぼくは速いつもりだ。がんばって走る。勝てそうな気がする。やった、などと思っていると、何もないところで足を取られて転んだ。

 間抜けすぎる。きっと焦っていたのだろう。

 「大丈夫ですか?」

 心配そうにぼくを抱き起こす円居さん。頬は赤くって息を切らしている。可愛いなぁ、ものすごく。本当に目に毒だ。

 そんな状況に、彼女の息遣いに、ぼくのことを思いやるその行動に、ぼくの胸は高鳴った。そして、ぼくは本当にこの子が好きなんだなぁと、そんな当たり前のことを思う。

すると途端に、情けない涙が溢れて来た。

 「どうして、泣くんですか?」

 疑問と、自分にどうにかできないか、という純粋な好意の詰まったその声。

 きっと彼女は、泣いている人を見ると、誰にでもこんな言葉をかけるのだろう。それがどれだけ傲慢なことなのか、この無邪気な彼女には分からない。

 でも、良いのだ。

 それが円居忍という、ぼくの好きな女の子なのだ。

 この子のことを、ぼくは世界で一番好きなのだ。一番好きなこの子のことで、失敗してしまったのだ。

 「転んだから」

 ぼくは答えた。

 「嘘です」

 円居さんは言った。

 「嘘を付くのは良いの。それが、あなたの為になるんだったら。でも、偽っている自分が分からなかったら、あなたはきっと、堕ち続けるだけよ」

 その言葉に、余計に涙が溢れた。

 君のことが好きだ、と、言いたかった。

 けれどそれは、失恋だとか、何だとか、そんなことを考える以前に、ぼくには絶対に言えない、言っちゃいけないことで。

 ぼくは泣きながら、赤子のように口にした。

 「ぼくは君に、酷いことをした」

 「そうです」

 円居さんは頷いた。

 「だから。わたしを見ているのが、つらいんですか?」

 「つらいよ」

 だから逃げ出した。

 「わたしは赦すと言いました。伝わらなかったのなら、もう一度言います。あなたは、悪いことをしたけれど、わたしはそんなの、気にしてないよ。赦してあげる。だって、あなたは赦されるべき人だもの」

 「ダメなんだ」

 そんなことを言うから、ダメなんだ。

 「嬉しくないんですか?」

 心からの疑問。

 そう、この子はこういう子なのだ。そしてこの場合、おかしいのはぼくの方。

 「嬉しいよ」

 「だったら。その嬉しいのを受け入れましょう。嬉しいことから逃げちゃダメ、戦うのは一番ダメ。どんなことでも、受け入れて、好きになるの」

 「君はそうして、痛いことも、苦しいことも、受け入れているのかい?」

 「はい」

 円居さんは、どこか物憂げな表情で答えた。

 「憎んでいないのか? 君にあんな仕打ちをした連中、嘲った連中、救わなかった連中。このぼくを、一瞬でも憎んでいないのか?」

 「……良く、変わってる、って言われるの」

 頷いてからそう言った表情は、どこか寂しげであった。

 「おまえは人間のできそこないだって、そこまで言われることもある。でも、わたしは誰のことも憎みたくないし、嫌いたくない。だって、皆が皆を好きな方が、幸せ。そうしょう?」

 「……そうだね」

 それはきっと、正しすぎる程正しいことだ。

 「でも。悪い感情は自然に沸いて来るものさ。君をいじめた奴らも、ぼくも、心の中にそういうのを発生させる、制御の利かない装置を持っている」

 「悲観は自然的です」

 円居さんの表情が明るくなる。

「けど、楽観は意思的なもの。笑おうと思えば、どんな時でも、笑えるよ。開道かいどう君」

 お花畑のような、なんて皮肉を込めて表現したくなるような、そんな円居さんの笑顔だった。

 「……ねぇ。円居さん」

 「何ですか?」

 ぼくはへらへら笑いながら言った。

 「苗字嫌いだから、呼ばないでくれない?」

 「うん。分かったよ」

 そう言った円居さんの表情は、今までで一番魅力的だった。


 「ところでさ。あのいじめっ子連中が君の携帯電話覗き込んで、不愉快な顔をしていたけれど。あれは何だったの?」

 「お兄ちゃんが、虫とか殺したりした画像を時々送ってくるんだ。それを見られたんだと思う」

 何て兄貴だよ。

 「つまり。パターン1が正解か」

 「パターン1?」

 「気にしないで。それで、その画像はやっぱり削除している訳だ」

 「ううん。せっかくわたしに送ってくれるからには、意味があると思うの。だから、削除なんかしません。お兄ちゃんに怒られるのも嫌だし、ちゃんと一つずつ見てるよ」

 さいですか。

 「そのお兄ちゃん、というのはどんな人物?」

 「見ますか?」

 携帯電話を取りだす円居さん。写真、あるんだ。 

 「是非に」

 「すっごく格好良いですよ」

 自慢の兄ということらしい。待ち受け画面に設定されていた。

 どんなブラコンだ。

 これはこれでジェラシー。なんて、何言ってんだ俺。

 「確かに綺麗な人だね。君に似ているかも知れない」

 最初に見た時、気付いているべきだった。

 「わたしと違って、すっごくできが良いんです。学校は県で一番良いところで、生徒会長で、運動もできて」

 それはすごい。その写真に唾でも吐いてやりたいほどだ。

 などと、円居さんと楽しくお喋りができるのも、席替えの結果隣同士の席になれたからに他ならない。

 席替えの際、担任の先生は生徒の自主性を尊重したいとか頭の沸いたことを言い出したので、生徒は好きな人同士で同じ席になろうとがんばった。実力者が無言のまま、そうでないものから席を取り上げる、という図式である。そのあたり、このクラスの粗野なところが現れている。

 その中で、ぼくは元の位置を絶対に譲らないぞと、皆から文句を言われながら岩のように構えていた。人に言われて移動なんぞしたところで、行った先でまたしても変なところに飛ばされることになるのはやむをえない。

 嫌なことは嫌だという。円居さんから教わったことである。

 でもその円居さんと言えば、誰かに言われて、或いは言われる前から席を移動させ続ける。自分の希望というのも、これと言ってないのだろう。あったとしても、友達と一緒にいたいという人達の邪魔をしてまで、通すわがままではない訳だ。

 そしてもちろん、好き好んでぼくの周りに集まる人もいない。せっかく与えられた使い走りの役割も、飲み水を全て泥に変えたり、サラダに雑草を混ぜたりなどの気の利いたサービスも通じず、残念なことにクビになってしまった。

たとえ最後尾の席であっても、他があるならぼくの隣になど来たくはないのだろうか、知らないが。円居さんは奇跡的に、或いは必然的に、ぼくの隣の窓際最後尾の席に腰をかけることになった。ぼくにとっては、一晩中神に感謝したいくらいの幸運だと言える。

 サプリメントをぼりぼりと、リスのように頬に押し込みながら食べる円居さんを観察しながら、ぼくは至福の気分であった。この子、食べているところを人に見られたら、その隙に殺されると思っていそう。きょろきょろと、少し歩くたびに首を捻って周囲を見まわしたり、この子、ぼくと同じか、それ以上に周囲に怯える仕草が多いんだよな。

 「何を考えているの?」

 おずおずと声をかけてくる円居さん。ぼくは言葉を選ぶこともせずに、端的に答えた。

 「どうしてサプリメントなの?」

 「何でだろう?」

 円居さんは首をかしげた。

 すごい哲学的で難解な問いでもぶつけられたみたいな、そんな表情である。

 「じゃあアユムさんは、どうしてそのお弁当を食べるの?」

 ぼく糊弁当を覗き込みながら、神に疑問を返すような円居さん。

 ちなみに、アユムさんというのはぼくが指定した呼称だ。苗字と同じく名前も大嫌いなのだが、ならば適切なあだ名も見付からず、結局名前で呼んでもらうことになったのは良いけれど、アユム君なんて呼ばれたら照れ臭い。そういう思考を辿った結果の、着陸地点がこの呼称。

