第九話 幼馴染と雨の前夜
平凡な朝が、こんなにもありがたいものだとは思わなかった。
大学の門をくぐると、講義に遅れそうな学生が走っていく。
自動販売機の前には小さな列ができ、芝生では誰かが落としたプリントを友達と拾っていた。
俺、真柴朔の目には、植え込みの隅で居眠りする小さな怪異も見えている。
そいつは眠たそうに欠伸をして、通り過ぎる学生の靴に届かない手を振った。
「おはよう」
小声で挨拶すると、怪異は満足そうに目を閉じる。
たったそれだけのことなのに、胸が軽くなった。
名前を奪う怪異との一件から、少し日が過ぎていた。
相沢拓海は授業へ戻り、以前と同じように道を間違えたり、友達と笑い合ったりしている。
名札攫いに奪われていた記憶の一部は、まだ曖昧らしい。
それでも彼は、自分の名前をちゃんと言える。
そのことを確認するために、俺は以前より少しだけ早く教室へ行くようになった。
「真柴くん、おはよう!」
今日は相沢のほうが先に気づいた。
「おはよう。迷わず来られたか?」
「さすがに、もう覚えたよ!」
そう言いながら彼は、持っているキャンパスマップを慌てて鞄にしまった。
「……今も地図、持ってるんだな」
「お守りみたいなものかな」
相沢は少し照れた顔をした。
「ここへ来るまでの道を忘れたくないし、誰かと待ち合わせするとき便利だし」
「そうだな」
俺は頷いた。
旧講義棟の二階は、安全確認のため、資料閲覧の利用が一時的に止まっている。
職員からは、案内表示と設備を調査中だと連絡があった。
あの番号のない教室のことが分かったわけではない。
机に座ったまま名前を忘れていた人たちのことも、まだ調べなければならない。
だから俺たちは、見聞きしたことを整理し、正式に確認できる資料を探す方針を続けていた。
焦って再びあの場所へ向かっても、今度こそ戻れなくなるかもしれない。
そんな話を昨夜も、こはくと灯里としていたところだ。
「真柴くん。今日も、ありがとね」
相沢が急に言った。
「何が?」
「朝、普通に話しかけてくれること」
彼は笑った。
「それが、一番安心するんだ」
俺は何と答えればいいか分からず、とりあえず肩を軽く叩いた。
「じゃあ、今後も遠慮なく話しかける」
「お手柔らかに!」
そんな、何でもない会話で一日が始まった。
◇
午前の講義が終わったころ、白瀬灯里から連絡が来た。
『今日の午後、少し時間ある?』。
続いて送られてきたのは、写真サークルの活動案内だった。
『新緑と雨の気配を撮る』。
キャンパスから川沿いの遊歩道まで歩き、初夏の景色を撮影する企画らしい。
参加者は自由で、撮影が苦手な学生でも歓迎と書かれている。
俺は『午後の授業はないから大丈夫』と返した。
すぐに既読がつく。
『やった。こはくちゃんも誘っていい?』。
俺が答えるより先に、別の通知が届いた。
『誘われました。行きます!』。
稲守こはくだった。
どうやら灯里は、俺たち二人へほとんど同時に連絡したらしい。
その直後、こはくから俺にだけメッセージが来た。
『朔、今日は写真をいっぱい撮ってもらおうね』。
俺は『俺は被写体に向いてないと思う』と返す。
『大丈夫。私が隣にいれば笑えるでしょ?』。
……反論できないのが悔しかった。
昼過ぎ、写真サークルの集合場所へ行くと、灯里が首からフィルムカメラを下げて待っていた。
先日の集合写真を撮った、祖父から譲り受けたカメラだ。
肩にはいつもの鞄。
そこから小さなメモ帳が覗いている。
「朔くん、来てくれた!」
「誘ってくれてありがとう」
「こちらこそ。前に撮った写真も、ちゃんと四人に戻ったし……また楽しい写真を増やしたいなって」
灯里が笑う。
その表情には、以前より少しだけ柔らかな親しさがあった。
「今日は怪しいものを探さないよ。普通の景色を撮る日」
「賛成」
俺も頷いた。
そう答えたところへ、背中に軽い衝撃が来た。
「朔、発見!」
