第八話 忘れられた名前を呼べ
ま。
し。
ば。
白い名札に浮かんだ文字が、濡れた墨のように広がっていく。
『次はあなたの番です』
名札攫いの声が、講義室の隅々まで響いた。
教室の後ろには、新しく現れた三つの机。
そのどれにも、白い名札が用意されている。
俺、真柴朔は、喉の奥に張りつく恐怖を必死に飲み込んだ。
稲守こはくの狐火が、青い輪になって俺たちを囲んでいる。
その内側に、俺と、こはくと、白瀬灯里がいた。
けれど炎はさっきより細く、暗い床に押し返されている。
「……まだ、全部は書かれてない」
こはくが俺の耳元で言った。
「どういうことだ?」
「名前の形を探られてる。でも、自分から答えたわけじゃない。だから、向こうも最後までは捕まえられない」
名札の先で、墨のような黒い線が迷うように曲がった。
『お名前を、確認させてください』
「……答えるな、ってことか」
「うん。誰かが名前を呼ぶのと、自分で差し出すのは違う。たぶん、それがここの決まり」
こはくの声には、確信と不安が混じっていた。
俺は頷き、名札攫いを見返した。
怖くないわけがない。
それでも、俺の目は後ろの席にいる一人を探していた。
窓際から二列目。
床に落ちたキャンパスマップを拾おうとする男子学生。
相沢拓海だ。
名簿から消えて、みんなの記憶からもいなくなった、俺の友達。
彼はまだ自分の名前を思い出せない。
俺には彼が、ほかの誰よりもはっきり見えているのに。
「朔くん」
灯里が小さなメモ帳を差し出した。
開かれたページには『声で名乗らない』『入口を記録中』『別れない』とある。
その下に、さっきまでなかった一文が増えていた。
『呼ばれた名前を、取り戻す』。
「……私たちが、何をしに来たか忘れないように」
灯里は唇を引き結んだ。
「あの人を探してたんだよね。ここにいたからって、帰る理由がなくなったわけじゃない」
俺は深く息を吸った。
「ああ。ありがとう」
「うん」
名札攫いが、教卓に長い指を置いた。
『出席確認を、続けます』
かちん。
乾いた音がして、俺の目の前に白い札が浮かぶ。
そこには「ましば」の三文字が残っていた。
あと一度でも返事をすれば、続きが書かれてしまう。
そんな予感がした。
俺は札ではなく、相沢を見た。
「相沢拓海!」
名前を呼ぶ。
教室の窓が震えた。
名札攫いの胸元で、何枚もの札が一斉に鳴る。
『処理済みの記録を、読み上げないでください』
「そいつは記録じゃない」
自分の声が、思ったより大きく響いた。
「ここにいる、俺の友達だ」
相沢が顔を上げる。
「……僕のことですか?」
「そうだ!」
俺はもう一度言った。
「相沢拓海。東雲大学の一年生。俺と同じ基礎演習を受けてる」
相沢は、途方に暮れたように自分の胸を見た。
「あいざわ……たくみ……」
口を動かした。
その瞬間、机の白い札を黒い糸が這った。
「っ……!」
彼は苦しそうに頭を抱える。
俺は思わず駆け出しかけた。
こはくが袖をつかむ。
「朔、待って。今近づいたら、足元の輪が切れる」
「でも!」
「呼んであげて。ここからでも声は届く」
彼女の瞳が俺をまっすぐ見た。
「私が、火をつないでおくから」
頼りない光の向こうで、相沢が俺を見つめている。
俺は唇を噛み、それからもう一度息を吸った。
「相沢。最初に会った日、おまえ、教室を間違えそうになっただろ」
「……教室?」
「そうだ。建物の名前が似てるって、地図を裏返してた」
「迷ったら時計台って、そう言って笑ってたじゃないか」
相沢の指がぴくりと動いた。
床に落ちた地図を見つめる。
「……時計台」
「大学の真ん中にある。新入生が迷ったときの目印だって」
「……うん」
