一章
鏡の前に立ったのはただの感傷だった。ていうか自分の姿なんて、多分一年くらい見ていない。
不健康に青白い顔を、生まれてから多分一度も櫛を入れたことが無いボサボサの髪で覆い、目にクマまでこしらえたその姿は、まあどう見てもただの陰気な少年であった。誰かに着せられたように新品の学生服に身を包み、これから始まる高校生活への憂鬱に、肩を落とす痩せた影はつまりぼく。
流石に虫とかは浮いていないだろうな、とか思いながら髪の毛をわしゃわしゃかき回す。さらに手櫛で適当に髪を整えて見るのだけれど、長らくの不摂生の所為で傷んだ髪は、ぼくの性格を現すようにでろりと怠惰に折れ曲がったまま。
春休みの間中一度も外に出ずに絵ばかりを描き続けた結果、形成された目の下のクマ。澄ましているつもりでも、どこか卑屈な表情になる。こんな奴と仲良くしようなどと考える人は、多分いない。
鏡の前でしばらく考えて、一人納得する。きっと、こんなところでこんな風に納得して来たからこそ、こんな人間になってしまったのだろう。
まあ、それで困ったことはとりあえずないから、良いや。
思いつつ、自分の部屋に戻った。部屋には物置と化した勉強机の引き出しから催涙スプレーを取り出してポケットへ。昔から弱虫だったぼくだけれど、強くなる為の努力ではなく、弱いままで大丈夫な方法を考えたのだ。だから何にも変わらない。
全ての教材を詰め込んだ鞄。持ち上げて家を出る。自転車には乗らない。というか乗れない。だから、高校は家から一番近いところでとても助かっている。歩いて十分。すごく楽。
その校門くぐる。広いがあまり綺麗ではない校舎。人がやたらと集まっているところがある。そこに貼られた紙に向かい、何やら隣り合って騒ぐ男女一組。
女の子の顔を見る。まあまあ上等。頬の肉の付き方が素晴らしい。ガラス球のような瞳、という表現が当てはまるけれど、すごく濁った灰色だ。表情、何かを誇示するような具合。新しい生活への不安と期待、それに伴う虚勢。初々しくてなんか腹立つ。幸せそうでとても苛付く。
などと、万が一心の声を聞かれてしまっては、ぼくはおそらく、物理的な暴力にさえ晒されることになるだろう。我ながら激しく陰気な思考であった。
ちょいとごめんよ。
心の中で呟きながら、男の方の肩を抱く。すごい目で見られる。それはすごい目。何も言わず、男の肩を使って軽く跳躍。ぴょんぴょん跳ねる。紙に書かれた内容を頭に焼き付けて、自分の名前の位置を把握。それじゃあ行こうか一年二組。この校舎の、きっと二階にあるのだろう。
文句を付けるような男の視線。ちょっと戸惑う。ぼくは臆病。おろおろ。どうしよ。男が口を開こうとして、そしてその視線を首ごとずらす。何があったか、ぼくもそれに習う。
振り返った先には妖精がいた。
なんて、あまりに陳腐な感性をしていると思う。
困ったように人ごみから距離をとるおそらくは新入生の女の子。肩は小さく、手足は折れそうに細かった。肌は白磁よりはガラス。背は低め。大人しそうで、でも華もある印象で、僅かに怯えたような、清楚な表情をしていた。ふわりとして櫛の通りの良さそうな長髪を見て、ぼくは妄想する。アニメみたいな金髪だったら、どこかのお姫様みたいだろうな。
美少女だった。男は目を奪われている。隣の女、その男に無表情な視線。怒ってるよりは嘲ってる具合。その隙にぼくは、男の視線から逃げた。
クラス分けの表の前には多数の人。背伸びをして、表をちらちら見る女の子に、ぼくは声をかけた。
「君の名前は?」
背中に何か感じる。何だろうと思いつつ女の子の様子を窺う。ちょっと怯えている。名前を訊かれたからというより、ぼくが寄って来たことの方だろう。分からなくもない、こんな見ず知らずの、どんな下品なことを考えているのかもしれない輩がひしめく状況で、とびきり陰気そうなのが歩いて来たのだから。
女の子は柔らかな笑顔を見せた。怯えの表情を残したまま浮かべる、まったく純粋な笑顔である。それだけで、ぼくはひょっとしたらこの子は少し変わっているのかもしれないと、そんな風に思った。
「円居忍、です」