こはくが腕に抱きついてきたのだ。
「……おはよう、じゃないか。もう昼だぞ」
「だから、こんにちは」
彼女は満足げに笑い、俺の腕を離さない。
淡い黄色のブラウスに、動きやすそうなスカート。
風が吹くたびに髪が揺れて、いつもの大学構内より少し華やかに見えた。
「こはくちゃん、その服かわいい」
灯里が言う。
「ありがとう。写真撮るって聞いたから、ちょっと張り切った」
「すごく似合ってる。ね、朔くん?」
突然話を振られた。
「……ああ。似合ってると思う」
こはくの動きが止まる。
「え」
「何だよ」
「朔が、ちゃんと服を褒めた」
「褒めちゃ駄目なのか?」
「そんなことない。……もう一回言って?」
「二回目は恥ずかしい」
灯里が噴き出した。
「今の二人、撮りたかった!」
「撮らなくていい!」
俺とこはくの声が重なる。
灯里は笑いながら、カメラを下げたまま言った。
「分かってるよ。撮るときは、ちゃんと聞くから」
その約束が、何だか嬉しかった。
写真に残ることは、俺たちにとって少し特別になってしまったから。
◇
撮影会は、大学の東門から始まった。
参加者は十人ほど。先輩が順路と集合時間を説明し、人を撮るときは了解をもらうよう念を押した。
「写真って、写る人の時間も借りるからね」
灯里が俺に囁いた。
「おじいちゃんの受け売りだけど」
「いい言葉だな」
俺たちは五月の緑が濃くなった歩道を歩く。
灯里は葉先に残った水滴を見つけ、ファインダーを覗いた。
かしゃん。
「雨粒の向こうの景色が、逆さまに写ると思う」
「小さな鏡だな」
「そう。世界って、いろんなところに映るんだよ」
水滴には、歪んだ空と三人の姿が映っていた。
「私も撮ってみたい!」
こはくがスマートフォンを出す。
「少し離して、光の向きを見てみて」
灯里の助言どおりに構えると、こはくは目を輝かせた。
「わ、光ってる!」
事件の調査を始めたころ、二人は互いに慎重だった。
今は同じ画面を覗き込み、笑っている。それが嬉しかった。
「朔、次はモデルになって」
こはくに呼ばれ、街路樹の下へ立つ。
「笑って」と言われても、俺の顔は固まるばかりだ。
灯里が考えるように首を傾げた。
「じゃあ、こはくちゃんに今日の朝ご飯を聞いてみて」
「……こはく、今朝何食べた?」
「朔のために作るつもりだった卵焼きの試作品」
「味見は?」
「甘すぎた。次は朔に食べてもらいたいな」
「じゃあ、俺の分も作ってくれ」
「うん!」
思わず笑った瞬間、こはくがシャッターを切った。
「撮れた! 朔、すごくいい顔!」
灯里も覗き込んで頷く。
「自然な顔になったね」
「……二人で仕組んだな?」
こはくは笑いながら、写真を大切そうに保存した。
誰かが俺の笑顔を喜ぶことに、まだ少し慣れない。
◇
撮影会の後半は、川沿いの遊歩道だった。
夕凪市を流れる川は、この辺りで緩く曲がっている。
水面には建物や橋が映り、風が吹くたびに輪郭が崩れた。
先輩たちは少し離れた場所で、花と水面の撮り方について話している。
灯里は俺たちを、小さな橋のたもとへ呼んだ。
「ねえ、ここで二人の写真を撮ってもいい?」
「二人って、俺とこはく?」
「うん。さっきから、二人で川を見てるところがよかったから」
こはくが先に頷いた。
「いいよ。朔もいい?」
「ああ」
俺たちは橋の欄干に並んだ。
川の向こうから、湿った風が吹いてくる。
「もう少し、自然にしてて」
灯里がカメラを構える。
こはくが俺の袖を引いた。
「朔、あれ見て」
対岸の柳の下に、小さな亀が顔を出していた。
「亀?」
「うん。頑張って石に登ろうとしてる」
見れば、確かに小さな亀が水際の石に何度も前足を掛けている。
「あ、滑った」
「もう少しなのに」
二人して見守っていると、亀はようやく石の上へ乗った。
「やった」
思わず、こはくと顔を見合わせて笑う。
かしゃん。
灯里がシャッターを切った。
「……いいのが撮れたと思う」
