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怪異が見える俺と、恋する彼女たち  作者: 天音シオン
第一巻 妖狐の幼馴染と、名簿から消えた学生

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第七話 名前のない講義室

『次の方。お名前を』


 扉の向こうから聞こえた声は、ひどく丁寧だった。


 大学の窓口で順番を待っているときに聞こえても、おかしくないくらいに。


 ただし、声には息づかいがなかった。


 木製の扉の横にある白い番号札が、かたかたと揺れている。


 俺、真柴朔(ましばさく)は、その揺れから目を離せなかった。


 右手を握る稲守(いなもり)こはくの指が、もう一度強くなる。


 左手では、白瀬灯里(しらせあかり)が息を殺していた。


「……返事、しないで」


 こはくが唇だけを動かす。


 俺は小さく頷いた。


 返事をしてはいけない。


 その理由を聞きたいのに、質問さえ声に出すのが怖かった。


 俺たちは旧講義棟の二階にいる。


 資料室の利用許可をもらい、受付に学生証を見せ、午後八時までに帰る約束をして入った。


 だから本来なら、どれほど不可解なものを見つけても、引き返せばいいだけだ。


 俺は二人の手を軽く引き、来た道へ足を向けた。


 一歩。


 床板が軋(きし)む。


 二歩。


 廊下の奥で、ぱちん、と何かが弾けた。


 振り返らないまま、三歩目を踏み出す。


「……待って」


 灯里が立ち止まった。


「あそこ、資料室の扉だったよね」


 壁を見た。


 さっきまで資料室のプレートがあった場所に、古い掲示板が掛かっている。


 学生向けの連絡事項が何枚も貼られていた。


 ただし、見出しの下は、どの紙も白紙だった。


「入ってきた部屋が……消えた?」


 俺の喉から、かすれた声が出る。


「違う。道順を、ずらされてる」


 こはくは壁に触れ、すぐに手を離した。


「ここは、さっきまでの廊下じゃない。でも、まだ完全には向こう側でもない」


「向こう側って、あの扉の?」


 灯里が尋ねる。


「うん。境目が伸びてきてるの」


 俺はポケットからスマートフォンを取り出した。


 画面には午後七時二十七分と表示されていた。


 数秒後、数字が七時二十六分に戻る。


「……時計も変だ」


「私のは七時二十七分のまま」


 灯里が自分の画面を見せる。


 時刻は同じなのに、秒だけが動かない。


「受付に電話してみよう」


 俺は連絡先を開いた。


 呼び出し音は鳴らなかった。


 代わりに受話口から聞こえてきたのは、紙を一枚ずつめくる音だ。


 ぱらり。


 ぱらり。


『次の方』


 すぐに通話を切った。


 指先に冷たい汗が浮かぶ。


「つながらない」


「こっちも圏外」


 灯里が言った。


 こはくはポケットから小さな青い光を取り出すように、掌(てのひら)を開いた。


 狐火(きつねび)だ。


 炎なのに熱はなく、手のひらの少し上で静かに揺れている。


 その明かりに照らされると、掲示板の白紙に薄い文字が浮かんだ。


 ――欠席者、なし。


 灯里が息を呑む。


「誰も欠席してないってこと?」


「全員、ここに集めたつもりなのかも」


 こはくの声は硬かった。


「この火で出口を探せない?」


 俺が聞くと、彼女は小さく首を振る。


「境目は分かる。でも、どっちが外かまでは、まだ分からない」


 狐火の先端が、教室の扉へ向かって傾いた。


 誰かに呼ばれているみたいに。


 そのとき、扉の奥で椅子が動く音がした。


 ぎい、と木の脚が床をこする。


『……すみません』


 弱々しい若い男の声。


『ぼく、どこに座ればいいんでしたっけ』


 俺は呼吸を忘れた。


 聞き覚えがあった。


 教室の後ろで「迷ったら時計台だって」と笑っていた、あの声に。


「相沢……?」