「それじゃあ二組だ」
きっと驚かれると思ったが、知っているものは仕方がない。少女は口先を少しとがらせただけで
「ありがとう」
そう言った彼女の表情に、驚きとかそういうものは含まれていなかった。何か考える素振りは見せたかもしれない。そうぼくが思ったのは、女の子に背中を向けて、脱兎の如く校舎に突撃している時だった。
言葉を声に出したのは、何ヶ月ぶりだっただろうか。そんなことを思いながら。
いつだったかは忘れた。でも、いつかこんな会話があったことを覚えている。
選択美術の授業。ぼくはぼくなりに活き活きと、楽しくイラストを描いていた。絵を描くのは好きである。ぼくにはそれしか取り得がないとも言える。だからこれだけはずっと好きでいて、これだけはずっとがんばって、将来はこれをして生きて行こうと、決めていた。
「ねぇ。あなたってオタクよね」
と、声をかけて来た女の子がいた。オタク、その言葉は何と無く知っていた。自分のことをそんな風に思ったことはなかったのだけれど、当時のぼくは今のぼくよりもさらにひねくれていたので、確かこんな風に応答した。
「ぼくに反論の権利は与えられないのだろう?」
女の子の背後で、とても楽しそうな笑い声が起こる。何がおかしいのだろうとおもったが、すぐにぼくがおかしいのだと気付いた。
「うんうんそうよ。与えられないわ。ところでさ、じゃあんた、アニメの女の子に欲情したりとかすんの?」
そんな下品なことを言うからには、この子はきっと下品な女の子なんだろうなぁとか、そんなことを思いながら、ぼくは答えた。
「しない」
「嘘。だって、こんな絵を描いているじゃない」
言って、女の子はぼくが描いていた絵を取り上げて、後ろのギャラリーに見せる。すごく愉快そうな笑い声がふたたび起こった。
ぼくが描いていたのは、駅を背景にした少女の漫画だった。頭の中に思い浮かんだものを、可能な限り忠実に、美しく表現したい。そう思ってずっと絵を描いて来たし、それをこんな絵、と言われると、あんまり良い気分にもならない。
「紙に描かれた女の子は、芸術だよ。愛するべき存在ではあっても、そこに白濁液を飛ばす行為は関係ないさ」
再び、背後で笑い声。どうも、ぼくが何かを言うと、それだけで周囲は笑うようになっているのだろう。
「じゃああんたは、こういう子が、好きなんだ」
「君よりはね」
笑い声。ぼくを直接相手にしている女の子の笑いが、一番大きかった。
「それじゃあ。こんな風に、二次元の女の子みたいに可愛い子が実際にいたら、付き合いたいとか思うの?」
言いたいことは、何と無く分かった。
「いる訳ないよ」
と、ぼくが答えると、今までで一番大きな嘲りの笑い声が起こった。
どうしてこんな、ふつうなら思い出したくもないことを思い出したのかと言えば、記憶の中の女の子が予想したことが、ぼくの中で実際に起こったからである。
教室の真ん中の方の席になってしまったことにも困っているのか、体を縮こまらせておどおどとしている円居忍。その視線は机の下側、自分の膝のあたりに集中していて、周囲と目を合わそうともしない。
教室中を見渡せば、皆なかなかしっかりした奴らだった。新しい環境で友達を作ろうと、人に声をかけて、楽しいお喋りに興じている。
最初の頃は照れもあったのだろう。だが始業式も終わって、校舎の見学も終わり、高校生活も起動に乗り始めるのではないかという頃合。クラスが打ち解けるのも時間の問題だ。みんな明るくて、良いクラスだと、担任の先生は言っていたような気がする。
男の子は能力の高いのを、女の子は容姿の優れたのを、率先して自分達の集団に引き込みたがる傾向があるようだ。グループはいくつかあるのだから、自然、上位の軍団と下位の軍団ができる仕組みである。自分から仲間を作りにいけない人間でも、自分の席に座って媚びるような視線を周囲に振りまいていれば、レベルのあった誰かしら声をかけてくれなくもない、そういうルールだ。
ぼくのような最底辺に、誰からも声がかからないのは当たり前のことだ。だがしかし、円居さんに一切声がかからないのは、どういう訳だろう?