彼の唇が、わずかに上がった。
「何となく……それ、僕が言いそうです」
その言い方が、いつもの相沢に少し似ていた。
『私語を、慎んでください』
名札攫いが腕を上げる。
黒板の白い横線が、蛇のようにうねった。
机の上の札から黒い糸が伸び、相沢の手首へ絡みつこうとする。
「……させない!」
こはくが小さな狐火を放った。
青い光が糸を照らすと、黒い線は一瞬だけ緩む。
燃え尽きはしない。
それでも、相沢が手を引くには十分だった。
「今のうちに!」
こはくの声に押され、俺は叫んだ。
「相沢拓海!」
名前が、教室の後ろまで届く。
相沢の肩が震えた。
「……僕は」
彼は胸に手を当てた。
「僕は……誰かに、呼ばれてた……?」
「そうだ。俺が呼んでる」
こはくの火がちらつく。
まだ足りない。
名前を聞かせるだけでは足りない。彼には、帰る先を思い出してもらわなければ。
◇
「朔くん、これ!」
灯里がスマートフォンを掲げた。
画面に映っているのは、写真サークルの活動で撮った集合写真のデータだった。
俺、こはく、灯里の三人が写っている。
そして俺の隣には、ひとり分の不自然な空白。
「この空白、相沢くんが立ってた場所なんだよね」
「ああ。俺の隣に立ってた」
「撮影したときのこと、全部は思い出せない。でも、ここに誰かがいたって分かる」
灯里は写真を拡大した。
空いている場所へ、俺とこはくの視線が向いている。
「相沢くん、見て」
灯里は画面を彼のほうへ向けた。
「写真を撮ったとき、君はここにいたんだと思う」
「……僕が?」
「うん。私にはまだ、君の顔がちゃんと思い出せない。でも、写真を撮った人間として、これだけは言える」
「この構図には理由がある。ここに空白を作るために、三人で並んだんじゃない」
相沢は、画面をじっと見つめた。
「……写真」
「フィルムカメラで撮ったの。みんなで、ちょっと照れながら」
灯里は首から下げたカメラに手を当てた。
「この写真の元になったネガも残してある。今ここで現像はできないけど、私が確かに撮った一枚だよ」
「……家に」
かすれた声が漏れた。
「家に、見せたかった」
俺は息を止めた。
「そうだ。おまえ、家族に送りたいって言ってた」
「写真、送ったら……」
相沢の口元が、少しずつ動く。
「大学で友達ができたって、見せられると思ったんだ」
その瞳に、ようやく焦点が合った。
「……そうだ」
相沢が呟いた。
「僕、変に緊張して、顔が引きつったんだ」
「覚えてるのか?」
「まだ、ちょっとだけ。でも……写真って、そういうものだから」
灯里が小さく笑う。
「うん。格好いいところも、ちょっと変なところも、残っちゃう」
相沢も、つられるように笑った。
その笑い方を、俺は知っている。
「相沢拓海」
俺はもう一度呼んだ。
「おまえが言ったんだ。『迷ったら時計台』って」
相沢が目を閉じる。
「……迷ったら、時計台」
教室の時計が、かちりと動いた。
七時二十七分を指していた針が、七時二十八分へ進む。
同時に、俺の前に浮かんだ名札から、最後の黒い線が少し剥がれた。
『不適切な記録です』
名札攫いの声が、初めて揺れた。
『削除済みの人物について、証言しないでください』
「証言って、何だよ」
俺は答えた。
「ただ、友達の話をしてるだけだ」
相沢の顔が見える。
この場所に来てから、少しずつ薄れていた輪郭が、俺にはますます鮮明になった。
こはくは目を細める。
「……私にも、少し見えてきた」
「本当か?」
「うん。さっきまでは、席に人がいるってことしか分からなかった。でも今は……笑った顔が分かる」
灯里も頷いた。
「私も。まだ曖昧だけど、さっきよりずっと」
相沢は、戸惑いながら自分の両手を見た。