 「安くて美味い」

 「でも。お惣菜なんて、体に悪くないですか?」

 カロリーメイトよりマシだよ。

 この子、自分のことには無頓着な癖、人への疑問はのびのび口にして来るんだよなぁ。その全てが相手を思いやったものだから、悪い印象は与えないのだけど。まあ、たまにえぐいことあるけどな。

 「自分で料理ができる訳じゃないし、ぼくの為に料理の時間を割いてくれるような人も、いないからね」

 こんなことを平気で言う。

 だから友達できないんだよなぁ、と苦笑する。そんなぼくらのやり取りに、どこか気味悪がるように耳を傾けるクラスメイト達。何というか、この教室の隅っこだけ、すっかり隔離されてしまった具合だ。

 円居さんには悪いことをしたと思う。この子、ちょっとマイペースで、空気の読めないところはあるかもしれないけれど、本音で向き合ってくれて、とても良い話し相手なのにな。本人がそう意識して立ち回れば、友達だって作れるだろう。

 今となっては、手遅れか。

 「それじゃあ。わたしが何か作って来ましょうか?」

 おずおずと、そして無邪気に、円居さんはそう提案した。

 ぼくはむせた。

 それはもう。このまま死ぬんじゃないかと思うくらい、むせた。

 「……何を言って?」

 「わたし、料理はできるんです。実力は、その、誰も褒めてくれないけど」

 僅かに卑屈な感じがする言い方だった。

 いいや。この子が作ってくれるのであれば、日の丸弁当だろうが単三電池弁当だろうが、嬉々としていただけるつもりなのだけれど。

 「良いのかい?」

 いくら小心のぼくでも、これを逃すつもりにはなれない。

 だってお弁当だよ!

 円居さんの手作り弁当だよ!

 「うん。アユムさんには、色々お世話になっているから」

 「気持ちと弁当はいただく。でもそんなのは、全部帳消しにしておいてくれ」

 全部自分でやったことだしなぁ。

 つーかそもそも動機が不純。改めて御礼を言われたが、釈然としない感じがした。

 ちなみに、円居さんの復讐をぼくが実行したことについては、彼女自身から遠慮しがちに、やんわりとお説教を頂いている。あんな事態が起こるくらいならいじめ殺されても良かった、くらいに思っているらしく、そのあたりやっぱり「変わった子」そして「厄介な子」なのだった。

 それでもこうして、ぼくと話すようになったことを、喜んでくれているのかもしれない。

 流石にそれを訊く気にはなれないが。訊けば素直に答えてくれるだろうけれど。

 「何か好きなもの、ありますか?」

 「塩」

 「分かりました」

 綺麗に微笑む。

 まかせておけ、と言った具合である。


 ごはん。梅干。玉子焼き。ウインナー。鮭の塩焼き。ゴボウのサラダ。リンゴ。

 あれ。ふつうだ。

 などと思ってしまった自分を恥じる。弁当の半分塩でもう半分ごはんででもごはんの上半分塩で良く見ると下半分も塩でできていて弁当箱も塩でできていて、みたいなのを想像しなくもなかったのだが。

 「どうですか?」

 「うん。とても嬉しいよ、如何にもお弁当って感じで」

 「食べてみてください」

 ぼくは頷いて、小さく「いただきます」を口にしてから箸を取った。この挨拶は、サプリメントを食べる時円居さんがいつもそうしているので、ぼくもそうしていることである。

 玉子焼き、しょっぱい味付け。塩を指定しただけある。流石にどれも塩で味付けられている訳ではあるまいと思いつつ、ウインナー。うん、粗挽きのコショウがかかってる。あらゆる食べ物の中で、これが一番好きだったり。鮭、何かソースがかかってる。食す、美味。甘辛い味付けだ。ゴボウのサラダ。心配だった鮭との相性も万全。たんぱく質に馴れた口の中に、良い感じで利く。

 「おいしいよ」

 それにしても、幸せな気分だ。

 生きてて良かったとか心の底からマジで思う。

 なんか泣けてくる。

 「良かった!」

 円居さん、素晴らしい笑顔。

 今までに一度も良い感想を貰ったことが無い、とでも言った具合だ。

 「これから作って来ても良いですか?」

 「それは、実に手間になると思うのだけれど」

 「良いんです。毎日お兄ちゃんとお父さんの作ってますから、同じことです」

 「へぇ」

 それじゃあ今日は、あのお兄さんもぼくと同じものを食べていることになる訳だ。

 何を考えているのかしら。しかしあの兄貴、随分な幸せ者である。今時ライトノベルでもなきゃ、妹に昼食の面倒を見てもらえる兄なんていない。

 「それじゃあ。円居さん、自分の食事はどうするの?」

 「わたしはこれがあるから」

 カロリーメイトを取り出す円居さん。

 今日はチョコレート味。四つの味でローテーションしているので、何と無くカレンダーに使える。

 「……ああ、そう」

 この弁当、勧めるべきかな。

 いいや。彼女はぼくに作ってくれたのだし、これからも作ってくれるのなら、最初の日はぼく一人で食べるべきかな?

 そのあたりは、ぼくにはちょっと分かんないんだけれど。

 「ちなみに。今朝は何を食べたの?」

 まさか、三食カロリーメイトということはあるまい。

 「玉子の殻と野菜の秦です」

 当たり前みたいに答えやがった。

 何てこったい。

 「何か残り物があれば食べるんだけれど。今朝はお兄ちゃんもお父さんも、お腹空いてたみたいで」

 大丈夫か、この子の家庭。

 円居さん自身、自分の生活に何の疑問も抱いていないみたいだからな。妙に突っ込むのも悪趣味だし。

 というかこの弁当、余すべきか?

 余せばこの子は、きっとこれを食べるだろう。けれどしかし、それは彼女に対する冒涜行為に他ならない。

 「……?」

 ぼくが固まっていると、円居さんが心配そうに声をかけて来た。

 「どうしたんですか?」

 「いいや。三囚人問題について、ちょっとね」

 弁当が口に合わなかったのかと思われてしまいたくはない。ぼくは笑顔で梅干を口に運んだ。

 とても酸っぱいが、確かに甘い。

 白ごはんをかき込むことでちょうど良く食べられる感じ。良い梅だな、これ。

 「ところで。円居さん、暇があれば携帯電話触っているけれど、お兄さんから受信する以外に何をしているんだい?」

 ぼくが訊くと、円居さんは一瞬目を丸くして、それからポケットから携帯電話を取り出してこちらに差し出した。

 「アユムさんも、どうですか?」

 「……は?」

 「わたしの友達だから、あの子もきっと大丈夫だよ」

 メール画面を差し出される。新着メールが二件。

 「友達と話をしているのか」

 「ええ。家からほとんど出ない人で、きっと友達もわたししかいないから。だから、アユムさんも、その、彼女の助けになって欲しいの」

 「ふうん」

 知り合って間もない人に、頼むようなことなのか、それ?