「今の、亀が写ってる?」
「亀は小さすぎて、たぶん写ってないかな」
「そっか」
こはくは残念そうに頷く。
灯里は何か言いかけ、少し迷ってから笑った。
「でも、亀を見て笑った二人は写ってる」
その言葉に、こはくの頬がほんの少し赤くなった。
「……それなら、いいかな」
俺が首を傾げると、灯里はファインダーを下ろした。
「次は、朔くん一人も撮りたいな」
「俺?」
「うん。こはくちゃんの隣で笑ってるところもいいけど、一人で考えてる顔も撮ってみたい」
こはくの手が、俺の袖をきゅっと握った。
灯里は続ける。
「前に資料室で調べてたときも思ったんだけど、朔くんって、人の話を聞くときの顔がすごく真剣なんだよね」
「そんなに観察されてたのか」
「写真を撮る人は、ついね」
灯里はいたずらっぽく笑った。
「もちろん、嫌だったら撮らないよ」
「嫌じゃないけど……慣れないな」
「じゃあ、少しずつ慣れよう」
灯里の言葉は自然だった。
まるで、これからも一緒に過ごす時間があると信じているみたいに。
俺は思わず、彼女を見つめた。
「……朔?」
こはくが小さく呼んだ。
振り返ると、笑っているはずの彼女の目が、少しだけ寂しそうだった。
「こはく、どうした?」
「ううん。何でもない」
そう言って、彼女は俺の袖を離す。
その動きが、いつもより静かだった。
灯里も何かを感じたのか、カメラを下ろした。
「こはくちゃん。さっき撮った写真、現像したら一緒に見ようね」
「うん。楽しみ」
こはくは笑い返した。
けれど、俺はその笑顔に、まだ何か言い足りないものがある気がした。
◇
休憩時間に、俺は飲み物を買いに自動販売機へ向かった。
三本買って戻ろうとすると、ベンチの向こうからこはくと灯里の声が聞こえた。
「……ねえ、こはくちゃん。私が朔くんと仲良くしてるの、嫌?」
思わず足が止まった。
聞いてはいけない会話だ。そう思って引き返しかける。
「……嫌じゃないよ」
こはくの答えが、雨の前の風に乗って届いた。
「灯里ちゃんと仲良くなれて、私も嬉しい。でも、ときどき私の場所がなくなるみたいで……寂しくなる」
胸が痛んだ。
幼馴染として隣にいるのが当たり前すぎて、俺はこはくがそんなふうに考えていたことに気づかなかった。
「そんなことないよ」
灯里は静かに答えた。
「大切な場所なら、なくなるのが怖いのは普通だと思う。それに、私はこはくちゃんのことも大切にしたい」
「……ありがとう」
そこで俺は、袋を持つ手を動かしてしまった。
かさり、と音がする。
二人の視線がこちらを向いた。
「……朔?」
「ごめん。今戻ったところで、少し聞こえた」
俺は頭を下げた。
こはくは一瞬赤くなり、それから俺が差し出したお茶を受け取る。
「……あとで、少し話せる?」
「もちろん」
俺が答えると、こはくは小さく頷いた。
灯里が空を見上げる。
「そろそろ戻ろうか。雲、厚くなってきた」
西の空に灰色の雲が広がり、まだ降っていない雨の匂いがした。
◇
撮影会が終わったのは、夕方の少し前だった。
サークルの先輩が人数を確認し、解散を告げる。
灯里は撮り終えたフィルムを丁寧に鞄へしまい、俺たちのところへ来た。
「今日は来てくれてありがとう。楽しかった?」
「ああ。写真って、見る場所を変えるだけでこんなに違うんだな」
「でしょ? また来てね」
「うん、次も誘って」
こはくが笑顔で答える。
灯里は少し安心したように頷いた。
「私はこのあと、サークルの部室にフィルムを預けに行くね。先輩と現像の予定を確認したいから」
「一緒に行こうか?」
俺が尋ねる。
「大丈夫。部室には人がいるし、そのあとバスで帰る予定なの」
灯里は空を見上げる。
「天気予報、夜から大雨なんだって。二人も早めに帰ってね」
「分かった。気をつけて」
「朔くんも、こはくちゃんも」
灯里が手を振った。
歩き始めた彼女が、数歩先で振り返る。
「こはくちゃん!」