 思わず名前がこぼれる。


 こはくが俺の口元に手を寄せた。


「朔、まだ呼ばないで」


「ごめん。でも、今の声……」


「うん。聞こえた」


 灯里の視線が扉へ向く。


 彼女は相沢拓海(あいざわたくみ)のことを、もう思い出せない。


 それでも、俺が何日も探してきた相手の名前は、何度もノートに書いてくれていた。


「確認したい。だけど、このまま入るのは危ないよね」


「危ない」


 こはくが即答した。


「しかも私たち、許可された区域を越えることになる。人間の決まりでも、怪異の決まりでも、よくない」


「じゃあ、やっぱり出口を……」


 俺が言いかけたとき、足元がふっと軽くなった。


 長い廊下のはずなのに、すぐ前に木製の教壇が現れる。


 踏み出した覚えはない。


 扉を開けた覚えもない。


 ただ、気づけば三人の靴が、教室の古い床板を踏んでいた。


 背後で、ことり、と静かな音がした。


 振り返る。


 扉は閉まっていた。


 内側の番号札も、白かった。


     ◇


 その講義室は、妙に懐かしかった。


 階段状に席が並ぶ新しい教室ではない。


 二人掛けの木の机が整然と並び、黒板の上には古びた丸時計が掛かっている。


 窓の外は夜のはずなのに、すりガラス越しに灰色の光が差していた。


 雨が降る直前の、曇った午後みたいな明るさだ。


 教室には十数人の学生が座っていた。


 顔も服装も、ばらばらだった。


 今どきのパーカーを着た学生の隣に、古い形の制服らしい上着を着た人がいる。


 誰も前を向いていない。


 けれど、誰も立ち上がろうとしない。


 それぞれ机の上の小さな札を見つめていた。


 まっさらな、白い名札を。


「……何、これ」


 灯里が息を吐く。


「大学の教室に、こんな人たちがずっといたの?」


「たぶん、同じ時間の人たちじゃない」


 こはくが囁いた。


「古い服の人もいる。普通なら、とっくに卒業してる」


 俺は一番近い席の男子学生を見た。


 腕にまだ新しそうな講義ノートを抱えている。


 表紙には日付だけがあり、名前を書く欄は空白だった。


「あの……ここ、何の授業ですか」


 できるだけ小さな声で尋ねる。


 男子学生はゆっくり顔を上げた。


「授業……?」


「そうです」


「分からない。出席を取るって言われて、それで」


 彼は机の名札に視線を戻す。


「まだ、呼ばれてないんだと思う」


「ずっとここにいるんですか」


「ずっと、って……どのくらい?」


 俺は答えられなかった。


 彼の後ろの席から、短い笑い声がした。


「時間なんて、ある?」


 声の主は、短い髪の女子学生だった。


 目の下に濃い隈(くま)がある。


「朝だと思ってたら夕方で、夕方だと思ったら、また講義が始まるの。先生が来て、出席を取るって言って……」


「出席を取ったら、帰れるんですか?」


 灯里が尋ねた。


 女子学生は首を傾げる。


「帰る?」


「自分の家に」


「ああ、家」


 彼女は懐かしい言葉を聞いたように笑った。


「あったね、そういうの」


 その笑顔に、背中が冷たくなる。


「家族の顔は覚えてますか」


 俺が聞く。


「顔は……たぶん。でも、呼び方が分からない」


 彼女は何度か口を動かした。


「お母さん、って呼べばいいのかな。あの人には、ほかにも名前があった気がする」


 唇が震える。


「私にも、あったはずなのに」


 灯里が鞄から小さなメモ帳を出した。


「覚えていること、書けますか」


「書く?」


「はい。好きな食べ物でも、帰りたい場所でも」


 女子学生は渡された鉛筆を握った。


 しばらく考え、紙に一文字だけ書く。


 『駅』。


 次の文字を書こうとした瞬間、紙の上で『駅』の字が滲(にじ)んだ。


 鉛筆の芯は触れていないのに、黒い線が薄くなる。


「……あれ?」


 女子学生は何度も書き直した。


 そのたび、書いた文字が紙に吸い込まれるように消えていく。