 案外、彼女の中で、ぼくとの距離は近いものがあるのかもしれない。そんな都合の良いことを思いながら、ぼくは携帯電話を受け取った。

 送信者の名前は『しのぶちゃん』。

 操作方法は知っている。割とどうでも良いことが書かれているその文章に、ぼくは早速返信する。

 『名前教えて』


 『名前教えて』

 『しつこいわ!』

 と、円居さんの友達でいつかの久重里シノブちゃんは、数秒の間もおかずに返信して来た。画面の向こうでは、きっと顔でも赤くしていることだろう。

 『こんな夜中にメールすんな! つーかどうしておまえがあたしのアドレス知ってるんだよ? 姫の奴が教えたのか?』

 『円居さんの携帯電話に表示されていたのを見ただけだよ。ところで名前教えて』

『うるさいな』

 うるさいと思っているなら返事をしなければ良いのに、思いながら、ぼくはキーボードを叩いてメールを送信。内容はもちろん

 『名前教えて』

 『黙 っ て ろ !』

 文字毎にスペースを空けて来た。文字列全体の面積が高まることで、何というか迫力が増している。ぼくは苦笑しつつも、そのナイスなアイデアを真似っこする。

 『名 前 教 え て !』

 『い や だ』

 円居さんに訊けばすぐに分かることなのだけれど、この子から直接聞き出すのがまた、楽しいのだった。ぼくは相当に愉快な気持ちで、次に何と送ろうか頭を捻る。

 『姫から聞く限りじゃ、ていうかあたしと会った時の印象でも、おまえはそんなお調子者じゃなかったぞ』

 考えていると、しのぶちゃんからそんなメッセージが届いた。目を丸くしつつ、ぼくは端的に疑問を示す。

 『そうかな?』

 『ああ。最低でも、そんな楽しそうに話す感じじゃなかったな。自分の意見を口にしないで、人の表情とか窺って楽しんでる具合でよ』

 『円居さんから聞いた?』

 『まあな。あいつはそんなおまえのこと、好きだって言っていたが。おまえら、ちょっと似てるし』

 ……何だって?

 円居さんはそんなことを言ってくれたのか。好き、というのははたしてどういう意味で? いいや、きっとぼくが望むような意味合いはどこにもないだろう。

 あの子は博愛主義者だから、ぼくのことも好いてくれている。

 そういうことだろう。第一そういう好きでもなければ、しのぶちゃんに伝わったりはしない。

 『まあそんなことは良いよ。名前教えて?』

 『あたしの反応窺って、おもしろがってねぇか? おまえ』

 『正解だよ』

 しばし沈黙があって、そして。

 『あたしは舞姫ってんだ』

 と、そう返って来た。

 『何で話す気になったんだよ?』

 『別に。良く考えれば、おまえに隠している意味ないだろ?』

 と、自らの知性をひけらかすような文章を送信するしのぶちゃん。確かに君に名前を訊かずとも、円居さんに尋ねればそれで済んでしまうのだけれど。

 『良い名前じゃないか。確か、鴎外の作品にもそういうのがあったはずだよ』

 あらすじを聞く限りでは、あまり幸せなお話でもなかったようだが。読んだことがないから良く分からない。

 『何だよ、その鴎外ってのは』

 名前くらい知ってろよ。

 きっと、この子は鴎外を『カモメガイ』と変換したんだろうなと思いながら、ぼくは返信する。

 『ほとんどの鳥類の起源がカモメなのは知っているかい? 鴎外というのは、鳥類の中でもカモメ目に属さない生き物のことを指す言葉で、鴎外の鳥、みたいな使い方をする。舞姫というのは、日本に生息する数少ない鴎外の鳥の一種さ。美しい鳥だよ』

 流石にこのでたらめに騙されてくれたりはしないだろうなと思いながら、ぼくはさらなる返信を待った。待つこと二十秒ほど。

 『へぇ。おまえ良く知ってるな』

 素直な感心が返って来た。鴎外の作品、というフレーズをぼくが使ったことは忘れているらしい。

 画面の向こうで感心するしのぶちゃんを想像する。噴出しそうになる。やはりぼくはあまり性格が良くないらしい。

 『そうかな』

 『いいや知らんけど。あたしが頭悪すぎるだけだと思う』

 それはそうかもしれない。 

 『円居さんとは、いつもこうやって話をするのかい?』

 『そうさだな。中学まではずっと一緒で、まったくの二人きり。それが一番、あたし達には幸福だったんだけれどな』

 『でも、高校で別れてしまった』

 『あたしと一緒のところに来い、って言ったんだよ。けれど、もう甘えていられないからって、姫の奴』

 いじけたような文面。表情も声質も伝わって来ないただのメールだというのに、この子の気持ちなら手に取るように伝わって来る。ある意味では、これはしのぶちゃんの才能であると言えた。

 『前から、円居さんは敵を作りやすかった?』

 『そうだったな』

 『それで、いつも君が彼女を守っていたという訳だ』

 『そのつもり。あたし頭悪いから、喧嘩しかできなかったんだけれど』

 そんなことは、関係が無いと思う。

 友達の為に他人と殴りあうことができるなんて、何と幸福なことなんだろう。円居さんも、良い親友を持ったものだ。

 『もちろん。これからも姫をいじめる奴いたら、殴りに行くぜ』

 『それは頼もしいね』

 『ついでにおまえも殴るけどな』

 その文面に、ぼくは苦笑する。

 捻くれて、不器用で、そして多分頭も悪くて。でも自分のしたいこと目指すところに辿り着いていける。伝えたいことが伝えられる。そんな子に思えた。

 さあ何と返信するべきか。捻くれていると言う意味で言えば、ぼくはきっとこの子の数倍数十倍である。キーボードに指をおき、淡々と文章を作成する。

 『ぼくにできることならするよ。ぼくは円居さんのことが

 指を止める。

 やってしまうところだった。

 恐ろしく油断していた。メールで人と話すのが、こんなに痛快だとは思わなかったのだ。そもそもぼくは面と向かって人と話す時、こうも饒舌になることはできない。増して、ぼくの話し相手となってくれるのは、ぼくの好きな円居さんなのだ。

 円居さんは人の心を開かせる人物だ。あれほど受容性に満ち溢れた人はいないと思う。けれどそれ以上に、ぼくは臆病で、頑なだった。

 『ぼくにできることならするよ』

 そう送信する。ふつうなら、こんな白々しい台詞、ぼくは絶対に口にしない。口にできない。

 ひょっとしてぼくは、話すよりは文章を作る方が、得意なのではなかろうか。そんなことを思った。

 『ねぇしのぶちゃん』

 そう書き込んで、しまった、とそう思う。

 『何だよ?』

 ぼくは円居さんのアドレスを訊こうとして、やめたのだ。少し考えて、ぼくはぎこちなく、一分以上かかってメールを送信した。

 『円居さんの家って、どこ?』


 しのぶちゃんの説明は分かりにくいことこの上なかった。とんちんかんな問答の末、『鳥みたいな屋根のスーパーの、向こうの右のもう一つ向こう』というフレーズで、ようやく円居さんの家の位置を掴んだぼくである。

 今すぐにでも駆け出したいところだったが、まずは文面を作成しないことにはどうしようもない。ぼくは絵を描く時と同じかそれを上回る集中力を発揮して、陰気少年の矛盾と倒錯に塗れた悶々たる思いを、A4用紙十枚に渡って書き綴り、素早く印刷した。

 コンピューターを五年以上に渡って所有しながら、ローマ字入力のやり方も知らなかったぼくであるが、直感と観察でそれはどうにかなった。表示したい一文字が現れるまで、根気良くキーを叩き続けるだけである。それでも手書きより大分早い。しのぶちゃんとの会話もそれでどうにかしていた。

 書き上げた頃にはすっかり朝で、しかも原稿を読み返している内に眠ってしまったので、彼女の家に向かうのは昼下がりの時間帯になってしまった。学校を無断で休むことになったが仕方が無い。念の為メールをチェックしておくと、しのぶちゃんから二通のメールを受信していた。

 『学校行けよ』

 これが二回。

 『円居さんには心配ないって伝えておいて。寝坊しただけだから』

 何度オウム返しの返信をしてやろうかと思ったものか。ぼくはそう送信しておいて、パソコンを落とした。しかし円居さん、ぼくのアドレスを直接訊き出しはしなかったんだな。それはそれで、彼女らしいとも言える。