「……僕、本当に、ここから帰っていいんですか」
「当たり前だろ」
俺の声が、思わず強くなった。
「帰るために迎えに来たんだから」
「……帰りたい」
やがて、小さく言った。
「ここ、寒いんです。ずっと、誰かが迎えに来るのを待ってた気がする」
俺は手を伸ばしかけた。
まだ距離がある。
教室の床は、黒い線で埋まり始めていた。
名前を思い出しかけた相沢を、あちらは逃がすつもりがない。
『着席してください』
名札攫いが低く命じる。
学生たちが一斉に机へしがみついた。
『出席確認は、終わっていません』
黒い糸が、俺たちの足元にも伸びてくる。
こはくの狐火が火花を散らした。
「……ここから、急がないと」
◇
灯里はスマートフォンの画面を切り替えた。
「こはくちゃん、出口の写真を見て」
そこには、旧講義棟へ入ったときに撮影した廊下が写っていた。
資料室の扉と非常口の案内板、その向こうの窓。
まだ何も起きていなかった頃の、普通の廊下だった。
「これが最初の基準。ここから廊下の向きを比べてきたんだけど……」
灯里は画面を横に滑らせる。
次は、教室に入ってから撮った写真。
同じような位置に扉があるのに、黒板の向きが逆になっている。
さらに次の写真では、扉が増えていた。
「この部屋、撮るたびに通路が変わってた。でも、写真を順番に並べると、変わっていないものもある」
「何?」
俺が尋ねる。
「窓の下にある、欠けたタイル。ほら、この小さな三角形」
彼女の指先を追う。
白っぽいタイルの一枚に、三角形の欠けがあった。
最初の廊下の写真にも、教室の写真にも、同じ形が写っている。
扉の数や位置は変わっても、その傷だけは残っていた。
「どこまでが本当の通路なのかは、まだ分からない。でも、これを目印にできないかな」
こはくが写真と壁を見比べる。
「……できるかもしれない」
彼女は狐火をもう一つ、壁際へ送った。
青い炎がタイルの欠けに触れる。
すると、壁の向こうから冷たい空気が流れ込んできた。
「見つけた!」
灯里が声を上げる。
「そこ、写真に写ってた廊下の角とつながってる!」
「でも、まだ開かない」
こはくは額に汗を浮かべた。
「道の位置は分かった。あとは、向こうへ帰る人を、この場所が手放さないと……」
俺は相沢を見た。
彼は立ち上がっていた。
机の名札が、まだ彼を引き留めようとしている。
黒い糸が足元へ伸び、その影を床に縫いつけていた。
「相沢! 俺の声が聞こえるか!」
「……聞こえる!」
初めて、返事に力があった。
「そこから出たいんだよな!」
「うん! 帰りたい!」
「だったら、その地図を持ってこい!」
相沢は床のキャンパスマップを拾った。
白くなった建物名の間に、ひとつだけ文字が浮かび始めている。
時計台。
彼はその文字を指で押さえた。
「……ここだ」
「そうだ。戻ったら、そこで待ち合わせしよう」
「誰と?」
「俺たちとだよ」
相沢の視線が、俺、こはく、灯里へ順番に向く。
「……みんなで?」
「もちろん」
灯里が笑った。
「今度こそ、ちゃんと四人で写真を撮ろう」
「それ、いいね」
相沢は笑った。
その笑顔が、今度は消えなかった。
「……僕の名前」
彼はゆっくり言った。
「相沢……拓海」
教室中の白い札が、はじけるように震えた。
『訂正を、認めません』
名札攫いが声を張り上げた。
暗い顔のくぼみが、ぐっと大きくなる。
『一度失われた名は、戻りません』
俺は首を振った。
「戻ってるじゃないか」
「相沢拓海は、ここにいる。自分の名前を言えた。それが答えだ」
名札攫いの腕から、何枚もの札が落ちた。
床に触れた札は白くなり、紙片のように崩れていく。
こはくが俺の肩を叩いた。