「なあに?」
「さっきの話、無理に忘れなくていいからね」
こはくは少しだけ驚き、それから笑った。
「……うん。ありがとう、灯里ちゃん」
灯里は頷き、部室へ向かっていった。
俺たちは、二人きりになった。
「……朔」
こはくが俺の顔を見上げる。
「何?」
「今日、うちに寄っていく?」
「え?」
「あ、違った。私が朔の部屋に寄っていい? 夕飯、まだでしょ」
言い直してから、彼女は少し照れたように笑った。
「話したいこともあるし」
「もちろん。じゃあ、一緒に買い物して帰るか」
「うん」
こはくが、そっと俺の袖をつまんだ。
さっきまでのように腕を絡めてはこない。
その控えめな仕草が、逆に気になった。
◇
帰り道、こはくとスーパーへ寄った。
店の窓の向こうでは、雨雲が街を覆い始めている。
「夕飯、何がいい?」
「朔が作る、温かいもの」
「それだと選べないぞ」
「じゃあ、鶏肉と野菜のスープ。あとおにぎり!」
「生姜も入れるか。ご飯は炊いてあるし」
「うん。朔の冷蔵庫事情は把握してます」
「いつのまに」
「一緒に買い物してると、覚えるよ」
こはくは得意そうに笑った。
買い物を終えた瞬間、ぽつりと雨が落ちてきた。
空を見上げたときには、もう大粒の雨になっている。
「朔、傘!」
「ある!」
俺は折り畳み傘を開き、こはくを中へ招いた。
肩が触れる。雨音で街の声が遠くなる。
「……狭くないか?」
「ちょうどいい」
彼女は俺の腕をそっとつかんだ。
俺は傘を少し彼女のほうへ傾ける。
「朔、そっちの肩が濡れてるよ」
「こはくが濡れるよりいいだろ」
「……そういうの、ずるい」
「何が?」
「後で教える」
こはくは袖を握り直し、俺たちはアパートへ急いだ。
◇
部屋に着くころには、二人とも髪の先が濡れていた。
「タオル使って。風邪ひくぞ」
「朔もね」
こはくはタオルを受け取り、自分の髪を拭いてから、俺の濡れた前髪を指さした。
「ほら、まだ」
「今拭くって」
彼女は笑い、台所へ買い物袋を運ぶ。
窓を叩く雨はしばらく弱まりそうになかった。
「止むまで、ゆっくりしていけよ」
「うん。ありがとう」
俺が鶏肉を切り、こはくは野菜を刻む。
鍋に生姜の香りが立ち、二人で台所に立つ時間が戻ってきた。
「今日の写真、楽しみだね」
「ああ。亀を見て笑ったときのやつとか」
「……ああいう時間、ずっと続けばいいな」
こはくは少し遠くを見る目をした。
「続ければいいじゃないか。またみんなで撮りに行けば」
「……うん。そうだね」
笑ったあと、彼女は何かを言いかけて飲み込んだ。
俺はベンチで聞いた言葉を思い出す。
『私の場所がなくなるみたいで、寂しくなる』。
その寂しさを、今夜はちゃんと聞きたいと思った。
◇
夕飯は、思ったよりうまくできた。
生姜の香りがするスープに、二人で握ったおにぎり。
こはくは一口飲んで、目を細める。
「……おいしい」
「よかった」
「なんか、ほっとする味」
「今日、雨で冷えたからな」
俺もスープを飲んだ。
温かさが、体の内側から広がっていく。
こはくが自分のおにぎりを見つめた。
「ねえ、これ形ちょっと変じゃない?」
「三角っていうより、丸いな」
「朔が握ったやつだよ」
「……そうだった」
彼女が笑う。
「昔から、朔のおにぎりって丸いんだよね」
「そうか?」
「うん。小さいころも、遠足で一緒に食べたやつ、丸かった」
「よく覚えてるな」
「忘れないよ」
こはくは、何でもないことのように言った。
でも、その一言が胸に残った。
忘れない。
名前のない講義室を抜けたあと、その言葉は以前より重くなっている。
食器を片付け、二人で洗い物を終える。
窓の外では雨が少し弱くなっていたが、遠くで雷が鳴った。
こはくはソファの端に座り、足元へ小さなクッションを引き寄せる。
「ここ、座っていい?」
「そこ、こはくの定位置だろ」
「……そうだね」
彼女は少しだけ笑った。
俺は隣に座る。