 いつかのしのぶちゃんのようにパジャマで外出することもせず、ぼくは一応、学生服に着替えて家を出た。

 徒歩で四十分ほどの道のりの間中、ぼくはアスファルトの地面が飛び上がるような、ふわふわとした不安を抱き続けた。いつもならぼくに安心感を与えるはずの曇天も、ただの不吉であるように思える。それでも、ぼくは一度も止まることなく歩き続けた。

 円居さんの家に着く。

 それは豪邸と読んで差し支えない迫力満点の大きな家屋だったが、見る者を威圧するような黒い屋根が少々悪趣味に見えた。張り巡らされた白い丙からは危険な程に鋭利な槍の装飾が光り、その周囲と庭には無数の造花が設置されている。

 生き物のような黄色をした郵便受けを探し出し、ぼくはそっと、甘えに似た確信を抱きながら郵便受けに用紙を入れる。甘えに似た確信、というか甘えそのものだ。こんなぼくのあんな陰湿な長文を全て、受け入れて欲しいなどと、彼女に甘えているだけに過ぎない。

 ぼくは郵便受けから手を引き抜くと、逃げるようにその場を走り出した。今から行っても学校にはきっと間に合わないだろう。というか、もう円居さんが帰って来る時間に近い。

その時。

 ぼくの頬をぬるりと、長い腕が通り過ぎて、ぼくの口元を覆った。柔らかく優しい、しかし抗いがたい類の不気味な腕力に引き寄せられたかと思うと、硬さを感じさせる人の胸部に背中が触れる。

 「君が歩君だね。少しだけ、時間良いかな?」

 振り向くと、見知った顔がそこにはあった。

 円居さんの携帯電話の待ち受け画面に設定されていた、あの美少年。円居さんの、お兄さんであった。


 「はじめまして。僕は円居愛と言って、高校三年生。女の子みたいな名前だけれど、このとおり男だ。君の友達、円居忍の兄で、君のことは、妹からうるさいほど良く聞いているよ。妹がお世話になっているみたいだね」

 円居愛と名乗った少年は、ぼくを即座に近所のデパートに連れて来たと思ったら、今度は内部の地下一階の喫茶店の席にぼくを座らせ、迅速にブラックコーヒーとショートケーキを二つずつ注文して、それから気立ての良い声でそう自己紹介した。

 「最初に理解しておいて欲しいのは、僕は妹から、君の話を良く聞いていて、君のことを好ましく思っているということだ。そしてこれから君がどんな言動をしても、その好意はほぼ揺るがないものだと思ってくれて良い」

 おかしいと思ったことはいくつかある。まずはそれを訊くべきか? 差し当たって、どうして自宅に連れてこなかったのか、というのは円居さんの私生活に関わっていそうだし、是非訊きたいところなのだけれど。

 「………………」

 ぼくがそんなことを考えていると、円居愛は物憂げな調子で店の壁を数秒、覗き込んで、今度は照れたように頭をかきむしる。

 「……ごめんよ。ちょっと説明の仕方が妙だったね。でも、僕は本当は、もう少しきさくで話しやすい人物なんだよ?」

 と、反省した様子でそう口にする。

 「それで。お話なんだけれどさ。まずはこの手紙、とても悪いけれど、これを妹に渡すことは、できないんだ」

 言いつつ、円居愛はぼくの書いた手紙、A4用紙十枚をびりびりと四つに割って、自分のポケットにそれぞれ入れた。

 とても無感動になることなどできやしない。ぼくは目を見開いて、それから身を乗り出す。円居愛は静かに微笑んで、ぼくをたしなめるようにこう口にした。

 「話を聞いてくれ。まず、君は僕の妹のことを好いている。そうだね?」

 何でそれを、こいつに言われなければならないのだ。

 「もちろん、僕は百パーセント君の味方だ。だから言う」

 悲しそうな、寂しそうな、そんな声色で円居愛は口にした。

 「相手は僕の妹だ。円居忍にこれ以上好かれない方が、君の為だよ」

 「…………」

 ぼくは何も言い返さなかった。

 円居愛はぼくの様子を見て、僅かに罪悪感に駆られたような表情になる。

 「ごめんよ。でも、あんな風に手紙を破いたのは、そうするのが一番良いと考えたからなんだ」

 ぼくは思った。

 この人、ちょっと円居さんに似てる。

 「君は僕の妹のことを好いている。けれど、君自身は自分のその感情を、あまり高貴だったり、清らかだったり、ロマンチックなものではないと、そう思っている」

 「…………」

 「まず最初、君は妹の姿形の良さに惹かれた。兄の僕がこう言ってしまっても、誰にも難色を示されない程度に、忍はかわいい女の子だよ。同意してもらえるね? そして、君は妹のことを目ざとく観察するごとに、彼女のことがもっと好きになったんじゃないか」

 そうだ。

 彼女の全ての行動、仕草、表情、言葉。ぼくはそれら一つずつ見聞きする度、更に強く彼女に惹かれて行った。これまでの、ぼくの無感動な人生の中で、味わったことのないときめきだったのだ。

 「君の思いはとても純粋で、そして繊細なものだったと思う。そんな君の心、限りなくピュアーな精神が瓦解しかけてしまうような、恐ろしい出来事があった」

 身を切るように、円居愛はそう口にする。

 その時僕は、この円居愛が本心から僕のことを慮っているのだと言うことを理解した。

だからと言って、この男のことを好きになるには、手紙を破いた行為が今はまだ重すぎる。

 「その時のこと、あまり繊細な事件なだけに、僕がそれを知ったのはつい最近のこと。僕の妹にとっても、あれは軽んじられるような出来事ではなかったらしい。つい最近まで、僕に話してくれなかった。それはともかく」

 円居愛は眉に皺を寄せて、どこかしら責めるように

 「君は妹の机の中に、汚い虫を入れたそうだね」

 その声色は、妹を思いやる兄としてのものだった。

 「……すいません」

 「それが聞きたかった」

 あっけらかんと、最上級の笑顔で、円居愛は僕に答える。

「妹にそんなことをしても良いのは、世界に僕だけだからね」

 だから、君は僕に謝る義務がある。

 円居愛がそう言った時、注文していたコーヒーとケーキが届いた。

 「何でも良いと言っていたが、本当にこれで構わなかったかな?」

 「……ええ」

 食べる気、無かったからな。本当はコーヒーは苦手なのだけれど、最早、出されたからには頂くことにしよう。

 この男からぼくが感じ取ったのは、彼が円居さんの兄で、円居さんが言うとおりの人物だということ。

 気立てが良く、胡散臭いが根は正直者で、若干自己顕示欲が強く、大いに独善的で人の気持ちを考えず、しかし優しく、ある程度正しく、懐は広いが融通も利かず、無邪気で相当に残忍で、とんでもないレベルのシスコンだ。

 「君が妹に抱く想いが、男が女に抱く感情の中でも、恋心という形に変異したのは、その事件によってだと。僕は睨んでいる」

 どうかな? と、真剣な面持ちで円居愛はぼくに尋ねた。

 ぼくが黙って首肯すると、円居愛は今度は真剣というよりも深刻な面貌になり、それからどこか憂鬱そうに

 「僕の妹は、常識的に考えると大いに異常なことだが、如何に気持ちの悪い動物でも虫でも、或いは彼女自身に害を成した攻撃者に対しても、平等に博愛を発揮する。妹から直接訊いてはいないのだけれど、ひょっとして忍は、そのゴキブリを見ても気持ち悪い顔一つせず、優しくどこかに放してあげたんじゃないのかい?」