少し考えて、彼女が周囲をまったく見ていないからだと、ぼくは悟る。自分の手の中で、おそらくは携帯電話を懸命に操作しているのだった。
ところで。ぼくは携帯電話というのが好きではない。何故なら、誰もが使っているものを、ぼくが誰もと同じくらい上手く扱えたことはないからだ。仕事で息子に顔をあわせる時間も無い母が、心配だからとぼくに携帯電話を持たせたがっているのだが、そんな理由で拒否をしている。
もちろん、そんなコンプレックスに塗れた理由を、この口で言うのははばかられるところ。なので、母さんにはいつもこう言っている。
「外にいる時まで、他人と繋がっていたくない」
すごい皮肉だと自分で思う。
円居さんは、ぼくとは違った思想の持ち主らしい。外にいる時どころか、クラスが始まっても、遠くの友人と携帯電話で繋がっている。白くて美しい指を、ボタンの上に這わせて、少しぎこちない感じに操作する彼女は、どこか真剣な表情をしていた。
「ねぇ。いつもケータイ弄ってるわね、あんた」
等と言いながら、円居さんに声をかけた人がいた。なんだか、攻撃的な声色である。
こういう時、実行者の後ろには一人か二人くらいは、ギャラリーと言うか協力者がいるもので、その時もそうだった。入学式の時の、隣り合った男女の片割れを先頭に、クラスでもおそらくは上位のグループであろう二人が後ろに引っ付いていた。
「うん」
円居さんは、ちょっぴり能天気な感じに答えたのだった。顔をあげて、声をかけて来てくれたことを喜ばしく思うように、綺麗に微笑んでいる。
ちょっとだけ、見るに怖い類の笑顔だな、とぼくは感じた。
「何を見ているの?」
「ごめんなさい。人に教えたくないの」
おずおずと、そう答える。少女達は三人で顔をあわせて、何も言わないまま、先頭の人物が円居さんから携帯電話を取り上げた。あまり印象の良い行いではないな、とぼくは思った。
うっ、と、少女達の表情が歪む。「返して下さい」と、細っこい手を上げる円居さんに、「気持ち悪いよ!」少女は怒鳴るように言って、教室を出た。
「……困ったなぁ」
残念そうな顔をして、円居さんはそのまま席に座っていた。手元から携帯電話が失われたことを、憂えているのだ。だが、少女達を追い駆けることを、円居さんはしなかった。
きっと、いつか返しに来てくれるって、心の底から信じ込んでいるからなのだろう。
やっぱり変わった子だな、とぼくは思った。
そして、その変わった子のことが、ぼくは少しばかり気になり始めてしまったのであった。
いやもう。言ってみればそれは、低俗極まりない情欲に過ぎない。端的に今のぼくの精神状態を説明してしまえば、クラスにかわいい子がいて、その子に好意のようなものを抱いている、ということである。
かつて、美術室で言われたことを思い出したのは、そういう思考を辿ってのことだ。だが実際問題、仮に運良く女の子と劇的な出会いをしたとして、そのまま女の子と仲良くなれる訳でもない。そんなみじめなぼくに対する嫌味が、彼女のあの言葉だったのである。
ぼくを一人の男としてみるに当たって、魅力となる点はおおよそ皆無だ。頭脳面、教養面、思想面においておそらく平均を大きく下回り、人格面では最底辺を這っている。そんなぼくが彼女を所有する資格があるとしたら、それはもう、ぼくが彼女を愛することくらいしか、ないのである。
そう思って、彼女の絵を描いてみたりすることもあった。
誰が見てもそれは、あまり健康な行為ではない。だがしかし、ぼくは自分の心の中に芽生えた何か美しいものを、とりあえず捻出しないと気がすまない人間なのだった。そうして紙の上に表示されたその美しいものを、ぼくは改めて堪能し、満足する。彼女の絵を描くに当たって二晩ほど徹夜してしまったが、それでも相応しいものが出来上がらなくて残念だ。
だがしかし、それはあくまでも芸術でしかなかった。ぼくが彼女に対して抱いたのは、唯一美しいものに対する支配欲程度だったということが、悲しいことに、証明されてしまったことになる。例えば、ぼくに彼女のことを愛したいとか、彼女にぼくのことを愛して欲しいとか、そんなロマンチックな感情は、皆無だった。
などというと、自分のことがよっぽど夢見がちというか、頭の沸いた人間のように思えて来てしまう。