いつもと同じ距離。
けれど、今日はその距離が少し違って感じられた。
こはくの髪からは、まだ雨の匂いがした。
彼女はしばらく窓を見つめ、それからぽつりと言った。
「……朔」
「うん」
「さっき、ベンチで話してたこと、聞いたんだよね」
「……ああ。途中からだけど」
俺は正直に答えた。
「ごめん。盗み聞きみたいになって」
「ううん。別に、秘密にしてたわけじゃないから」
こはくは膝の上のクッションを軽く抱きしめた。
「でも、朔に聞かれると、ちょっと恥ずかしいね」
「……俺も、何て言えばいいのか分からなくて」
彼女は首を振る。
「今、無理に答えなくてもいいよ」
しばらく、雨音だけが聞こえた。
こはくは息を吸い、少しだけ俺のほうへ体を向ける。
「……ねえ、朔」
「何?」
「幼馴染って、いつまで幼馴染なのかな」
俺は、すぐに答えられなかった。
ずっと一緒にいた。
子どものころから、当たり前のように隣にいた。
大学生になっても、それは変わらないと思っていた。
でも、こはくは今、その当たり前を少しだけ揺らしている。
「……どういう意味?」
ようやく聞くと、こはくは少し困ったように笑った。
「言葉どおり、かな」
「幼馴染は、幼馴染のままだと思うけど」
「うん。私もそう思ってた」
彼女はクッションの端を指でなぞる。
「でも、それだけじゃ足りなくなることって、あるんだね」
俺は息を呑んだ。
「朔といると、安心する。昔から、そうだった」
こはくの声は静かだった。
「だけど最近、安心するだけじゃなくて……ほかの女の子と楽しそうに話してるのを見ると、胸の奥がちくってする」
俺は灯里の笑顔を思い出した。
写真を撮るときの真剣な顔。
俺たちを見て、からかうように笑う顔。
そして、こはくの寂しさを真剣に受け止めた声。
「灯里のこと?」
「……うん。灯里ちゃんだけじゃないかもしれないけど」
こはくは少し笑った。
「こんなふうに言うと、灯里ちゃんが悪いみたいになっちゃうね。でも、違うんだよ」
「分かってる」
俺は頷いた。
「灯里は、何も悪くない」
「うん。私、あの子のこと好きだよ。一緒に写真を撮るのも、話すのも楽しい」
こはくは顔を上げた。
「だから余計に、自分の気持ちが分からなくなる」
俺は、何か答えなければと思った。
でも、軽い言葉では傷つけてしまいそうだった。
「……こはく」
「うん」
「俺、おまえが隣にいるのが当たり前だと思ってた」
こはくが目を細める。
「知ってる」
「それが、どれだけ大事なことか、ちゃんと考えてなかったのかもしれない」
俺は自分の手を見つめた。
「あの講義室で、こはくの手が離れたらどうしようって、本当に怖かった」
「……うん」
「でも、帰ってきたら、またいつも通りにできるって、勝手に思ってた」
こはくが首を横に振る。
「私も、そうしたかったんだと思う」
彼女は少しだけ目を伏せた。
「怖かったことを忘れて、また朔のご飯を作って、授業の話をして……それで、ずっと一緒にいられるって」
雨音が窓を叩く。
「でも、ずっと一緒って、何も言わなくても続くわけじゃないんだね」
俺は彼女の横顔を見た。
子どものころから知っている顔。
それなのに、今は初めて見る表情だった。
「……こはく。俺、ちゃんと考えたい」
そう言うと、彼女がこちらを向いた。
「俺たちが、これからどういう関係になるのか」
「……うん」
「簡単に答えたくない。こはくが大事だから」
彼女の瞳が揺れた。
「大事、か」
「それだけじゃ足りないなら……ちゃんと考える」
「ふふ。朔って、そういうところ真面目だよね」
こはくは小さく笑った。
「でも、嫌いじゃない」
その言い方が、妙に近く感じられた。
◇
雷が、遠くでもう一度鳴った。
窓ガラスがかすかに震える。
こはくはクッションを置き、肩を少し寄せてきた。
「……もうちょっと、近くにいてもいい?」
「いいよ」
俺は答えた。
こはくがゆっくり近づき、肩が触れる。