 「……正解です」 

 「その時、君は妹に恋をした。……妹の行為は優しさとも言えるし、非常識で、ちょっぴりばかり狂っているとも、言えるだろうね」

 円居愛はそこで言葉を区切り、口を付けようと思ったのかコーヒーカップを一瞥し、しかし手に取ることをせずぼくの方を向いた。

 「はたして君は、どうして妹のそんな行いに、恋をしたのだろう?」

 「……分かりませんよ」

 「そう」

 円居愛は深く首肯した。

 「分かっていれば、こんな手紙を寄越したりはしない」

 ぼくの彼女への思いは、あまりに非論理的で、疑問と矛盾に満ちていた。

 彼女のことをどれくらい好きなのか、これだけははっきりしている。

 大好きだ。

 だけれど。それだけで終わらせたくない。それでは、彼女に対する、ぼく自身に対する背徳行為になってしまう。

 そんな子供のような、自分でも良く分からない思いが、ぼくにはあって。

 それら全てをひっくるめて、ぼくの、彼女への想いだった。

 「君の手紙には、現時点での、君の思いの全てがこもっていた。だからこそ、僕があんな風に引き裂いた時に、君はあんな風に憤った表情をした。そして僕は、君の思いの深さを知った」

 円居愛は寂しそうにこちらを見やる。

 哀れむようにも、それは感じられなくは無かった。

 「君の中の矛盾、葛藤、好意、全てを忍は受け入れただろう。そして忍は、きっと君のことを愛したはずだ。だからこそ、僕はこの君の手紙を、裂いたんだ」

 「どうして?」

 「君が円居を忍を愛したのは、彼女なら君のことを愛してくれると、そう思ったからだよ」

 突き刺さるような声だった。

 円居愛は寂しそうな顔のまま口にする。

 「君は劣等感に満ちていた。君は自分のことを汚い虫けら程度にしか考えていなかった。汚い虫けらはあらゆる存在から毛嫌いされる。君は誰も自分のことを愛してなどくれないと思っていた。そうだろう?」

 「……どうして」 

 ぼくはその場で暴れ出したい衝動をどうにか押さえ込みながら、円居愛に吼えた。

 「どうしてあんたがそんなこと知ってんだ?」

 「君は赤裸々だ」

 円居愛は、ぼくの手紙が入った自分のポケットを叩きながら、言った。

 「最初の一枚で、君がどういう男なのかは、ほとんど理解した。……というか、君、十枚は書きすぎだよ。最初の一枚の半分で、君の気持ちは痛いほど伝わるよ」

 聖女に赦された罪人だね、気分としては。円居愛はそう呟いた。

 「ゴキブリを愛せる彼女なら、自分のことも。君はそんな風に考えた。恋が始まるには、ほんの少しの希望があれば十分だからね」

 円居愛は、これまでに無い真剣な表情で

 「こればっかりは、君自身で気付くことは、非常に難しかったはずだ。そして気付いた今、どうするべきか自分で良く考えてみると良い」

 「………………」

 円居愛は、そこで言うべきことは全て終わったとばかりに、ようやくコーヒーカップに手をつける。ぼくもそれに習った。

 人肌に近く、飲みやすい。しかし、苦い。

 「偉く落ち着いているね」

 「そうですか?」

 ぼくは言って、苦笑した。

 円居愛は、眉を僅かに動かしただけで、何も言ってこなかった。その仕草は、不気味さを感じ取った風でもある。

 「ぼくが円居さんに受け入れてもらうのは、それは、関係としては相当に一方的です。ぼくは彼女に選ばれず、あくまで彼女の博愛の一貫として、愛される」

 円居愛は目を丸くしてこちらを見る。

 「それで良いのかい?」

 「分かりません。ただ、ぼくは彼女に愛される為に、彼女を愛したことになる。……そんなのは、ぼくに対してだけではない。彼女の為にも、深い背徳だ」

 「そんな風に考えるのは、きっと君だけだよ」

 円居愛は薄く笑った。

 笑って、それから優しい声で

 「君は、彼女の優しさに、そのまま惚れた。それだけさ。だから君がすることは、彼女の優しさが本物かどうか、それを確かめることだけ」

 円居愛はフォークを手に、注文したケーキの苺へと突き刺した。

 「しかし。君は良く怒り出さずにぼくの話を訊けたね。さあ、これを早く片付けてしまおう。行くところがある」


 それから円居愛に連れて行かれたのは、西条デパート十一階、つまり最上階に位置するペットショップだった。

 「妹の遊び場と行ったら、昔からこの西条デパートでねぇ。お金も持っていないくせに、雑貨屋やここペットショップに現れては意味も無くぶらぶら」

 色取り取りの生物、という印象が獣臭い臭気と共に撒き散らされる、素晴らしいペットショップと言えた。奥の壁には無数の水草と熱帯魚が並び、入り口付近にはお客を歓迎するかのように、紐で足を括られたふくろうなどが鎮座している。粗末な檻の中で暴れる猿、犬、ゾウガメまで。

 「こっちだ、こっち」

 何かを企むような表情をして、円居愛は嬉々と店の奥の空間に歩く。熱帯魚のコーナーを脇に進み、入り口からは確認できなかった、店全体から見ても尖出しているスペースへと辿り着く。

 壁に埋め込まれるように、ガラスのケースが並んでいる。

 その中で蠢いているのは、ヘビ、ムカデ、クモ、ミミズ。どうやらゲテモノコーナーということらしい。なるほど、そう言った需要も世の中には、十分にあると訊く。

 「この通りさ。どうだい、この視界の隅にでも存在していてほしくない、気持ちの悪い生き物達」

 犬や魚と同じ生き物だというのに、店の奥に追い遣られる哀れな連中、と表現するのも、それはそれで傲慢か。こいつらにしてみれば、店のどこで扱われていようと関係の無いことだろう。

 「昔はね、妹もこういうのを見て泣き出す感性を持っていたんだ。いつの頃から、ずれたのかどうかは、僕にも分からないけれどね。それでも一応、ある程度常識的に振舞うことはできたし、何せ小さな子供だろう? 僕はそれを、単なる優しさとしてしか、見えていなかった」

 自嘲するように、肩を竦める円居愛。

 「あの子の外観が優れていたことも、悪い方向に作用した。嫉妬を覚えたクラスメイトの目の仇にされたあの子は、しかしそいつらと戦うことも、逃げることも、屈することさえ、しなかった。でもどれもしないんじゃ、攻撃に晒され続けるしかないよね?」

 ぼくは静かに首肯する。

 「初めてあの子が不自然な怪我をしているのに気付いた時は、それはもう大騒ぎだったさ。僕は冷静に行動することなんて、できなかった。妹を泣かして良いのは僕だけだ。連中をぶちのめしたさ。後先のことは、忘れて」

 それは君も同じだよね、と親近感のこもった視線で円居愛はこちらを見る。

 何と無く、ぼくはそれに答えることができずに、目を逸らした。

 「店員さんを呼んでくるから、ちょっと待っていてくれないかな?」

 円居愛は言って、近くにいた女性店員に声をかける。その態度は、どこか愉しげで、とても無邪気なものだった。

 「もう少し、待っていてくれ」

 呼び止められた女性店員は店の奥に引っ込んで行く。円居愛は、無数にあるガラスケースの一つを指差した。すると、その明かりが消える。

 「藁の中にいて分からなかったと思うけれどね。この部屋の住人は毒ヘビの一種で、暗いところでは大人しいが、明るいところでは好戦的だ。動く者を見ると、とりあえず噛み付こうとする。扱いには厳重注意ってね」

 暗い中で、女性店員が藁の中に隠れていた白いヘビを棒で引き擦り出すのが見えた。そしてそのまま、小さな箱の中に誘導する。

 円居愛は無邪気な足取りで、残酷な悪戯っ子の表情を浮かべてレジへと向かう。小さな箱を受け取って、店員から何やら話を聞いている。それが済んだと思ったら、円居愛はぼくの手にその箱を握らせた。