結局。あれこれ考えた結果、いいや考える前から、ぼくは彼女に対して積極的な行動を起こすのを、放棄していた。どうしてなのかと言えば、面倒臭いというか、単に勇気が無いからなのだが。
あんな優れた造型の美少女だ。
ある画像掲示板に掲載された、ある女子高生の絵。あれに付いていたコメントに『ちょっと告白して来る』という、下品なセンスの利いた一文があった。きっと、そんな調子で彼女に声をかける男がいることだろう。それをどうするかは彼女の勝手だが、少なくとも、ぼくを受け入れて、他を拒絶するということは、ありえないのだし。
自分自身がどこまでゴミ虫なのか。それを知っていることだけが利点の根暗少年は、潔く諦めて自分の世界にでも閉じこもるべき。
そういうことだ。
「ふざけんな!」
と、ぼくは廊下の壁を蹴り飛ばした。
「ふざけんな。ふざけんな。ふざけんな」
壁でもどこでも、力の限り蹴っ飛ばしたりしたらかなり痛いことを知った。
「ちくしょう。ちくしょう」
別段、何が悔しいという訳でもない。ただ何と無く、頭に血が上った。
そんなある種、建設的理由無く暴力を行使する迷惑さんのようなことを思いつつ、ぼくはひたすらに壁を蹴り続けた。痛みが気にならない訳ではない。きっと、足が痛むから、壁を蹴るのだろう。
自分にできることは何だろう?
こんな自分にでも、できることは何だろう。
結論することもせず、ぼくは不器用な足取りで廊下を走り始めた。
たどり着いたのは音楽室。おそらくここだろうと当たりは付いていた。
綺麗に並んだ机と椅子。その中に、秩序の崩れた空間を発見して、ぼくは一人でほくそ笑む。それは誰かしら数人がそこで遊んでいた後のように見える。
無造作に近接しているそれらの机を少し調べてやると、真白い携帯電話を発見する。レゴブロックの形をしたストラップが一つだけぶら下がっている。本人が購入したものではなく、誰かからの貰い物であると予想。こんな使い込まれた携帯電話に、ストラップが一つだけというのは少し変だ。レゴが大好きなのだというのなら別だが。
携帯電話を開いて眺める。待ち受け画面には、ぼくよりも少し年上程度の少年が指を組んで佇んだ姿があった。とりとめて特徴の無い代わりに、造型的な欠点が皆無な、血の凍るような美少年。そしてこれの撮影者はちょっとばかり、不器用な人物だろう。
この少年について考察を進めることは、今はしない。あまりするべきでもないだろう。
携帯電話など手に取ったことは一度もないので、まずは思いつくままにボタンを押してみるしかない。そう思い、がちゃがちゃしているとどういう訳かオセロのゲーム画面が現れた。記録を見る。上級編に四回、勝利している。勝率は三十パーセント未満とあまりやりこんでいる様子は無いが、敵機全滅回数が一回だけ、あった。これは本人だろうか。
せっかくなのでやってみる。相手になってくれる人もおらず、オセロなんてルールを知っているだけでやったことはなかったが、上級編を選択。……勝利。
「早く帰りなさい」
背後から先生の声がかかった。ぼくは振り向かずに「分かりました」と返事を返す。音楽室は鍵が壊れているので、時々見周りの人が来るのだ。
さて。こんな無駄なことをやっていることもない。ぼくは操作を再開する。大分、慣れて来て、ぼくは画像が入ったフォルダを開くことに成功した。
中学の時のものだろうか、テストの範囲表を撮影したものが残っている他は、『お兄ちゃん』というタイトルのフォルダがあるだけだった。これは一体なんぞ、思いつつフォルダを開く。おびただしいほどの画像があった。
おびただしい、と表現するのが正しい。何故なら、飛び出したのはそれらの画像が百足や蛇や猫の、虐殺された死体だったからだ。そうでもなければ、たくさんの、とかの表現を頭の中でぼくは好んで使う。おびただしい、というと縁起の悪い物がひしめいている印象になってしまうからだ。
ただその画像フォルダは実際に気色の悪い物がいくつも、本当にいくつも並んでいたので、ぼくは相当に驚いた。気味の悪さ、それだけを考えて撮影されたそれら。首から腰までの皮膚を刃物で割って、内臓を曝け出しにした猫。頭から尾までの皮がはがれ、その先端に釘を打ち付けられてぶら下がる蛇。思い付くかどうかは別として、実行するには少々の勇気が必要だろう。
それらの撮影にはある程度技術が感じられたので、待ち受け画面の少年を撮影したのとは、また違う人物の写真であることが分かる。そこで、ぼくはいくつかの仮説を立てた。