「朔、今!」
青い火が、一筋の道になって相沢へ伸びる。
俺は走った。
床板が軋み、黒い線が靴底へ絡もうとする。
こはくの火がその線を照らし、ほんの少しだけ押しのける。
一歩。
もう一歩。
相沢がこちらへ手を伸ばす。
「……真柴、くん?」
彼の声が聞こえた。
俺は思わず笑ってしまった。
「そうだよ」
掴める距離まで近づいた。
「遅くなって、ごめん」
「……ううん」
相沢は首を振る。
「来てくれて、ありがとう」
俺は彼の手を、しっかり握った。
温かかった。
生きている人間の手だ。
ここにいることを、確かめることができる。
「離すなよ」
「そっちこそ!」
相沢が少し笑う。
俺たちは一緒に駆け出した。
◇
名札攫いが、教壇の前に立ちはだかる。
『退出は、認められていません』
何十枚もの名札が飛んでくる。
俺はとっさに相沢の頭をかばった。
背中へ何かが触れる。
冷たい。
記憶を一枚、背中から剥がされるような嫌な感覚だった。
大学の校門。
入学式。
最初の授業。
浮かんだ光景の端が、一瞬だけ白くなる。
「朔!」
こはくの声が、その白さを引き戻した。
青い狐火が俺の背後で弾ける。
名札がはじき飛ばされ、床へ落ちた。
「……大丈夫?」
「ああ。まだ、覚えてる」
俺は答えた。
こはくは安堵したように息を吐く。
「もう、私の前で勝手に消えようとしないで」
「するつもりはないって」
「つもりだけじゃ、足りない」
彼女の声が少し震えていた。
俺は相沢の手を握ったまま、空いたほうの手をこはくへ伸ばした。
「じゃあ、帰るまで手伝ってくれ」
こはくは一瞬だけ驚いた顔をした。
それから、俺の手を取る。
「もちろん。何度だって」
灯里が扉の前から叫んだ。
「二人とも、こっち! 写真と同じ場所に、印をつけた!」
彼女は窓の下の欠けたタイルを指さしていた。
その隣の壁には、こはくの青い火で扉の輪郭が浮かんでいる。
灯里はメモ帳のページを一枚ちぎり、端を折った。
紙を目印にして、扉の形の横に押し当てている。
「これが、最初に撮った写真の向き! 今見える扉じゃなくて、こっち!」
俺たちの視線は、青い線へ集まった。
こはくが足を止める。
「……ここに、帰る道がある」
彼女は狐火を一つに集めた。
手のひらほどの青い炎が、細長い光の帯に変わる。
帯は扉の形に沿って伸び、壁の継ぎ目をなぞった。
熱はない。
「こはく、無理するな!」
「大丈夫……と言いたいけど、ちょっとだけ、無理してる」
彼女は額の汗を拭った。
「だから、朔。灯里ちゃん。ちゃんと帰ってね」
「こはくも一緒だろ!」
「うん。もちろん」
こはくは笑った。
「だけど、先にみんなを通して。それから私が行く」
「分かった。すぐ戻ってきて」
灯里が答える。
こはくは頷き、火をさらに強くした。
壁の一部が透ける。
向こうに見えたのは、旧講義棟の廊下だった。
非常口の案内板。
使い込まれた掲示板。
少し黄ばんだ照明。
今まで見たどんな光景より、普通で、安心できる景色だった。
「開いた!」
灯里が声を上げる。
相沢の手を引いて駆け寄った、そのときだった。
「……待って」
背後から声がした。
さっき話した、目の下に隈のある女子学生だった。
「私たちは……?」
胸が軋むように痛んだ。
彼女だけじゃない。
机に座っていた学生たちが、一人、また一人と顔を上げている。
みんな、この場所から帰りたいのだ。
俺は振り返った。
「一緒に来てください!」
思わず叫ぶ。
女子学生が椅子を引いた。
けれど、足が動かなかった。
名札の黒い糸が、彼女の影を床につないでいた。
「……名前が、分からない」
彼女は泣きそうな顔をした。
「私、帰りたい。どこへ帰りたいかも、まだ思い出せないけど……」