 「さっきのヘビだ。プレゼントするよ」

 ……どうしろっていうんだ。

 「軽蔑しないで聞いてくれ」

 円居愛は、どこか楽しげに

 「僕はこの二年程、妹の携帯電話にムカデやヘビの画像を送り続けている。適当に虐待して、可能な限り気持ち悪くしたのをね」

 それなら、知っている。ぼくが円居さんと少しは仲良くなれた、そのきっかけと言えるかも知れない。あのフォルダ。

 「妹はね、それをきちんと整理して保存しているんだよ。理屈は分からなくても、感じてはいるんだろうね。それがあの子にとって、必要なものだって」

 「どういうことですか?」

 「荒療治ってことになるのかな」

 円居愛は、誇示するように笑った。

 「あの子にああいう画像を送りつけて、あの子がそれを『気持ち悪い』って思ったとする。あの子はその画像を消すか、僕に文句を言うか。それは分からないが、でも、僕はあの子に正常な感性が芽生える瞬間を、きっと見逃さない」

 「……つまるところ、気持ち悪がってもらう為に、送っているんですか」

 「そうだよ」

 あっけらかんと、円居愛は答える。

 「あの子は優しいからね。気持ち悪いという理由で写真を消すのは、被写体や送信者に対する冒涜だと捉えているんだろうね。だから、あの子の携帯電話から僕の画像が消えたことは、一度も、ない」

 妹の携帯電話を覗いているのか。

 碌でもねぇな。ぼくに言えたことじゃ、ないが。

 「それで。ぼくにどうしろと?」

 そう言うと、円居愛はやはり、無邪気に笑って

 「その中身を妹の机の中に入れておくと良い。僕が赦す」

 「嫌です」

 「そう言うなって。君の為に、言っているんだよ」

 唇を歪めて、僕の表情を窺うように円居愛。

 「言いかい。最高なのは、君がきちんと失恋することだ。それをしないにしても、あの子がどういう人間なのかを、あの子がどれだけ、人間のできそこないなのかを、あの子を愛するつもりであるなら、君は知っておかなくちゃいけない」

 「ふざけるな」

 ぼくは円居愛に向けて、毒ヘビの箱をぶん投げた。

 噛まれて死んでしまえば良い、そう思っての行為だった。だが円居愛はまずは一歩引いて、それを足で救い上げ、頭で一度受け止めてから受け取る。そんなふざけた演技に興じた後は、人懐っこい、どうだと言わんばかりの視線でこちらを捉えて。

 「残念だな」

 言いつつ、円居愛はどこか、楽しそうな表情を崩さなかった。

 「けれど。これは忘れないでおいてくれよ。相変わらず僕は君のことが好きだ。今日の内に、余計に君のことを好きになっているかもしれない。だから、僕はこれからも君の為に行動する。良いかな?」

 しばらくぼくが何も答えないでいると、円居愛はその日で初めて、人間らしく顔を顰めたのだった。それから寂しそうに「手間を取らせたね」と紳士的な風に口にして

 「それじゃあ。またね」

 言って、ぼくの前から姿を消した。

 毒ヘビの箱を抱えて。

 

 「昨日はどうして学校来なかったの?」

 単純な疑問を口にするように、首を傾げながらそういう円居さんに、ぼくは相当な罪悪感を覚えることになった。叱られると思ったんだけれどな。

 「寝坊だよ。間に合いそうに無かったから、何もしなかった」

 「気をつけてくださいね。アユムさんがいなかったら、わたし寂しいから」

 そう、漏らすように口にする円居さん。

 再び罪悪感。思えばぼくの話し相手が彼女だけであるように、彼女の話し相手も、ぼくだけなのだ。ってことは、この子、昨日は相当に孤独な一日を過ごしたんじゃないかな。

 「ごめんよ。お弁当、無駄になったんじゃないか?」

 「いいえ。わたしが食べたから」

 なら良かった。

 「代わりにカロリーメイトが一日分余ったから、帰りに公園の鳩にやらない? 楽しいよ」

 一日分余ったって。それを今日食べれば良いじゃないかとか、そんなずれたことを考えながら、まあ円居さんと一緒に公園に行けるというのは、非常に魅力的な提案に思えた。

 昨日のことは、忘れよう。

 もう一度、ちゃんと良く考えて、そして最適な手段で気持ちを伝えよう。

 「鳩か……きっと鴎外の鳥に含まれるんだろうなぁ」

 呟くと、円居さんはそこで思い出したようにぼくの顔を覗きこみ、若干口を尖らせながら言った。

 「しのぶちゃんに変なこと吹き込んじゃ、ダメですよ。あの子、何でも信じちゃうんだから」

 告げ口しやがったか。

 「なんかね。あの子が良く分からないことをわたしに自慢し出したから。『鳥って全部カモメなんだぜー! 知らなかっただろ!』って。誰から聞いたのって言ってみたら、あなただって」

 「……ごめんなさい。でも、すっごくおもしろかったんだ」

 「そうね。分からなくはないけどね」

 円居さんは悪戯っぽく笑って

 「でも会話が終わるまでに、騙してたよって教えてあげなくちゃ。あの子が恥をかいちゃうよ」

 それがおもしろいんじゃないですか。円居さん。

 「ところでさ。しのぶちゃんって、円居さんのこと『姫』って呼ぶよね。どうして?」

 前々から、何となし疑問に思っていたのだ。円居さんの名前を同解体しても『姫』にはなりそうにない。また、円居さんの立ち振る舞いからそうあだ名するのにも、しのぶちゃんにそういうセンスがあるようには思えない。

 「あの子、自分で『シノブ』って名乗ったでしょう? でもそれってわたしの名前。それで、わたしはしのぶちゃんの名前で呼ばれているの。『舞姫』だから『姫』ね」

 交換している、ということになるのか。

 なんか微笑ましいな。

 「それっていつから?」

 「小学生の時から、ずっと。しのぶちゃん、自分の名前嫌いなんだって。すごく素敵なのにね」

 「素敵だから嫌いなんだと思うよ」

 ぼくが言うと、円居さんはなんだか目を丸くした。

 そりゃまあ確かに、この子にはきっと、分かるまいか。

 「名前と言えば。昨日、君のお兄さんに会ったんだよ」

 「そうなんだ!」

 両手を合わせて、嬉しそうに声を高くする円居さん。かわいいなぁ。

 「どうだった?」

 「変わった名前だね」

 「そうかな。お母さんがね、一番好きな漢字を使ったんだよ」

 「……君に与えるべきだったよね、それはきっと」

 何度愛ちゃんと呼びたくなったことか。円居さんのお兄さんで、あの気さくな性格だ。あんな張り詰めた空気でもなければ、きっと呼んでる。本人もあれで結構、気にしてると思うし。

 「それじゃ、君の名前はどうやって決められたの?」

 「お兄ちゃんもわたしも、名前に心があります」

 へぇ。

 円居愛。円居忍。なるほどね。

 「それは良い名付けだね」

 「そうでしょう。お母さんなんだよ、考えてくれたらしいの」

 嬉しげにそういう円居さん。自慢の母親、ということらしい。

 その大切な名前をしのぶちゃんにくれてやったのは、それだけ彼女に対する友情が深いということなのだろう。人が自分の為に施してくれたことを、例えそれがどんなことでも、この子は簡単に手放さない。

 「それで。お母さんは何をしている人?」 

 「今は死んでるよ」

 あっけらかんと言う。

 この子にとって、これは何ら特別なことではなく、単純な報告でしかないはずだ。だからぼくも、それに相応しい反応を見せる。

 「そうなんだ。お父さんは?」

 「アパートの兼営。家で寝てても儲かって退屈だって、良く言ってる」

 それは随分と、羨ましいことである。

 「わたしも良くお手伝い、するんだよ。アパートの人達から、家賃をね、取りに行くの」

 「へぇ。それはいつからだい?」

 「小学三年生の時が最初かな? しのぶちゃんも、良く手伝ってくれるよ」

 子供にやらせんな、そんなこと。

 と言うか、この子にはそういうの、かなり向いていないんじゃないかなと思う。まあでも、高校生の子供がいるおっさんが行くより、こんなかわいい子が来てくれた方が、まだしも払う気が起こるというものだ。