1 待ち受け画面は持ち主が撮影したもの。これらの画像は、『お兄ちゃん』という人物から送られて来たもの。
2 待ち受け画面は持ち主以外の誰かが撮影したもの。これらの画像は、持ち主が『お兄ちゃん』という人物に送る予定、既に送られたもの。
3 待ち受け画面は持ち主が撮影したもの。これらの画像は、技術の上がった持ち主が撮影したもので、『お兄ちゃん』という人物に送る予定、既に送られたもの。
4 待ち受け画面は持ち主以外の誰かが撮影したもの。これらの画像は、『お兄ちゃん』という人物から送られて来たもの。
何れの場合も、この『お兄ちゃん』という人物について考察する必要がありそうだ。1と4の場合、その『お兄ちゃん』という人物は、持ち主に対して画像を消さないように強制力を発動している可能性がある。番外一つ、『お兄ちゃん』が持ち主の携帯電話でこれらの写真を撮影していることもありうるが。これはおもしろそうだ。
だがしかし、もう少しで下校時間を告げるチャイムも鳴り出そう。ぼくはポケットにその携帯電話を入れたまま、音楽室を出た。
円居忍がいた。
彼女は例によって困ったような顔をしていた。そこに疲れだとか、或いは悲しさだとか、もっと言えば憎しみだとかそういうものが一切存在していないのが彼女らしい。ぼくの隣を節目がちに通り過ぎ、おそらくは音楽室に入ろうとする円居さんに、ぼくは後ろから声をかけた。
「円居さん」
振り向いた円居さんは、どこかしら怯えていた。けれど同時にぼくに対する好意というか、声をかけられたことへの喜びと言うか、そういったものも覗かせる。
「何ですか?」
「これは君のだろう?」
言って、白い携帯電話を手渡す。円居さんは最初、驚いたような顔をした。それがぼくには、ちょっと意外だった。
「ありがとう」
笑顔。
今までに見たどの笑顔とも、何の相違点も見られない純粋な、美しい笑み。
ぼくは何も答えずに、彼女の脇を通り抜けた。ふつうなら恩義着せがましく「どういたしまして」とでも答えておくところなのだけれど、彼女の携帯電話を探した動機が動機だったので、それはやめた。
「あの。ごめんなさい」
背後から声がかかる。
ぼくは予想した。どこで見付けたの、に始まる様々な質問がぼくに浴びせられることになるだろう。
「何かお礼がしたいのだけれど」
絵のモデルになってくれ。
咄嗟にそう言い返しそうになるのを、ぼくは自粛して
「保留しておいてくれ」
と返した。この場合、お礼を受けるのは正当ではないと思ったのだ。しかし同時に、彼女に何かしてもらえる権利を失うことは、恐ろしい。つまり卑怯者の言い分だ。
「分かった」
言って、彼女はぼくの後ろを歩き始めた。そりゃあ、彼女も靴箱へ向かっていることになるのだから、当たり前だろう。
靴箱に至るまで、会話はなかった。
「それじゃあ。さようなら」
円居さんは急いだように、ぎこちなく走り出す。なので、ぼくはその背中を付けることができなかった。
その日の早朝、ちょっとしたハプニングがあった。教室にあぶらむしが出現したのである。つまりごきぶりだ。
きゃーきゃーと、怯えているのか喜んでいるのか分からない少女達は、どこか楽しげにそいつから逃げ惑う。せっかくだから良いところを見せれば良いのに、あぶらむしを潰そうとする男子はいない。と、教室を見回すと三人の女の子の他には、あぶらむししか教室にいなかった。
まったく、どうしたってあのあぶらむしは人間の前に姿を表したのだろう。人間の前に現れるからには、汚物そのものに向けられる視線と歓迎、つまるところ姿を捉えることすらしてくれずに逃げ惑われた挙句、有志によってスリッパでデストロイ、ティッシュやノートの切れ端に包まれてトイレへ埋葬、または箒などで乱雑に外に履き出されるというそんな憂き目にあうことは必至なのだ。
あぶらむしは教室の床を凄まじいスピードで這い回り、高校生達に不愉快と喧騒を撒き散らした挙句、何らかのシンパシーを感じてくれたのかどうかは分からないが、ぼくの足元に向けて走って来た。ぼくはその姿をぼんやりと見詰めつつ、円居さんの携帯電話にははたしてどれくらい、こいつの写真があっただろうか。そう言えば彼女、まだ学校に来ていないなと、そんなことを考えていた。
「早く捕まえて!」