こはくが歯を食いしばる。
「朔。この火がつないでいるのは、今、帰る場所を思い出せた人の道だけなの」
「でも!」
「分かってる。分かってるよ……!」
こはくの狐耳が、髪のあいだから現れた。
いつもなら隠している姿だ。
それほど、彼女は力を使っている。
「全員を一度に引き出せる火じゃない。今みんなの糸を切ろうとしたら、出口ごと閉じちゃう」
俺は唇を噛んだ。
見つけたのに、助けられない。
相沢の手に力がこもる。
「……真柴くん」
彼は泣きそうな目で教室を見ていた。
「僕も、さっきまでああだったんだよね」
「……ああ」
「だったら、僕が外に出たら……また、来られる?」
俺はすぐに答えられなかった。
今、無事に帰れるかどうかも分からない。
また入れる保証なんて、どこにもない。
それでも、できないと決めつけたくなかった。
「方法を探す」
俺は女子学生へ向けて言った。
「あなたの話を、忘れません。写真の音が好きだったことも、帰りたいって言ったことも」
灯里がメモ帳を強く握った。
「私も、書きました。名前は分からなくても、ここにいたことは記録に残します」
女子学生は目を見開き、それから小さく頷いた。
「……ありがとう」
その声を背中に受けながら、俺たちは光の扉をくぐった。
◇
床が変わった。
靴の下にあった古い木目が消え、固い廊下の床が戻ってくる。
照明が眩しい。
それだけで、泣きたくなるほど安心した。
俺は相沢の手を離さず、振り返った。
青い扉の向こうに、こはくが立っている。
狐耳と尻尾を出したまま、彼女は必死に火を支えていた。
「こはく!」
俺が呼ぶ。
彼女の顔が上がる。
「朔、先に……」
「やだ」
思わず、子どもみたいな声が出た。
「ここで待ってる。一緒に帰るって約束したろ」
こはくが目を見開いた。
灯里も隣で頷く。
「こはくちゃん、今度は私たちが引っ張る番だよ」
俺たちは光の縁へ手を伸ばした。
こはくはしばらく迷ったようにこちらを見ていた。
そして、笑った。
「……ほんと、二人とも、頑固なんだから」
その手が、俺の手に重なる。
灯里も反対側から、こはくの腕を支えた。
三人の足が現実の廊下へそろった瞬間、青い扉は細い光になって消えた。
あとに残ったのは、何の変哲もない白い壁だった。
こはくがふらつく。
「おっと」
俺が肩を抱いて支えた。
彼女はそのまま、しばらく俺にもたれかかった。
「……ちょっとだけ、こうしてていい?」
「もちろん」
俺は答えた。
こはくの狐耳が、疲れたように垂れている。
俺も何も言わず、背中をそっと支えた。
灯里は通路の左右を確認し、スマートフォンの時計を見た。
「……七時四十八分」
俺も画面を見る。
秒が、ちゃんと進んでいる。
「戻ったんだな」
「うん。まだ、信じられないけど」
灯里の声は震えていた。
相沢は廊下の案内板を見つめている。
「……ここ、大学だ」
当たり前の言葉に、胸が熱くなった。
「そうだよ」
「僕、戻れたんだ」
彼は地図を胸に抱きしめた。
「……みんな、ありがとう」
俺は頷いた。
それ以上、すぐには言葉が出なかった。
ただ、四人とも、そこに立っていた。
欠けることなく。
壁の根元に、白い紙片が一枚だけ残っていた。
名札攫いの上着から剥がれ落ちたものだろうか。
裏返った紙には、細い文字が並んでいた。
俺が読もうとする前に、紙の輪郭が薄くなる。
「灯里、あれ!」
彼女がスマートフォンを向け、シャッターを切った。
紙片は、触れる間もなく消えた。
◇
受付へ戻ると、管理担当の職員が心配そうに立ち上がった。
「遅かったですね。連絡しようと思っていたところです」
時計は午後七時五十一分。