 子供には預けられん、っていう言い訳使う外道がいるかもしれないけど。勝手に色々心配したけれど、滞納する人って、やっぱりいるのかな? 漫画とか読んでると、アパートで家賃と言えば、そんなイメージしかない。

 「アユム君のご家族は、何をしていらっしゃるの?」

 「母さんは会社勤め。父さんはポケモントレーナー」

 「ポケモンってかわいいから、わたしも好きだよ」

 父さんはポケモンの新作が出るとぼくの分まで買って来る。キャラクターデザインは秀逸だし、おもしろいんだけれど、しきりに対戦をしたがるのは止めて欲しい。勝てんし。

 円居さんに固体値厳選の話はできないよなぁ、とか、そんなことを考えていると、チャイムが鳴った。

 こんな取りとも無い風を装った会話でも、円居さんと交わす一語一語は、ぼくの一生に残るべき、最高の思い出だ。ぼくはこれを他の何より優先して守っていかなくちゃいけないし、その為には、どんな犠牲も辞さない覚悟だ。

 根暗少年には珍しいくらい、真面目にそう思う。

 その日の天気は昨日に引き続いて曇り。雨が降りそうなのは相変わらずだけれど、その日は雷が少し、鳴っていた。授業中、窓際の席に座る円居さんは時々空を確認しては、雷が鳴る度に驚いて顔を上げ、いけないいけないと真剣な目で黒板の方を向く。

 二時間目の国語。いい加減に雷は止んで来て、円居さんも少し安心して気が抜けていたらしい。ぼぅっとしていて、教材を机に並べるのを忘れてしまっていた。

 「円居さん」

 挨拶も早々に教室を巡回し始めた女性の国語教師は、ちょっぴり陰険な目で円居さんの方を見てそう言った。円居さんはびっくりして肩を竦ませる仕草の後「す、すいません」と鞄の中に手を突っ込む。必要なものはなかったらしく、首を捻って次に自分の机の中に手を入れた。ぼくなんかは全ての教材を机に入れているのだけれど、彼女はそうではないらしい。

 その時だった。

 円居さんはおっかなびっくり、目を丸くして僅かに背もたれへ仰け反った。「どうしました?」国語教師の声。ゆっくりと机から引き出された円居さんの白い腕には、しなやかで細長い一匹のヘビが絡まって、枝でも伝うように円居さんの肩に向けてくねっていた。

 「きゃあっ!」

 最初に叫びをあげたのは国語教師だった。円居さんの一番近くにいたのだからそれは仕方がないことかもしれないが、しかし悲しいかな、そのヘビは明るさや人の動きなどの刺激にとても敏感だ。すくみ上がるように首を動かし、周囲を警戒し、威嚇するように牙を立てる。

 大丈夫だよ。

 円居さんはヘビの方を見やり、そして優しく微笑んだ。すると、ヘビは一瞬、迷うような仕草を見せてから、ゆっくりと口を閉じようとする。円居さんがヘビに向けて優しく手を差し延べようとしたその時

 「いやぁー!」

 叫び声が聞こえて、円居さんの周囲の席に座っていた何人かの男女が椅子を蹴るようにして飛び上がり、逃げ惑う。そこには国語教師も混ざっていた。さらに追い討ち、そこで雷が鳴る。そんな音の刺激に、ヘビは再び気を荒立てて、目を合わせた時に生物としても認識したのか、そのまま円居さんの首に向けて、飛びかかる。

 それを認識するまで何もできなかった自分が酷く情けなく思う。円居さんなら、きっとこのヘビを手懐けてしまうだろうと思ったし、そっちの方が捕獲よりもずっと安全だという打算もあった。

 しかしである。こいつが物音に敏感だなんて、俺は聞いてねーぞ!

 間に合ってくれ。それを願うことしかできない。最悪道連れになる覚悟で、ぼくはヘビの首根っこに向けて手を伸ばす。

 がぶりと。

 本当にそんな擬音が、指から頭に、鼓膜にまで伝わって行った。

 噛まれた?

 ヘビの顔全体を、ぼくの手は覆ってもいる。けれど同時に、中指を思い切り噛まれてしまっている。ぼくは何とか、握りこぶしを作ってヘビの動きを一旦止めた。

 皆の逃げる音。半径二メートルには、すぐに誰もいなくなるだろう。

 それを確認して、ぼくは自分の体の異常に気付く。

 ……ちょっ、毒回るの早すぎだ。

 立ってらんねぇぞヘビ公。ああダメだ指も動かん、このままじゃ逃がす。

意識も薄れて……まったく。これじゃダメじゃないか。

ぼくに何かあったら、円居さんが悲しい思いをしてしまう。

 

 などと言っても、やっぱりペットショップで扱われている程度の毒ヘビ。いくらぼく程度と言っても、人間一人を死に至らしめることなどできないらしく、当たり前だが気が着いたらぼくは病院のベッドで眠っていた。

 「アユムさんっ」

 ああ~この声で目を覚ませて幸せだなぁ。医者のおっさんの汚い手で揺り起こされるとか絶対勘弁だし。

 思いつつ、声のした方を見る。円居さんがぼくの方に手を出したり引っ込めたりをしていた。体に刺激を与えれば毒が回る、ということだろうか。

 「大丈夫。もう起きたよ」

 と言ったのはぼくではなく、円居さんの隣で仁王立ちするしのぶちゃんだった。

 「……何でいんの?」

 おい。

 最初は円居さんの無事を訊くべきだろうが。まあ見た感じ大丈夫そうだけれど。

 「姫が電話で、泣きながらまくし立てて来た。尋常じゃなかったからあたしも病院に来た。そういうこと」

 さいですか。

 「アユムさん!」

 円居さんが赤い目でこちらを見ている。すごく心配してくれているらしい。うっわ嬉しい。

 「あのね、ありがとう。大丈夫?」

 涙声でそう言ってくれる。死ねる。

 「ああ。ごめんよ。心配かけたね」

 と言って、ぼくが勤めて優しく笑いかけると、

 「そんなこと……」

 円居さんはしゅんとした感じに目を伏せた。かと思うと、すぐにあらゆる生き物を安心させる柔和な、包み込むような物腰を取り戻し

 「体は大丈夫?」

 「平気だよ」

 ちょっと手足が動かなくて、頭ががんがん鳴っていて、嘔吐感がこみあげてくる程度。君に心配してもらったらすぐに直るのさ。

 「ところで。先生達はどうしたんだい?」

 「もう帰ったよ」

 肩を竦めて、しのぶちゃんが言った。

 「時計見えるか? もう一時回ってるんだぜ」

 マジですか。

 がんばって首を動かして時計を探していると、円居さんが携帯電話をそっとぼくの枕元に置いた。ふむ、確かに一時十七分。

 「……どんだけ寝てたんだよ」

 「毒の強度よりもおまえの体質の問題らしいぜ。アレルギーがどうの、あたしには良く分からなかったけれどな。ふつうは半日以上気絶したり何て絶対にない、ちょっと手足が痺れる程度だってよ」

 「そっか」

 じゃあ君達二人は、半日以上の間、そこにいてくれたのか。

 嬉しいな、と、無邪気に思ってしまう。まあ良いか。

 「アユムさん。すっごくありがとう。どうお礼をしたら良いのか分からないけれど」

 「じゃあ絵のモデルになってくれ」

 ようやく言えた。

 いやまで。これはお礼を要求するべき場面なのか? どうなんだろう、自分で勝手にやったことのような気もするし、円居さんの為にしたような気もするし。

 「姫にも感謝するんだぜ」

 と、そこでしのぶちゃんが言った。

 「ヘビは倒れたおまえをもう一度噛み付くつもりだったらしい。それを、姫が持上げたら大人しくなったんだと。ふつう、目の前で噛み付かれた奴が気絶してんのに、そのヘビに手を伸ばしたりできるもんか?」