そんな声が聞こえて、ぼくの顔にポケットティッシュがぶち当たった。足元のゴキブリを処分しろ、とそう言いたいのだろう。
「可哀想だとは、思わないのかい?」
ぼくが言った。一瞬、教室の空気が凍り付く。
何を言っているのだこいつは、とでも言った具合だ。何故なら、彼女らにとって、あぶらむしは生きている価値のない動物だからである。
「分かったよ」
醜いものを処分する役割はこの根暗少年が引き受けるとしよう。
でかいあぶらむしをとりあえずティッシュで捕獲する。本当は素手でやった方が早いのだが、人前でそんなことをすれば大いに引かれること間違いない。それくらいの理性的判断はぼくには行なえる。
さてこいつを握り殺して良いものだろうか。生きる価値がない、とは言ったところで、こいつが死んで悲しむ奴がいるかはともかく、喜ぶ奴は教室中にたくさんいる。それはつまり、それだけこいつが価値のある生命だということにならないだろうか。ぼくのように、死のうが生きようが誰もなんとも思わない奴と比べれば。
「待って」
と、声がかかった。
「それ、この中入れてくれない」
にやにやと、性格の悪い笑みを浮かべる少女の姿があった。……昨日、円居さんと携帯電話で騒動があった、彼女である。後ろには昨日と同じように、二人の女子が愉快そうに立っている。
彼女は椅子を引いて、机の中を指差している。それは円居さんの机だった。
あぶらむしが汚いのは、あぶらむしの所為じゃない。人間が出すゴミの中でしか生きられない彼らは、人間が出すゴミの中で汚れ、そしてその人間に嫌われる。
この場合、悪いのはもちろんあぶらむしである。人間に嫌われたくないなら、もっと清潔なところで生活すれば良いじゃないか。それができないのであれば、あぶらむしは人間との共存は無理。
言い訳だ。
ぼくは自分に向かってそう言った。
と、教室の扉が開いた。
既に話を聞かされていた人間は、皆一様に円居さんの方を見て笑った。その笑いに含まれるものが分からないでもあるまい。円居さんは一瞬、呆けたように目を丸くしたが、自分の方を見る彼女らに優しく笑いかけた。この子は良い子なんだけれど、人間として持っているべきものを、ひょっとしたらどこかに落っことしているかもしれない。
何と言うか、生まれてから一度も人と会わされたことが無いような。
「おい」
自分の席に座ろうとしている円居さんを見ながら、いじめっ子がぼくにそう言って目配せした。ぼくは首をかしげながら、円居さんの隣に歩く。
「おはよう」
円居さんの笑顔。
このクラスの、他の誰に向けるものよりも、彼女の人間らしいところが詰まった表情だった。
その時ぼくは、二つのことを決意した。
ぼくの態度が解せないのか、首を傾げる円居さん。ぼくは能面みたいな顔のまま、机の中に手を突っ込む。
「……? 何ですか?」
敬語だった。
ぼくは笑った。
さようなら。ありがとう。
言わなかった。ぼくは自分の席に戻る。おろおろとぼくの方を見ながら、その拒絶を受け取ったのか、円居さんは俯きがちに自分の席に座り、机の中を見る。
「……っ!」
自分の机の中から出て来たその生命体に、絶句する円居さん。堪え切れずに湧き出すいじめっ子連中。
自己嫌悪とか。
罪悪感とか。
そういうことをまったく感じなかった訳ではない。それどころか、ぼくは傲慢にも、周囲から受ける侮蔑の視線に対する怯えや悲しみと言ったものも、感じていたのだった。けれども、そういうものは心のどこかに蓄積されて、後から思い出して首を括りたくなるような、首を括る気力を作ってくれるような、そんな感情でしかない。
今のぼくの心の中を支配していたのは、生きて来て一度も味わったことのない、このゴミ虫には相応しくないほどに人間らしからぬ、真っ当な感傷。
失恋だった。
ぼくの頭の中は、いつも無意味なことをごちゃごちゃ考えているできの良くない頭は、驚く程に空虚に満ちていた。ただ、脳味噌が溶けて体の中に雫と滴るような、絶望的な無力感だけがあった。
それでも視線は円居さんの方にあった。
どうしてだろう。そんなの、卑怯者のぼくがやることじゃない。目を逸らして、自分の世界に逃避していたいのだ、本当は。
蒼い顔をして、円居さんはぼくの方を見ている。
どうして目を逸らせないのか。自分でも分からなかった。
「良いですよ」
……………………………………。
……今、何て言った?