「やっぱり、駄目だ」


 諦めた声だった。


 灯里はメモ帳を引き寄せ、同じページの端に自分で『駅』と書いた。


 その字は消えなかった。


 女子学生が目を見開く。


「どうして……」


「分かりません。でも、私たちが書いたものは残るみたいです」


「残る……」


 彼女はその二文字を噛みしめるように繰り返した。


 こはくが俺の袖を引く。


「朔、長く話しちゃ駄目。ここにいる人たちは、名前だけじゃなく、帰るための縁まで薄くなってる」


「縁?」


「人を人につないでいるもの。呼ぶ声とか、待っている人のこととか」


 俺は教室を見渡した。


 机の上の白い札は、名札というより、切り取られた穴に見えた。


 ここにいる人たちは、誰にも呼ばれなくなってしまったのか。


 それとも、呼ばれていた事実まで奪われたのか。


 俺には、まだ分からない。


 ただ、一つだけ分かることがあった。


「……いる」


 教室の奥。


 窓際から二列目の、後ろの席。


 少し猫背で、机に紙を広げている男子学生がいた。


 短い黒髪。


 右の眉の端にある小さな傷。


 考え込むと口の端を片方だけ下げる癖。


 そんな細かいところまで、俺にははっきり見えた。


「相沢だ」


 今度は声をひそめた。


「あそこにいる。間違いない」


 灯里が俺の指先を追った。


「あの、窓際の人?」


「うん」


「見えるけど……何だろう。顔を覚えようとしても、すぐ曖昧になる」


 彼女は目を何度か瞬かせた。


「さっき見たばかりなのに、目を離すと分からなくなる」


 こはくも眉を寄せている。


「私も同じ。朔には、ちゃんと見えてるんだね」


「ああ」


 相沢の姿だけが、教室のほかの誰より鮮明だった。


 まるで、そこだけ輪郭を強く描いた絵のように。


 俺がそう感じているあいだにも、隣の席の学生の顔は少しずつ曖昧になっていく。


 見えるというより、忘れない。


 その差が、この場所では恐ろしく大きかった。


「行こう」


 俺は一歩踏み出した。


 こはくが手を離さず、前へ出る。


「待って。三人で動こう」


「うん。別行動はしない」


 灯里がすぐに答える。


 俺たちは机の列の間を歩いた。


 誰もこちらを止めなかった。


 ただ、通り過ぎるたびに、机の札がかすかに鳴った。


 かち。


 かち。


 出席を取る先生が、指で名簿をめくるような音だった。


     ◇


「……あの」


 相沢の席に近づいたとき、彼のほうから顔を上げた。


「何か用ですか」


 俺は立ち止まった。


 その声も顔も、間違いなく相沢拓海だった。


 基礎演習の初日に、空いている席を探して迷っていた彼。


 人懐っこく笑って、自分から話しかけてきた彼。


 写真を撮るとき、実家へ送るんだと嬉しそうに言っていた彼。


 なのに、今は俺を見ても、何の反応もない。


「俺のこと、覚えてるか」


 言いながら、胸が締めつけられた。


 相沢は申し訳なさそうに眉を下げた。


「ごめんなさい。ここに来てから、顔と名前がうまくつながらなくて」


「そっか」


「知り合いだったんですか?」


「ああ。同じ授業を受けてた」


「同じ……」


 相沢は机の紙を見た。


 大学のキャンパスマップだった。


 折り目が多く、角は柔らかくなっている。


 俺の知っている相沢は、これを何度も広げていた。


 最初の週、教室を探して大学を一周したと笑いながら。


「その地図、覚えてる」


「僕も、これだけは持ってた気がするんです。でも、どこへ行こうとしてたのか分からなくて」


 彼は地図をひっくり返した。


 建物名が記されたはずの場所は、どこも白い。


 道だけが細く印刷されていた。


「行き先がない地図って、変ですよね」


 軽く笑う。


 いつもの彼なら、そこに冗談を一つ添えるところだ。


 けれど、笑ったあとで、相沢は自分の口元を不思議そうに触った。