退館時間までは少し余裕があった。
「すみません。二階の廊下で、案内が分からなくなるようなことがあって……」
俺は言葉を選びながら説明した。
途中で見知らぬ教室のような場所が現れ、戻るまでに時間がかかり、一人の学生を連れてきたこと。
話し終える前に、職員の顔つきが変わった。
「見知らぬ教室? 二階の資料室から先には、使用していない区画があります。立ち入り禁止の表示は見ましたか」
「はい。許可された範囲から出ないつもりで、資料室から退館しようとしていたんです。ところが、通路の様子が急に変わって……」
「分かりました。まず、皆さんの体調を確認させてください」
職員は落ち着いて言った。
「めまいや、頭痛はありませんか。そちらの方は?」
視線が相沢へ向く。
相沢は自分の学生証を探し、上着のポケットをまさぐった。
指先が一枚のカードに触れる。
「……あった」
そこには写真と学籍番号があり、名前の欄には、はっきりと「相沢拓海」と印刷されていた。
俺は思わず、息を吐いた。
職員が確認し、学内の連絡先へ問い合わせる。
「一年生の相沢さんですね。少し休んでいきましょう。必要なら保健管理室にも連絡します」
「はい……」
相沢は椅子に座った。
彼の目にはまだ戸惑いが残っている。
だが、自分の名前を告げられても、もう苦しそうにはしなかった。
職員は俺たちの閲覧記録と利用区域を確認し、二階の異常について施設管理へ報告すると約束してくれた。
俺たちは、覚えていることと説明できないことを分けて伝えた。
誰かを危険な場所へ向かわせるつもりはないから、通路の確認は職員の判断で、複数人で安全に行ってほしいともお願いした。
相沢の体調に大きな異常がないことを確認してから、俺たちはようやく退館した。
外の空気は冷たかった。
けれど、教室の中にあった、底の見えない寒さとは違う。
夜の大学を吹き抜ける、ごく普通の春の風だった。
「……助かった」
相沢が校舎を振り返り、ぽつりと言った。
その横顔はまだ疲れていたが、ちゃんと生きた表情をしていた。
「俺、どうしてあそこにいたんだろう」
「分からないんだな」
「うん。授業が終わって、どこかへ行こうとして……それから先がぼんやりしてる」
「稲守さんが、青い火を持ってた気もするんだけど……夢かな」
相沢がこはくを見る。
「夢で片づけなくてもいいよ。でも、今は無理に思い出そうとしないで」
こはくは穏やかに答えた。
「落ち着いてから、また話そう」
「……うん。そうする」
相沢は少し考え、譲れないことがあるように口を開いた。
「でも、忘れたくないこともある」
彼は俺たち三人を見た。
「助けてもらったこと。名前を呼んでくれたこと。それだけは、ちゃんと覚えていたい」
灯里が静かに頷く。
「私たちも記録しておく。誰か一人が忘れても、ほかの人が確認できるように」
「……ありがとう、白瀬さん」
灯里が少し驚いた顔をした。
「私の名前、覚えてるの?」
「うん。何となくだけど、クラスで一緒だった気がする」
「よかった……」
彼女は胸を撫で下ろした。
こはくがこっそり、俺の袖をつまむ。
「朔。灯里ちゃん、すごく頑張ったね」
「ああ。いなかったら出口が分からなかった」
灯里がこちらを見る。
「聞こえてるよ」
「聞こえるように言った」
「……そういうの、急に言わないで」
灯里は照れたように顔をそむけた。
こはくが口元を隠す。
「ふふ。灯里ちゃん、顔が赤い」
「こはくちゃんだって、さっきまで朔くんにもたれてたでしょ」
「あれは、頑張ったご褒美です」
「じゃあ、私にもご褒美が必要かな」
「……何で二人とも俺を見るんだ」
少しだけ笑い声が上がった。
ついさっきまで、誰かの名前を失うかもしれない場所にいた。