円居さんはそれっきり何も言わない。こっちを見ようともしない。ただ机の中に手を突っ込んで、自愛に満ちた笑みを浮かべたと思うと、手を引き出して、それを見詰めた。
教室の空気が変わる。
それは異常な状況だった。可憐な少女の白い指先に、醜い醜いあぶらむしが乗っかっている。もっとも奸悪な理由で自分達種族を殺す人間という生き物の指先だというのに、あぶらむしはまるで母の手の中にあるように、じゃれるように触覚を動かした。
……大変だったね。
……いいよ。慣れてるから。
あぶらむしを指先に乗っけたまま、円居さんは教室を出る。その姿は途方もなく高貴で、本物のお姫様みたいだった。途中、扉の前に立っていた少年が、悲鳴を提げそうに後退る。
騒然とする教室。何てこった、と声が上がる。何々? と途中で入って来た生徒に説明する者がいる。ホームルームの時間になって、教師に説明する者がいる。
気が付けば、ぼくは机に突っ伏して泣いていた。
……ゴキブリ手に乗っけて、階段降りていた。
……外の換気扇のあたりで見た。
……先生も引いていた。
……ありえないわ。
……ねぇ。あいつのケータイってさ。
……気持ち悪い。
……なんて奴だ。
机に突っ伏していると、聞こえて来るのはそんな言葉だった。性別も立場も関係なく、どこからでも聞こえて来るその話題。人達が、ここまでこういうのが好きだとは思っていなかった。
それからもいじめっ子連中は、円居さんの昼食であるサプリメントを踏み潰したり、髪の毛を引っ張ったり、やりたい放題やっていた。
最早、それを見咎める人間がいないことを、知っているからだろう。ただ、円居忍に注がれる侮蔑の視線が、程度が違えど自分達にも同じように注がれていることには、気付かないらしい。
小学生の頃から、この辺の匙加減は変わっていない。いくら常識を身に付けたって、いくら大人になったって、やりたいことはやりたいし、正当化する理由を見つけたらやってしまう。
「こっち来いよ」
言って、いじめっ子の一人が円居さんの髪を引っ張った。円居さんは寂しそうな顔をして、席を立つ。そのままどこかへ連行されて行く。
メモを持って出かける。
数える中庭の茂みの中で、トイレの窓から、ぼくはその様子を覗き込む。取り囲むように悪辣な言葉を吐き出して、背中に四回、顔にも一回。やることがいちいち酷すぎる、円居のさん容姿に対する嫉妬もあるのか? そこに男がやって来た。助けるでもなく、一緒に笑っている。ひょっとしてこいつは、入学式の日にぼくの前に現れた奴ではなかろうか。いじめっ子のボーイフレンド。踏み台とかにはちょうど良さそうな、背の高い男。
男が暴力を加わる。これは酷い、後から目立つ場所に傷を加えることも躊躇しない。バカだ。特に細かく表記する。痛みに顔を顰め、悲しそうで、寂しそうな顔をする彼女を見ながら、男は楽しそうだ。すごく、楽しそうだ。
何をどうされたら、どれくらい痛いのか、こいつらは分かっているのだろうか。人に殴られて、痛いという感覚を、彼らはどれくらい理解しているのだろうか。
理解していて、茂みから出られないぼくは、いったいどれくらいの下種なんだろうか。
言い聞かせる。
ぼくにもできることがあるのだと。だからぼくは、数時間も経ったにも関わらず、ここでこうして生きながらえているのだから。
……だけれど。
あの時の円居さんの言葉を思い出す。何度となく、思い出してしまう。そんな自分は、はたして本当に、決着を付けられている訳ではないのだろう。
だから。これから、少しずつ、じわじわと、絶望が浸透していくのだろうなと思った。
そして、その翌日の朝のことだ。