「……僕、今まで、どんなふうに笑ってたんだろう」


 胸の奥が痛んだ。


「きみは、よく笑ってたよ」


 俺は答えた。


「道に迷っても、人に聞くのがうまくて。知らない相手にも、すぐ友達みたいに話しかける」


「そうなんだ」


「写真を撮った日も、みんなで写るのを楽しみにしてた」


 相沢の指が、地図の端をつまんだ。


「写真……」


 わずかに声が揺れる。


「それ、誰に見せる予定だったか、分かりますか」


「家族に送るって言ってた」


 彼は口を閉じた。


 ゆっくり、ゆっくり頷く。


「……そうかもしれない」


 何かを思い出しかけたように見えた。


 だが、次の瞬間、彼の机にある白い名札が一度だけ黒ずんだ。


「……あれ」


 相沢が目を瞬かせる。


「今、何の話をしてましたっけ」


 俺は言葉を失った。


 取り戻しかけたものが、目の前で抜け落ちた。


「朔くん」


 灯里が低い声で呼ぶ。


 彼女は名札を見つめていた。


「今、この札が変わった。黒い線が、一瞬だけ出たよ」


「見えた?」


「うん。……それに、私の記憶も」


 灯里は額に手を当てた。


「『相沢くん』ってノートに書いたことは覚えてる。なのに、その相沢くんが、いま目の前にいる人なのか、頭の中で結びつかない」


 こはくが相沢の札に狐火を近づけた。


 白い表面に、細い黒い糸のようなものが絡んでいた。


 火を近づけると糸は縮む。


 しかし、消えない。


「これ……名前を取って終わりじゃない」


 こはくが呟(つぶや)く。


「取られたあとも、何度も薄くされてる」


「じゃあ、俺がここで話しても」


「そのたび、向こうが消しているのかもしれない」


 相沢は俺たちの会話を聞いて、困ったように笑った。


「僕、何か悪いことをしたんでしょうか」


「してない」


 即座に答えた。


「何も悪くない。これは、君のせいじゃない」


 相沢は目を伏せた。


「そう言ってもらえると、ちょっと安心します」


 その言葉が、ますますつらかった。


 俺はこの人を知っている。


 相沢拓海の名前も、声も、笑い方も知っている。


 それなのに、どうすれば返してやれるのか分からない。


 怪異が見える。


 触れることもできる。


 けれど俺には、何かを祓(はら)う力なんてない。


 伸ばした手で、名前を取り戻せるわけでもない。


 こはくの狐火だけに頼って、危険を押しつけるわけにもいかなかった。


「いったん、落ち着こう」


 灯里が言った。


「思い出してもらう方法を探す。そのためにも、この場所のことを記録したい」


「記録?」


「写真と、手書きの両方で」


 彼女は肩に掛けたフィルムカメラを持ち直した。


「おじいちゃんのカメラ、持ってきてよかった。何が写るかは現像しないと分からないけど、少なくともシャッターを切った場所と順番は残せる」


「スマホでも撮る?」


「うん。ただ、さっき白い札を撮ったときは、画面の中で黒く潰れた。だから両方」


 灯里はスマートフォンで教室の入口を撮った。


 画面には、教室の後方に扉が二つ写っていた。


 俺たちが入ってきたのは、一つだけだったはずだ。


「……見て」


 彼女が画面を向ける。


 写真を撮り直すと、今度は扉が三つになった。


「増えた?」


「私の目には、一つしか見えてない」


 こはくが振り返る。


 確かに、実際の壁には扉が一つだった。


 灯里は撮影時刻と枚数をメモした。


「一枚目と二枚目で位置が違う。部屋が変わっているのか、写真のほうが違うものを見せているのか……まだ決めつけない」


「それでも、違いが残るのは大きいな」


「うん。私たちの記憶まで、ここで変えられたら困るから」


 灯里はカメラのファインダーを覗(のぞ)いた。


 黒板、時計、後方の扉。


 それぞれをゆっくり確かめてから、シャッターを切る。


 かしゃん。


 静まり返った教室に、乾いた音が響く。