それなのに今は、こんなくだらない会話ができる。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
◇
数日後、基礎演習の日。
いつもの基礎演習の教室へ行くと、見慣れた声が聞こえた。
「真柴くん! こっち空いてるよ!」
相沢だった。
席の端から手を振っている。
俺は思わず足を止めた。
「……おはよう」
「おはよう。何、その顔」
「いや……本当にいるんだなって」
「この数日、何回も確認してるじゃん」
相沢は呆れたように笑った。
「俺も、まだ変な感じするけどさ」
教室の窓から差す朝日が、彼の肩を照らしている。
俺はようやく、普通に笑い返せた。
「……そうだな」
授業前、担当教員が出席を取った。
「相沢拓海くん」
「はい!」
その返事を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
周囲の学生は誰も驚かない。
相沢がここにいるのが、当然のことになっている。
名簿にも、彼の名前が戻っていた。
ただ、事件のことを尋ねると、みんな不思議そうな顔をした。
「そういえば、しばらく見なかった気はするけど……体調でも崩してた?」
「あれ、先週って一緒に授業受けたっけ?」
そんな曖昧な返事ばかりだった。
消えていたこと自体を覚えているのは、俺と、記録を持つこはくと灯里、それに本人だけらしい。
授業が終わると、灯里が俺の机へ来た。
「朔くん。ちょっと、いい?」
「どうした?」
「写真、確認したい」
彼女はノートパソコンを開き、例の集合写真を見せた。
そこには、四人が並んでいた。
俺と、こはくと、灯里。
そして、俺の隣で少しだけ緊張した笑顔を浮かべる、相沢拓海。
「……戻ってる」
「うん。今朝、もう一度見たらこうなってた」
灯里の目は嬉しそうで、少し複雑でもあった。
「昨日まで空白だった場所に、ちゃんと写ってる。おかしいって分かってるけど……すごく、ほっとした」
「俺もだよ」
俺は写真を見つめた。
あの日、四人で並んだ記憶が鮮明によみがえる。
相沢が「家族に送る」と笑ったことも、こはくが俺の隣を譲らなかったことも。
「……でもね」
灯里が画面の下を指した。
「これ、まだおかしい」
地面に伸びた影が、五つあった。
四人しか写っていないのに、もう一つ、細長い影が重なっている。
その先端には、白い名札のような小さな形が見える。
「相沢くんの問題だけじゃ、なかったんだね」
「……そうみたいだ」
俺は頷いた。
昨夜の講義室で見た、名前のない学生たち。
彼らは、まだあそこにいる。
ひとりを連れ戻したからといって、すべてが終わったわけではなかった。
灯里は、パソコンを閉じる前に俺を見た。
「朔くん」
「ん?」
「昨日、相沢くんの名前を呼び続けてたよね」
「ああ」
「正直、すごく怖かった。私、自分の名前すら忘れたらどうしようって……何度も考えた」
彼女は指先を組み合わせた。
「でも朔くんは、誰かに忘れられても、その人を見捨てなかった」
「俺も怖かったよ」
「知ってる。手、震えてたもん」
そう言って、灯里は少し笑う。
「だから、余計にすごいと思った」
俺は答えに困り、窓の外を見た。
「……一人じゃ、何もできなかった。灯里が写真を見つけてくれなかったら、出口も分からなかったし」
「こはくちゃんが火をつないでくれなかったら、帰れなかったしね」
「そう」
俺は頷く。
「三人だったから、助けられた」
灯里は一瞬黙った。
それから、少しだけ頬を赤くして言う。
「……そういうふうに、ちゃんと一緒って言ってくれるところが、好き」
俺は固まった。
「……え?」