その距離に、俺の心臓が少し速くなった。
幼いころ、神社の階段で並んで座ったことを思い出す。
雨上がりの境内で、こはくが尻尾を出してしまい、俺だけがそれを見ていた日。
彼女は慌てて隠そうとしたけれど、俺は何が悪いのか分からなかった。
それよりも、濡れた石段で転びそうな彼女の手を取るほうが大事だった。
そのときも、こはくの手は温かかった。
「……昔のこと、思い出した」
俺が言うと、こはくが顔を上げた。
「何?」
「神社で、こはくが尻尾を出して、慌てて隠そうとした日」
「……ああ!」
彼女は目を丸くする。
「覚えてたの?」
「うん。転びそうになったのも」
「それは忘れてよ」
「無理だな」
こはくが俺の腕を軽く叩く。
「もう、朔ってば」
二人で笑った。
その笑いが収まったあと、こはくは小さく呟いた。
「……あのころはね、朔が私のことを見てくれるだけで、嬉しかった」
俺は返事をせず、彼女の言葉を待った。
「みんなには見えないものを、朔は普通に見てくれた。怖がらないで、名前を呼んでくれた」
こはくの指が、俺の袖をつまむ。
「それだけで、私はここにいていいんだって思えた」
胸が締めつけられる。
「……今も、そう思ってる?」
俺が尋ねると、こはくは少し考えた。
「うん。でも、今はそれだけじゃない」
彼女は俺を見た。
「朔の隣にいたい。誰かに譲りたくないって思う日もある。……そんな自分を、ずるいって思う日も」
「ずるくないよ」
俺は言った。
「そう思ったことを、ちゃんと話してくれたんだから」
こはくが少し驚いた顔をする。
「……怒らない?」
「何で怒るんだ」
「だって、面倒くさいでしょ」
「面倒くさくない」
俺は即答した。
「こはくが何を考えてるのか、知りたい」
彼女は目を伏せ、耳まで赤くなった。
「……そういうこと、さらっと言うんだから」
「今のは本音だぞ」
「だから困るの」
こはくは笑った。
やがて、彼女の髪のあいだから狐耳が現れた。
室内の静けさに安心したのか、柔らかな毛が小さく揺れる。
尻尾も、ソファの端からそっと伸びた。
「……疲れてないか?」
俺が聞く。
「大丈夫。あの日、火を使いすぎたけど、ちゃんと休んだから」
こはくは尻尾を軽く揺らした。
「それに、朔の部屋だと、隠さなくていいし」
「隠さなくていいよ」
「……うん」
彼女は小さく頷いた。
俺は、そのまま彼女の耳を見ていた。
「……何?」
「いや。いつ見ても、ちゃんと動くなって」
「当たり前でしょ。私の耳だもん」
「そうだよな」
こはくは少し悪戯っぽく笑った。
「触ってみたい?」
俺は言葉に詰まった。
「……いいのか?」
「うん。朔なら」
彼女が頭を少し傾ける。
俺はゆっくり手を伸ばし、耳の先にそっと触れた。
柔らかい毛が指に触れる。
こはくの耳がぴくりと動いた。
「……くすぐったい」
「ごめん」
「嫌じゃないよ。ただ、急に近いから」
こはくが顔を上げる。
思っていたより、ずっと近かった。
俺の手は彼女の髪の近くにあり、こはくの指は俺の袖を握っている。
少し動けば、肩だけじゃなく、もっと近くで触れ合ってしまいそうだった。
こはくの目が、俺の目をまっすぐ見つめる。
その視線が、いつものいたずらとは違っていた。
「……朔」
「……うん」
言葉が出てこない。
何か大切なことを伝えたいのに、どこから話せばいいのか分からない。
俺は、彼女の肩へ手を伸ばしかけた。
そのとき、窓の外で大きな雷が鳴った。
「きゃっ」
こはくが小さく肩を跳ねさせる。
俺も驚いて手を引っ込めた。
二人とも、しばらく固まった。
「……今、驚いた?」
俺が聞く。
「……うん。ちょっとだけ」
「狐って、雷は平気じゃないのか?」
「何その偏見」
こはくがむっとした顔をする。
次の瞬間、二人で笑ってしまった。
張りつめていた空気が、少しだけほどける。
「……朔」
「何だ?」
「今の、なかったことにする?」