 何人かの学生が顔を上げた。


「ごめんなさい。驚かせましたね」


 灯里が頭を下げる。


 すると、前の席の女子学生が小さく言った。


「……いい音」


「え?」


「外にいたとき、そんな音を聞いた気がする」


 灯里の目が揺れた。


「写真、好きだったんですか?」


「分からない。でも、好きだった、と思う」


 女子学生は一瞬だけ微笑んだ。


 その笑顔を見て、灯里もゆっくり頷いた。


「じゃあ、忘れないように、私が書いておきます」


 メモ帳に『写真の音が好きだった人』と記す。


 名札ではない。


 本当の名前の代わりにもならない。


 それでも女子学生は、文字を見つめて、ありがとう、と声に出した。


     ◇


 こはくの狐火が、急に細くなった。


「……来る」


 短い言葉だった。


 教室の空気が変わる。


 誰も触れていないのに、窓が一斉に震えた。


 黒板の上の時計が、一度だけ大きく鳴る。


 かん。


 針は七時二十七分で止まっていた。


 教室の前方。


 教壇の裏側から、紙を引きずるような音が聞こえた。


 ずるり。


 ずるり。


 やがて、教卓の横に人影が立った。


 黒い上着を着た教師のような姿。


 肩からは、何枚もの名札が垂れ下がっている。


 白い紙、古い金属製の札、透明な名札入れ。


 種類も時代も違う札が、鱗(うろこ)のように重なっていた。


 顔があるべき場所には、ただ暗いくぼみがある。


 その奥で、銀色の留め具がかちかちと動いた。


『出席を、確認します』


 さっきの声だ。


 学生たちが、同時に背筋を伸ばした。


 まるで体が勝手に反応したみたいに。


 俺も危うく返事をしそうになり、歯を噛み合わせた。


 こはくが俺の前に半歩出る。


「……名札攫(なふださら)い」


「それが、こいつの名前?」


 俺が囁く。


「昔の言い伝えに出てくる怪異。呼ばれなくなった名前や、忘れられかけた名前を拾い集めるの」


「拾うって、こんなふうに人ごと……?」


「本来なら、落とし物みたいに残った名を攫うだけ。だけど、これは違う」


 こはくは目の前の怪異を睨んだ。


「名前が落ちるのを、待たずに奪ってる」


 名札攫いの顔のくぼみが、こちらへ向いた。


『登録のない方が、三名』


 からり、と札が鳴る。


『お名前を』


 教室中の視線が俺たちへ集まった。


 隣の席の男子学生まで、白い名札を握りしめている。


 その手は震えていた。


「……答えたら、どうなる?」


 灯里が声を落とす。


「札に書かれて、ここへ縛られる可能性が高い」


 こはくが答える。


「でも、黙っていても、向こうは興味を持つ」


「じゃあ、どうする」


「少しだけ時間をちょうだい。火で、出口につながる糸を探す」


 こはくが掌を握り、狐火を小さく分けた。


 青い炎が三つ、俺たちの足元を照らす。


 灯里はその動きを見て、ゆっくり鞄の口を開いた。


 中からペンとメモ帳を取り出す。


 そして紙に、大きく書いた。


 『声で名乗らない』。


 俺に見せ、次にこはくに見せる。


 二人で頷いた。


 灯里は続けて『入口を記録中』『別れない』と書く。


 この場所にいる人の文字は消えた。


 けれど、俺たちの文字は今のところ残っている。


 それが、細い命綱に思えた。


『お名前を』


 名札攫いがもう一度尋ねる。


 こはくは返事をしない。


 代わりに、俺の右手をきゅっと握った。


 灯里も左手に指を添える。


 いつものような、からかい半分の取り合いではなかった。


 三人が離れないための合図だ。


 俺は二人の手の温度を確かめた。


 怖い。


 正直に言えば、今すぐ逃げ出したい。


 でも、相沢は席に座ったままだ。


 後ろの席の女子学生も、さっき書かれた『写真の音が好きだった人』の文字を、必死に見つめている。


 この人たちを置いて帰れば、誰が名前を呼ぶんだろう。