「調査仲間として、だよ!」
灯里が急いで付け足す。
「そ、そうだよな」
「……今の反応は、ちょっと失礼じゃない?」
「いや、驚いて」
「何に?」
「その……言葉の勢いに」
灯里はしばらく俺を見つめ、それから吹き出した。
「朔くんって、意外と分かりやすいね」
「勘弁してくれ」
彼女の笑顔は、あの講義室で見たものよりずっと明るかった。
◇
夕方、俺たちは大学の時計台前に集まった。
約束した通り、四人で。
相沢は早めに来ていて、時計を見上げていた。
「本当に、ここに来れば会えるんだな」
「おまえが教えてくれたんだろ」
俺が言うと、相沢は笑う。
「うん。やっと実感が出てきた」
こはくはいつもの人間の姿に戻り、明るい色のカーディガンを羽織っていた。
昨夜の疲れはまだ少し残っているようだが、顔色はよくなっている。
「じゃあ、写真撮ろっか」
灯里がカメラを構える。
「今度は四人全員、ちゃんと写ろうね」
「撮ってくれる人がいないと、白瀬さんが入れないんじゃない?」
相沢が尋ねる。
「今日は三脚を持ってきたの」
灯里は小さな三脚を広げ、タイマーを設定した。
「準備いいな」
「念入りにね。今度の写真は、絶対に変にしたくないから」
俺たちは時計台を背に並んだ。
相沢が俺の隣へ来る。
その反対側にこはく、さらに灯里。
「朔、ちょっとこっち寄って」
こはくが俺の袖を引く。
「もう十分寄ってるだろ」
「あと三センチ」
「何でそんなに細かいんだ」
「女の子の希望は、ちゃんと聞くものです」
灯里が横から笑う。
「こはくちゃん、私も入るから押しすぎないでね」
「はーい」
相沢が、俺たちを見比べて首を傾げた。
「……真柴くんって、二人と付き合ってるの?」
「違う!」
反射的に答えた。
こはくが不満そうに頬を膨らませる。
「即答しなくてもいいのに」
灯里は口元を隠した。
「ふふ。今の、写真に残したかったな」
シャッターのタイマー音が鳴り始める。
俺たちは慌ててカメラへ向いた。
かしゃん。
いつもの乾いた音が、夕方のキャンパスに響く。
その音を聞きながら、俺は思った。
こういう、何でもない一瞬が、ちゃんと残ればいい。
誰かの名前も、笑顔も、約束も。
たとえ不思議な力で消されそうになっても、呼び戻せるように。
◇
その夜、灯里からメッセージが届いた。
『旧講義棟で撮った写真、もう一枚変なのがあった』。
添付されていたのは、現実の廊下で、消える直前の白い紙片を撮った写真だった。
写真を拡大すると、紙片の裏に文字が見えた。
『名は、いずれすべて喰われる』。
俺は画面を見つめた。
名札攫いの姿は、もう目の前にはない。
相沢は戻った。
けれど、あの講義室に残された人たちも、この町の古い石碑から消えた文字も、まだ答えが出ていない。
スマートフォンが震える。
今度は、こはくからだった。
『朔、起きてる?』。
俺は『起きてる』と返した。
すぐに次のメッセージが届く。
『あの日、ちゃんと名前を呼べてよかったね』。
胸が温かくなる。
俺は『ああ。こはくも、灯里も、ありがとう』と打った。
送信したあと、少しだけ考えて、もう一文を足す。
『今度は、あそこに残った人たちの名前も探そう』。
返事はすぐに来た。
『うん。一緒に』。
その短い言葉を見つめながら、俺は窓の外へ目を向けた。
夕凪市の夜景は、いつも通り穏やかだ。
大学の時計台は、遠くからでも見えた。
あの場所で、明日も誰かと待ち合わせができる。
今は、それが何より嬉しかった。
だけど、写真の紙片に書かれた言葉は、簡単には消えてくれない。
名を喰うものが、まだこの町のどこかにいる。
俺たちの大学生活は、ようやく始まったばかりだった。
――第八話 了