 ふつうは無理である。円居さんの為でもない限り、ぼくならそもそも、見殺しにする以外の選択肢を考えすらしない。心に染み入る話である。

 円居さんをさっさと安心させて、二人にお礼を言う為。ぼくは気力で体を起こした。「おい大丈夫かよ?」やる気もなさそうにしのぶちゃんが言って、円居さんはぼくが起きるのを手伝ってくれる。格別な感触だなぁ。

 「…………?」

 起き上がると、心配するような、制服のままの円居さんの顔がある。隣には天下無双のパジャマ姿をしたしのぶちゃん。そしてその後ろには……。

 「ヘビ?」

 虫篭の中でとぐろを巻く、白いヘビの姿があった。

 あいつはひょっとしてあの忌々しい……。

 「皆にはどこかへ逃げたことにしています。じゃなきゃ、きっと殺されちゃうもの」

 円居さんは、ぼくを抱き起こした状態でおずおずと口にした。

 良かったかなぁ、怒られないかなぁ、といった思考が伝わって来る。背後で、しのぶちゃんが苦笑するのが分かった。

 ぼくも一緒になって苦笑する。

 やっぱり、円居さんはこういう子だ。

 ぼくの好きな円居さんだ。

 彼女にとっては、自分に噛み付こうとした毒ヘビだって、ぼくと同様に慈しむ対象だ。

 それは逆を言えば、彼女がぼくに向ける慈愛は、あの毒ヘビに対して向けるものと、大差がないということ。

 それが、円居愛がぼくに対して、身を持って知るべきだと言った、彼女の性質。

 その為に、こんな手の込んだ嫌がらせまでしたのだ。そしておそらく、彼の考えるシナリオの中では、ヘビに噛まれる役割はやはり円居さんのもの。自分に噛み付いたヘビのことを心配する彼女を見せ付けて、ぼくの彼女に対する不信感を煽る作戦だった、という訳。

 「ふざけるな」

 頭に血が上って、ぼくはついそう口にしてしまう。

 「……ごめんなさいっ」

 涙目で手を合わせる円居さん。やっちまった。

 「違う! 違うって! 君のことを言ったんじゃない。ぼくは君のやることを一つでも否定したりはしないから!」

 「……何げにすげーこと言ったよな、今」

 しのぶちゃんが呆れるように言った。

 「本当ですか?」

 潤んだ目で見詰められて、ぼくは相当に焦りつつ

 「ああ! もちろんだ。あのヘビはぼくが飼うよ! もっと良いゲージも買って、名前だって決めよう! 何が良い? 君が決めて良いよ」

 ぼくがまくし立てると、円居さんはすぐに明るい顔になって

 「本当? それじゃ、明日までに考えとく」

 無邪気にそう言ったのだった。


 ヘビの名前は『ヒカル君』に決まった。雷が鳴った日に出会ったからだそうで。明るさに弱く、暗闇をこそ天国と思うこいつには、相当に皮肉な名前であると言えた。

 「それで。そのヘビは姫の兄貴が仕掛けたものなんだな?」

 「おそらくはそうだと思う。机に入れたのが本人だとは、限らないけれどさ」

 退院の前日。平日の昼間っから見舞いに来てくれたしのぶちゃんに、ぼくは事件の前日にあったことを話していた。彼女には、言っておくべきことだと思ったのである。

 「でも証拠は抑えている訳だよな。警察突き出すべきだろ。このチャンスに」

 このチャンスに……それは、今までにこのようなことが何度かあったのではないかという、そんな疑問をぼくに抱かせるに足る言い方だった。

 「それがさ。気付いたことなんだけれど、そのヘビ、もしかしたら、西条デパートの最上階で売っていたものとは、違うかもしれない」

 「……は?」

 「暗いところで一度きり、一瞬だけ見えた、頭の鱗の模様。それが少しだけ違っているんだよね」

 「……良くそんなの覚えているな」

 感心したように、しのぶちゃん。

 「仮にお兄さんを糾弾したとしても、『僕が毎日可愛がっているこの子が、何かしたのかい?』とか、デパートで買った方のヘビを指さして笑うだけさ」

 そうやって他人をあげつらう為に、わざわざ変装して同じ種類のヘビを買いに行くくらいのことはしそうだ。気さくな風でいて、彼はそれくらいには陰険な人物だと思える。こんな煮え湯を飲まされてしまっては、最早良い印象を持つ方が難しい。

 ただ。あの人円居さんのお兄さんなんだよな。

 「……良く分かんねー。そんな面倒なことすんなら、初めっからしなきゃいーのに」

 椅子に手をかけて、体全体を仰け反らせるしのぶちゃん。

 「まあそれは良いんだ」

 良いのかよ

 「ああ。小難しく考えて答えが出ないんであれば、その兄貴を殴りに行くだけだ」

 「火に油だよ。止せって」 

 「でもぜってー腹立つ」

 それは仕方が無い。けど今は、ぼくらも耐え忍ぶことしかできないだろう。

 仮にこのことで奴を弾劾できたとしても、円居さんからあいつを引き離すに至るかどうか。増して、円居さん本人は何をされても変わらず彼を好いているだろうということもある。

 「姫にこのこと、おまえは言う?」

 「やめとこう」

 「それが良い」

 しのぶちゃんは納得したように頷いた。彼女との付き合いが長いだけのことはある。

 「それでさ。結局、おまえはどうしてその糞兄貴に呼び止められた訳?」

 「……へ?」

 いやだから。

 「あたし頭悪いけれど、勘は良いんだ。あの兄貴、自分ちと通学路しか通らないからな、基本的に。ということは、おまえ、姫の家に行ったんじゃないか?」

 ぎょっとする。勘が良い、というのは本当らしい。ぼくは観念して、認めた

 「正解だよ」

 「何でまた?」

 ぼくは嬉し恥ずかし、手紙と言うか時代遅れのラブレターを出そうとしたことや、それを四つに破られてしまったこと、それから円居愛に言いように見透かされたことなどを話した。

 「……おまえ、アホだろ?」

 それを聞いて、しのぶちゃんは心の底から人をバカにしたような声を出す。

 「何だよ」

 「だってさ。おまえ、姫のこと好きなんだろ。だったらそれで良いじゃん。惚れた腫れたに理由はいらねぇ」

 ぼくは、そのあまり論理的ではない言い分に、何故か言い返すことができなかった。

 その時、病室のドアがノックされる。

 「おじゃまします」

 おずおずと中に入って、ぼくの脇で微笑む円居さん。

 「円居さん……っ……」

 「……?」

 しまった。咳き込んだ。

 緊張のあまり大声。しかも呂律が回らない。大丈夫かよ俺。最後に水飲んだのいつだっけ?

 「何ですか?」

 「好きだ」

 言っちゃった。

 「嬉しいです」

 しばしの静寂があって、一瞬目を丸くしていた円居さんは、照れたように、大いに赤面しつつ、そう言って微笑んでくれた。

 やっぱり、そうなのである。

 『嬉しい』であって、それ以上の言葉は無い。

 『わたしもです』はこの人にとっては言うまでもないことで

 『お付き合いしましょう』何て感覚は、そもそもこの人には無い。

 これで良いんだろうなと、ぼくは気持ちを伝えられたことに満足して、幸福を胸いっぱいに吸い込んで、これまでの疲れを吐き出した。

 こんなに簡単なことだとは思わなかった。相当に投げやりだった感もあるが、不思議と迷いや後悔の類は訪れない。

 六月の太陽の、鬱陶しいほどの眩しさに目を逸らすと、しのぶちゃんや病室中の視線がこちらに向いていた。

 ガラスケースの中で、ヒカル君が呆れたように首を捻った。何も今やらんでも、と言った風だった。

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