 俺は相沢のほうを見た。


 彼は名札攫いを見つめ、体を縮めていた。


 その顔には、はっきりとした恐怖があった。


 怖いと思えるなら。


 帰りたいと思えるなら。


 まだ、失われきってはいない。


『出席の確認には、協力が必要です』


 名札攫いがゆっくり教壇を降りた。


 歩くたびに、重なった札が触れ合う。


 かしゃ、かしゃ。


 乾いた、骨のような音だった。


 こはくが炎を少し強くする。


 青い光が床を這い、教室の後ろへ伸びた。


 その瞬間、壁の色が変わる。


 窓の下に、もう一つ、木製の扉が現れた。


 俺たちが入ってきた扉とは、反対側だ。


 灯里が反射的に写真を撮る。


 シャッター音と同時に、その扉が薄くなった。


 まるで、撮られたのを嫌がったみたいに。


「……こはく」


 俺が小声で呼ぶ。


「見えた。あの扉、たぶん外へ近い」


「たぶん?」


「うん。だけど、糸が途中で切れてる」


 青い炎は床の上でふるえ、扉の手前でほどけてしまった。


「このままだと、開いても同じ教室に戻される」


「じゃあ、道をつなぎ直す必要があるんだね」


 灯里が書き留める。


「記録はある。位置も撮った。あとは、つながるきっかけ……」


 彼女が言いかけたとき、名札攫いが動きを止めた。


『写真を、撮りましたね』


 暗いくぼみが灯里へ向く。


 灯里の肩がびくっと跳ねた。


『記録の複製は、申請が必要です』


 こんな場所でまで、事務的な言い回しをする。


 それがかえって不気味だった。


「……申請書、見当たりませんけど」


 灯里が震えながらも答える。


 俺は驚いて彼女を見た。


「名前は言ってないよ」


 灯里は小声で続ける。


「何か話して、気をそらせたらって……少しだけ」


 こはくは一瞬困った顔になり、それから小さく頷いた。


『申請者のお名前を』


 結局そこに戻る。


「……徹底してるね」


 灯里が引きつった笑みを浮かべる。


 俺は思わず返した。


「大学の窓口より厳しいかもな」


 こはくが俺の腕を軽くつねる。


「笑わせないで。火がぶれる」


「ごめん」


 でも彼女の口元も、ほんの少しだけ緩んでいた。


 名札攫いの胸元から、一枚の札が滑り落ちる。


 床に触れる直前、ひとりでにひっくり返った。


 裏面には、消えかけの文字があった。


 ひらがな一文字。


 『あ』。


 相沢の頭が、がくんと下がる。


「……っ」


 俺は駆け寄ろうとした。


 こはくが腕を伸ばして止める。


「朔、今は近づかないで!」


「でも、あいつが……!」


「気づいてる。だから、順番を見て」


 こはくが指したのは黒板だった。


 さっきまで何も書かれていなかった黒板に、白い文字が浮かびつつある。


 『本日の出席者』。


 その下に、横線が十数本。


 一人分ずつ、名前を書くための空欄だ。


 やがて、一番下の横線が三本に増えた。


「……俺たちの分か」


 名札攫いは、こちらに歩いてこない。


 ただ、教卓の横に立ったまま、透明な札入れを一つ持ち上げた。


 中は空白だ。


『名のない方には、仮の席を』


 がたん。


 教室の後ろに、新しい机が一つ現れた。


 がたん。


 その隣に、もう一つ。


 がたん。


 三つ目の机が、出入口をふさいだ。


「……座らせる気だ」


 灯里の声が震えた。


 教室の壁が、一段近づいたように見える。


 床の木目がゆっくり流れ、新しい三つの机へ向かって俺たちの足を押す。


 俺は足を踏ん張った。


 重心が崩れる。


「朔!」


 こはくが俺を支える。


 狐火が青い輪になって三人の足元を囲み、木目の動きが止まった。


 こはくの額に汗が浮かぶ。


「……長くは、持たない」


「無理するな!」


「無理しなきゃ、席につかされるよ」


 悔しいけれど、その通りだった。


 俺は戦えない。


 こはくの火を守ることも、相沢の札から黒い糸を外すこともできない。