こはくが小さな声で聞いた。
俺は少し考え、首を振った。
「……しない」
彼女の目が揺れる。
「ちゃんと覚えておきたい」
俺が言うと、こはくは頬を染めたまま笑った。
「……私も」
それ以上、どちらも何も言わなかった。
でも、何も変わらなかったわけではない。
隣に座る彼女との距離が、さっきより少しだけ大切に感じられた。
◇
雨が弱くなったのは、夜九時を過ぎてからだった。
窓の外では、屋根を叩く音がようやく静かになっている。
「そろそろ帰ろうかな」
こはくが立ち上がった。
「遅くなったし、送るよ」
俺も立ち上がる。
「うん。じゃあ、途中まで一緒に」
こはくは靴を履き、玄関で振り返った。
「今日、ありがとう。夕飯も、おいしかった」
「こちらこそ。手伝ってくれて助かった」
「また作ろうね」
「ああ」
こはくは少し迷ってから、俺へ手を伸ばした。
「……手、つないでいい?」
「いいよ」
俺はその手を取った。
夜の廊下へ出ると、雨上がりの空気がひんやりしていた。
街灯の下で、濡れた道が静かに光っている。
こはくは、いつもより少しだけゆっくり歩いた。
「朔」
「ん?」
「幼馴染って、便利な言葉だと思ってた」
「どうして?」
「隣にいても不思議じゃないし、手をつないでも、いつものことって思ってもらえるから」
彼女が俺を見る。
「でも、いつものことって、ずっと同じ気持ちとは限らないんだね」
「……そうだな」
俺は頷いた。
「俺も、少しずつ考えてる」
「うん。私も」
こはくが笑う。
「急がなくていい。でも、いつかちゃんと話してね」
「約束する」
俺が答えると、彼女は手を握り返した。
その温かさが、夜風の中ではっきりと伝わってきた。
こはくの家へ続く分かれ道で、俺たちは立ち止まる。
「ここからは大丈夫。すぐそこだから」
「着いたら連絡して」
「うん。朔も気をつけて帰ってね」
こはくは手を離した。
少しだけ名残惜しそうに笑ってから、街灯の下を歩いていく。
俺はその背中を見送った。
子どものころから、何度も見てきた背中。
でも、今夜は少し違って見えた。
いつか、ちゃんと答えを出さなければいけない。
それは、怖いことでもあり、少しだけ楽しみなことでもあった。
◇
部屋へ戻ると、スマートフォンが震えた。
こはくからのメッセージだった。
『無事に着いたよ。今日はありがとう』。
続いて、写真が一枚送られてくる。
今日、こはくが俺を撮った写真だった。
街路樹の下で、俺が少し笑っている。
カメラの向こうにいたこはくを見て、自然に笑った瞬間。
『この顔、好き』。
短い言葉に、俺はしばらく画面を見つめた。
返事を考えているうちに、また通知が届く。
今度は灯里だった。
『今日は楽しかった! 現像できたら、写真見に来てね』。
俺は二人に、それぞれ返信した。
こはくには『俺も今日は楽しかった。また夕飯作ろう』。
灯里には『ありがとう。写真、楽しみにしてる』。
送信すると、部屋が静かになった。
窓を開けると、雨の匂いがした。
遠くの空には、まだ厚い雲が残っている。
天気予報では、これからしばらく雨の日が続くらしい。
俺は窓の外を眺めながら、今日のことを思い返した。
水滴に映った小さな空。
川を見つめて笑ったこはく。
ファインダーの向こうで真剣な顔をしていた灯里。
そして、雨音の中で聞いた、こはくの問いかけ。
『幼馴染って、いつまで幼馴染なのかな』。
答えは、まだ出ていない。
でも、答えを探すことから逃げたくはなかった。
雨はもう止んでいた。
それでも、窓の下には小さな水たまりが残り、街灯の明かりを揺らしている。
明日また雨が降ったら、今度はどんな景色が見えるだろう。
そんなことを考えながら、俺は窓を閉めた。
――第九話 了
ここまで読んでくれてありがとうございました!
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