昨日一晩中、自宅で、学校で、ゴミ置き場で、或いはと思い公園で。そこのゴミ箱の奥に、何でか知らないがいるわいるわ。
合計で四十四匹。わる三。十四から十五匹。
ちょっと足りないと思ったので、途中から百足やカナブンも捕らえていった。この際、小動物なら何でも一緒だろう。それらの入った虫篭を、いじめっ子の下駄箱の中に無造作に放り込む。
食べ物があった方が良いだろうと思って、スリッパの上にはビスケットを砕いておいた。温かい方が良いだろうと思って、季節外れのカイロまで用意した。靴箱は蓋が閉まるので、大丈夫だと思った。
驚愕し、ものすごい形相で悲鳴をあげ、泣き出すいじめっ子の仲間達を階段の踊り場で確認しつつ、ぼくは考えていた。カイロはちょっと余計と言うか、虫達にとってありがた迷惑な部分もあったかもしれない。
色々な種類の虫に食われて、ぼくの手はすっかり腫れてしまっていた。これで自身に対する制裁行為は良いかな、と自分には甘めに結論を下す。
それから、円居さんに暴力を振るった男のところに行った。ぼくは自分の非力を知っていたので、ポケットにはホームセンターで買った刃物も加えておいた。もともと人を攻撃する為のものではないから、使ってもきっと、大丈夫かな、とか思ったのである。
教室に行ってもいない。靴箱を調べたが、学校には来ていないらしい。なので街中、ぶらぶら探し回ってみると、そいつは一人でのこのこやって来た。校門で待ち伏せすればよかったなと、思った。
男はぼくの方を見ると、気さくな、自分の犬でも見るような表情で近付いた。流石に刃物は奥の手だよなぁ。何かないかなと思いながら、老朽化して道端に転がったコンクリートブロックを持ち上げて、男の顔に叩き付けた。流石にこんなのは、ぼくでもやられたことないなぁと思いながら、顔のつぶれたその男を後はしこたま殴った。円居さんがこの男に何をされたか記したメモに従って、そのままやり返す計画だったのだけれど、すぐに忘れてしまった。幸いにして、ぼくを止める人は一人もいなかったので、始業チャイムが鳴る時間が過ぎても、それを続けることができた。
「……止めろ。そいつ死ぬぞ」
言いながら表れたのは、何故かパジャマ姿の、ぼくより背の高い女の子。不摂生な髪をしているけれど、それでも綺麗な、そんな同い年くらいの子だった。
「ああ。やめるよ」
言って、しこたま蹴り付けていたその頭から離れる。女の子は息を荒げて、ぼくの方を睨むように見る。
「おまえが、姫の言ってた例の……ええと何ていったっけ? おまえ名前何ていうんだ?」
「教えたくないよ。ぼくは自分の名前が嫌いなんだ。君は?」
「あたしも嫌いだよ。自分の名前」
「ふうん。それで、何ていうの?」
女の子は面食らったように頭をかいた。「変な奴だな」
「とにかく。おまえちゃんと学校行ってるんだろう? そいつはあたしがやったことにするから。もうそんなこと、やめろよ。おまえ以外誰もそんなこと、望まないんだから」
「やだ。もっと殴りたい奴がいる」
反射的に、何と無くそう答えると、女の子は心底疑問に思っているような表情で
「本気で言ってるのか? おまえ」
そう、無邪気に問い掛けてきた。
ぼくは少し怯んで、俯きがちに首肯した。女の子は考え込むように首を捻ると、妙案を思いついたように
「じゃああたしがやっといてやるから!」
身を乗り出すようにしてそう主張した。
「本当?」
「本当だ」
「なら良いよ。……それで、君の名前は?」
再び面食らったように、女の子は後退って、それから
「久重里…………久重里シノブっつーんだ」
と、歯切れも悪く言った。