 そんな俺にも、一つだけできることがある。


 忘れないことだ。


 俺は窓際の席を見た。


 相沢は机に両手をつき、苦しそうに息をしている。


 その前には、白い地図。


 端が折れた、見慣れた地図。


 もし名前を呼ぶことが何かを変えるなら、今すぐ呼びたい。


 でも、そのせいで奪われるものが増えたら。


 俺は拳を握りしめた。


 その迷いを見透かしたように、名札攫いの声が降ってくる。


『お知り合いですか』


 俺は顔を上げた。


『その席の方を、覚えているのですね』


 教室の空気が、ぴんと張りつめる。


 こはくが息を止めた。


 灯里が俺の袖をつかむ。


 名札攫いの顔の暗闇に、銀色の留め具が二つ並んだ。


 笑っているようにも見えた。


『おかしいですね』


 ぱらり、と空中で名簿がめくれる。


『この方は、もう、どなたにも呼ばれていないはずなのに』


「……そういうことか」


 俺は低く言った。


 相沢の名前を忘れない俺が、こいつには邪魔なんだ。


 名前を消したことにしても、覚えている人間が一人残っている。


 だから、わざわざ俺たちをここまで引き込んだのかもしれない。


『確認させてください』


 名札攫いが札を掲げる。


『あなたは、誰ですか』


 その問いは、今までの事務的な調子とは違った。


 俺の内側へ、細い針を差し込んでくるようだった。


 真柴朔。


 十八歳。


 東雲大学の一年生。


 こはくの幼馴染で、灯里の同級生。


 自分を説明する言葉が、頭の中を駆け巡る。


 そして、ひとつ言いかけるたびに、その言葉が舌の先まで引きずり出されそうになる。


「……っ」


 俺は歯を食いしばった。


 こはくの手が、頬に触れる。


「朔。私を見て」


 振り向く。


 青い狐火に照らされた、見慣れた顔があった。


 子どもの頃から、何度だって俺の名前を呼んでくれた顔。


「言わなくていいよ。自分が誰か、ここで説明しなくていい」


 こはくは無理に笑おうとした。


 その目が、少し潤んでいる。


「私が知ってるから」


 胸の奥に、温かなものが戻った。


 反対側から灯里が、俺の手を握った。


「私も知ってる」


 彼女は震える息を整えた。


「授業で隣になって、写真を撮るとき困った顔して、こはくちゃんにすぐからかわれる人」


「……そこまで覚えてなくてもいいだろ」


「大事なところだもん」


 灯里が、かすかに笑った。


「だから、私たちにまで分からなくなるようなこと、させない」


 俺は頷いた。


 名札攫いへ名乗らなくても、俺が俺であることは消えない。


 少なくとも、今は。


     ◇


 灯里が俺の手をそっと離し、メモ帳を開いた。


 そこには、さっき彼女が書いた文字が残っていた。


 『声で名乗らない』。


 『入口を記録中』。


 『別れない』。


 そして、いつのまに書いたのか、新しい一行があった。


 『戻ったら、三人の名前を確かめる』。


 俺が顔を上げると、灯里は照れたように視線をそらした。


「念のため。忘れることが怖い場所だから、忘れちゃいけないことを書いておきたかったの」


「……ありがとう」


「どういたしまして。あと、後でちゃんとお礼してね」


「何がいい?」


「無事に帰れたら、考える」


 こはくが小さく咳払いした。


「そのお礼、私も一緒に考えていい?」


「こはくちゃんにも、もちろん」


「じゃあ、朔の予定を一日もらおうかな」


「相談が早いな」


 こんな場所なのに、少しだけいつもの三人に戻った。


 それは、一瞬のことだった。


 名札攫いの上着が、ばさりと広がる。


 何十枚もの白い札が、空中へ舞った。


 教室の学生たちが、一斉に顔を伏せる。


『未提出の名が、ございます』


 白い札が俺の周囲を回る。


 こはくの狐火が触れると、札は黒い煙になって退いた。


 しかし、すぐに別の札が押し寄せる。


「こはく、火が……!」


「大丈夫。まだ、消してない!」


 そう言いながら、彼女の膝がわずかに折れた。


 灯里が肩を支える。


「こはくちゃん、私にできることは?」


「……後ろの扉。写真に写ってた位置を、教えて」


 灯里はすぐにスマートフォンを開いた。


 画面の中には、入口が四つ並んでいた。


「増えてる……でも、最初の写真に写ってた扉は、左から二番目。その右に黒板がある」


「今は?」


「目で見ると、扉は一つ。黒板からの距離が合わない」


「一番初めに撮った写真を、覚えてて」


 こはくが狐火の一つを後方へ飛ばした。


 青い光が教室の壁を撫(な)で、見えない継ぎ目を浮かび上がらせる。


 灯里が声を上げた。


「そこ! 机の列が切れるところ。写真だと、そこに廊下が続いてた!」


 光が集まり、壁に長方形の輪郭をつくる。


 確かに、扉の形だった。


 けれど、その輪郭の真ん中には、細く黒い裂け目が走っている。


「……まだ、つながらない」


 こはくが唇を噛んだ。


「何か足りない」


「何が?」


「帰る場所を示すものか、帰る人を呼ぶものか……」


 言いながら、彼女は相沢のほうを見た。


 俺も目を向ける。


 相沢は立ち上がりかけていた。


 両手を机につき、何かを必死に探している。


「……時計」


 小さな声が聞こえた。


「時計が、あったはずなんです」


 俺は息を呑んだ。


 相沢は地図を見つめていた。


「待ち合わせに、遅れるとき……どこへ……」


 彼の指が地図の中央を押さえる。


 薄く消えていた紙の折り目のあいだに、鉛筆の跡が残っていた。


 何度もなぞられて、くぼみになった文字。


 『迷ったら時計台』。


 俺は、その言葉を知っている。


 基礎演習の日に、相沢が笑いながら教えてくれた言葉だ。


 誰かが忘れても、紙のくぼみには残っていた。


「……覚えてる」


 思わず、俺は口にした。


 相沢が顔を上げる。


「何を?」


「おまえが、迷ったらそこへ行くって」


 彼の目が揺れた。


 あと少し。


 何かをつなげられそうだった。


 しかし、名札攫いがこちらを向いた。


『その方の記録は、処理済みです』


 真っ白な札が、相沢の机の上で跳ねた。


 彼の指から力が抜ける。


 地図が床に落ちた。


「相沢!」


 思わず、声が出た。


 教室中の白い名札が、いっせいに鳴った。


 ちりん。


 ちりん、ちりん。


 まるで、俺が口にした名前を確かめるように。


 こはくが振り返った。


「朔!」


 その顔に、責める色はなかった。


 ただ、何かが始まったことを、はっきり理解した表情だった。


 名札攫いの胸から、一枚の札が浮き上がる。


 相沢の机の札とは違う。


 新しく、真っ白な札だった。


 その表面に、黒い筆跡が一本ずつ生まれる。


 ま。


 し。


 ば。


 俺は背筋が凍った。


『確認しました』


 名札攫いが言う。


『あなたは、消えた方の名前を、まだ持っている』


 教室の黒板に、三本の空欄が濃く浮かぶ。


 そのうち一本の横に、小さな丸がついた。


『では、次はあなたの番です』


 札の上に、俺の名前の続きを書こうとする黒い線が動き出す。


 こはくの狐火が大きく揺れた。


 灯里がカメラを握りしめる。


 相沢は、まだ俺のことを思い出せないまま、落ちた地図を拾おうとしている。


 俺には、怪異を倒す力がない。


 それでも、目の前で奪われようとしている名前を、もう一度見失うわけにはいかなかった。


 俺は息を吸い、こはくと灯里へ視線を向けた。


 二人とも、頷いてくれた。


 俺たちにはまだ、互いの名前を呼び合う声がある。


 そして俺の中には、相沢拓海の記憶が、確かに残っていた。


 ――第七話 了


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